一目惚れさせる男、神田松之丞

 この人がその場所を選んでくれなかったら、と思うとどうなっていたのかと思うことがいくつもある。例えば、伊集院光がそのまま落語家を続けているが深夜ラジオをやっていなかったり、爆笑問題がコントを辞めずに続けていて漫才師じゃなかったら、SMAPがバラエティーに進出していなかったらなどだ。高崎聖子MUTEKIに行ってなかったら、というのもある。三上悠亜AKB48という看板を背負ってきた割には高崎聖子に喰われているなあとか、そういった意味ではやまぐちりこは攻守揃って最高だった。やまぐちりこには幸せであってほしいとか、そんな話は呑者家の末広通り店でレモンサワーを呑みながらやるからさておき、パラレルワールドを想像することは楽しい。だが、やはり、それは柱となる現実があるからこその添え物でしかないからだろう。
 兄弟子に頼まれてオーディションを受けたからとか、台本が覚えられなかったからとか、先輩の存在が大きすぎて敢えてそうせざるを得なかったとか、例えその選択がネガティブな理由によるものだとしても、それが結果論だとしても、その「人がジャンルを選んだのか、ジャンルが人を選んだのか分からない」状態は、それだけで物語となる。
 講談における神田松之丞が今まさに、そうだ。その神田松之丞がリリースした『松之丞 講談 -シブラク名演集-』というCDがとても良かった。
 『新世紀講談大全 神田松之丞』というDVDも出ていて、これももちろん良かったのだけれども、やはり落語や講談という演芸の性質上、視覚による情報がノイズに感じられることがあるのでCDの方が良い時がある。個人的には、生で見ていたとしても目をつぶって音だけを楽しみたくなる瞬間があるが、それはタイムマシーンのように、江戸時代にいるかのような錯覚に陥る最高にトリップできる時間だからだ。
 ちなみに、シブラクとは、サンキュータツオがキュレーターを勤めている「渋谷らくご」のことであり、そこのお客さんの良さも相まって、発せられている場の熱までもが、きちんとパッケージされていた。
 さて、いくつかの疑問が出てくる。講談って何だ、落語との違いは何だ、お笑いが好きで講談に興味を持っているという、ほぼ“いよいよだぞ”な状況に片足を突っ込んでいることに自覚はあるのか、などだ。そのぐらいには未知の領域だ。自覚はある。
 そこで、まずは、神田松之丞とは誰なのかという話からしたい。
 神田松ノ丞は、神田松鯉(しょうり)の弟子になり、2017年現在34歳の講談師である。メディアで紹介される際には「気鋭の」や「今チケットが取れない」と冠され、二つ目という位置ながらとてつもなく期待されている。

 神田松之丞が34歳でここまで注目されているということは、客からしてはとても助かる。年齢が近いということは、触れてきた文化だけでなく、世の空気感を少なからず共有しているということであり、これは伝統と現代のパイプとしてものすごく機能する。この場合の伝統と現代というのは、「講談と演者」であり、「演者と客」にあたる。
 つまり、我々と共通の認識を持った人が面白いと思ったものを、その人がさらに面白くして見せてくれるということである。
 次に講談と落語は何が違うのかというと、まず、原則的には演じる噺が違う。
 落語の演目についての説明や上方と江戸の違いについては省略するが、講談は、軍記や偉人伝などが演じられる。有名なもので言えば、忠臣蔵などであり、一度、江戸時代最強の力士である雷電為右衛門が初めて土俵にあがるというネタを見たことがある。
 あと、張扇(はりおうぎ、はりせん)を使って釈台(高座に設置されている台)を叩きながら、抑揚をつけながら話を進めていくのも大きな違いである。これがとても気持ちいいグルーヴを産み出していく。音源に何かを叩く音が聞こえるのはこのためであって、講談師の横で、ギャグボールを咥えてコックロックをはめて四つん這いになっている裸のおじさんの背中を叩いてるわけではない。
 演目の違いについて立川談志は、忠臣蔵を例えに出して、こう話したという。
「落語は忠臣蔵の四十七士じゃなく、逃げちゃった残りの赤穂藩士二百五十三人が、どう生きるかを描くもんだ。」
 逆説的に言えば、そういった人間のダメさ、間抜けさといったものは講談ではあまり描かれないのかもしれない。現代風に、かつ大雑把に言えば、ドラマとバラエティーといったところだろうか。どちらが勝っているかということではなく、単に描くものの違いだ。
 ちなみに、松之丞はもともとは立川談志のファンであり、そこから講談に入ったいったという。だからなのか、やはりと言うべきか、高座を聞いていると、業を肯定するような匂いが芬芬にしてくる。
 CDは二枚組で「荒川十太夫」「天明白浪伝~金棒お鉄」「天明白浪伝~首無し事件」、そしてボーナストラックとして「松之丞ひとり語り」が収録されている。
 「荒川十太夫」は、赤穂義士伝の討ち入りから数年後の後日談であり、「堀部安兵衛切腹介錯人を務めた荒川十太夫は、その際に堀部安兵衛に身分を問われる。低い身分だった荒川十太夫は、それでは申し訳ないと思い、身分を高く偽る。その後、堀部安兵衛の墓参りを続けていたが、ある日、偶然にもその身分を偽っていたことが自分の上司にバレてしまう」というもので、かなり地味な話だという。だが、美談であり、しっかりと聞かせてくる。
 「天明白浪伝 金棒お鉄」は「お金を貸した相手が病気になっていても元本の三倍にもなったお金を取り立てようとするごうつくな婆を長屋全員でやっつける」という話で、これは分かりやすく、落語チックだ。前半はシリアスでありながら、後半はドタバタになるから聞いていて楽しい。
 「天明白浪伝 首無し事件」は、モテない男が結婚するがその相手が首無し死体で見つかるという内容で、ミステリー仕立てになっている。まさに、聞き終わった後は、ドラマ一本見たような満足感をエルことが出来る。
初回では分かりづらかったりするかもしれない。でも、あらすじを調べてみたり、何度も聞き直すうちに、だんだんと話が追えるようになってくるはすだ。伝統芸能に触れる時はそういう壁は当たり前なので、別段ハードルに感じる必要は全くない。
 CDを聞いていて、ニヤリとさせられたところがある。「天明白浪伝 首無し事件」を演じたこの日は日曜日で、順番も最後だったのだろう。そのマクラで松之丞はこう話す。
「時々、(客席の空気から感じる)ニーズを受けてですね、あ、この噺やりゃ良いなってのが分かる。今日だったらね、多分ね、適当にね、5~6分ぐらい適当なマクラふって、芝居の喧嘩、これがベスト。みんなも疲れないしね。明日から月曜日だ、Twitterの反応だって良いでしょう。いやー良かった良かった、松之丞空気読んでるよ。分かってるよ。スカッとやって帰ってさ。いやー、良かったな、なんていう風になるのは目に見えてるんですよね。でもそこじゃないんだね。そこじゃない。そこ目指してもしょうがないんだね。」
そしてそれから結局、45分のネタを演じる。この意識の高さ、天の邪鬼さ。そして、そこで外さないという確かさ。このかましはなかなか出来ない。
 それだけじゃなく、インタビューも読むと、過激で敵を作りかねない発言をしてるのもよく見かける。それは、松之丞がプロレスが好きということにも起因するのだろう。
僕はこういうことをする人間にベットしたい。神田松ノ丞の藝は間違いなく、多くの人を一目惚れさせることが出来る力を持っている。
 今さら、ではなく、今から神田松ノ丞を聞き出すとしても、向こう40年はときめくことが出来ることが約束されている。