石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

俗物ウィキペディア日誌 #2

4月26日
飲み会のため何もせず。
いつものように歩いて帰っていたら、飲み会の帰り、■■のことで泣いてしまったことだとか、革靴だったから普段より疲れてしまい、コインランドリーで休憩していたらいつのまにか眠ってしまっていて、起きたら三時間ほど経っていた。帰宅したのは四時頃だった。

 

4月27日
連休初日。朝起きたら、イヤホンの片方が無くなっていることに気付いた、コインランドリーに行ったらあった。ジュンク堂で「おぼっちゃまくん」の文庫版全巻を購入。店内で古本を売っており、何となく眺めていたら『大衆と反逆』を見つける。『100分de名著』以降気になっていたので購入。装丁がカッコ良かったのも良かった。
帰宅し『ファミリーヒストリー』のマクラを完成させる。気付いたのだけれど、これまでブログを書けば、その後にアップ出来るからある程度我慢できたけど、同人誌には新作を入れた方がいいというアドバイスを受けたことから、今回新作としてこのことを書いているのだけれど、これって承認欲求の権化こと俺には、他人にすぐに見せることのない文章を書いてそれで終わりと言う行為がとてもつらいことに気がついた。
「劇団かもめんたる」の日程を選びあぐねていたら、追加公演が決まっていた。ええいままよ、として、この日を購入。合わせて、飛行機のチケットも購入。内村文化祭も当選していたので、その飛行機のチケットも購入。とりあえず、夏の電柱を確保……。
何でみんな劇団かもめんたるを見に行かないのか、食指が動かない、何となく怖いという気持ちは分かるものの、不思議だ。第二回公演の『ゴーヤの門』しか見ていないが、めちゃくちゃオススメなのに。

あー、夏の終り、東京で誰か暑気払い誘ってくれないかな~~~。

 

4月28日
起床して、すぐにオードリーのANNを聴取。名言続出の回だった。
設楽さんの『ファミリーヒストリー』を見る。
昔見た時よりも色々な気付きがあった。今見ることで、書けることがあるなら、寝かせても良かったなとも思わないでもない。それは、バナナマンが、ネタは出来たけど今この哀愁は出せないということで寝かせていた、「rain」というコントのように。
で、文章にもとりかかる。
途中、東京ポッド許可局のナイスコーヒーグッズが届くので、ナイスコーヒーマグカップでチルアウトする。
寝る前に『ドキュメンタル』のシーズン7を見る。初めてみたのだけど、めちゃくちゃ面白い。続きは明日見よう。
夕食に今年初のゴーヤーチャンプルー。うまし。

 

4月29日
起床して『ドキュメンタル』のシーズン7を昨日の夜の続きを見る。爆笑した。番組の性質上、感想がぼやかされるのが残念でならない。『ドキュメンタル』で思い出したが、以前小藪論をやってみたいと思ったが、どう考えても難しい。面白いし大好きだけど、語れない。同人誌のラインナップを見てみるとどうしても偏りがあるので、幅を出すためにも『ドキュメンタル』についてもいれようかな、と思った。まあ、よくあるくだらない問題ではない視点が見つかればやるかも。
『大衆と反逆』を読み進める。難しいのだけれど、めちゃくちゃ、現代を切り取っているようなことが書かれている。少しずつ丁寧に読む。
ファミリーヒストリー』続き。『からくりサーカス』ばりに壮大な話の先にコント論っていう構成になるのちょっと面白いな。というかここ最近書いている文章で、一切ボケていない。
文学フリマコミティアについて調べる。どっちも評論のオリジナルは出していいみたいだ。日程も同じかなんかで、どっちでもいいのかな、と思わないでもない。今年の11月を目安に頑張る。でも通販だけでもいいのかな、とも思った。
東京ポッド許可局の「おかわりズルイ論」を聞く。やよい軒のおかわり有料化の問題について。必聴。船場必聴。この人、○○されないのはズルイ!って思って怒っているんだなという見極めは大事。そういうのは無視できるので。
BGMはずっと、くるりの『remember me』


4月30日
完全に体調を崩した。オードリーANN武道館ライブの本を読む。若林最後のコラムが凄い。おすすめしてもらった『ドキュメンタル』のシーズン3を3エピソードほど見る。神田松之丞の『問わず語り』を聞く。お好み焼屋の話が凄い。
令和元年のカウントダウンを爆笑問題のNHKとアルコ&ピースのDCGを流しながら迎える。カーボーイを20分ほど聞いて就寝。

 

5月1日
令和元年初日。ずっと雨。微熱と腹痛。一日の半分近く寝ていた。
朝起きて、爆笑問題カーボーイの続きを聞く。生放送にしてくれて、しかも、ウエストランドアルコ&ピースうしろシティ金子、ハライチ、まんじゅう大帝国が来るという新年会のような放送で最高だった。令和も爆笑問題で決まりだね。
設楽統の「ファミリーヒストリー」の文章完成。こんな面白い文章、ブログにアップできないんですか?
明日からは、いとうせいこうのまとめをしようと思う。
そしてきっかり令和五年に売れます。

 

5月2日
体調回復。微熱程度になり、食欲も出てくる。お店に行けるくらいの体調になったので、本屋に行き、ロッキンオンジャパンメロン牧場を立ち読みしようとしたが見つからなかった。テレビブロスを立ち読み。うどんを買ってきて食べる。
おすすめされた『ドキュメンタル』シーズン3を一気に見る。なるほど、春日春日っていうのはこれか!めちゃくちゃ面白かった。明日からオススメされたシーズン5を見る。
昼は妻が美術館に行くということで、一人で子供を見ていた。
いとうせいこう『今夜、笑いの数をかぞえましょう』に取りかかる。
10万字突破。


5月3日
ウシーミーという沖縄特有のお墓参りに朝起きて両親と行く。神田松之丞が、清明祭とラジオで言っていたが、それで、ただ沖縄のお盆みたいなものであり、こっちではシーミー、またはウシーミーと呼んでいる。ウはおであり、ウを着けないのは、お盆のことを盆というものであり、ウシーミーと呼ぶのが一般的だったのだが、最近はシーミーと呼んでいる人も多い。お墓参りをすると、昆虫キッズの「楽しい時間」という曲を思い出す。
また、お墓参りのさいに、ウチカビといって天国で使うためのお金に見立てた紙を燃やすのだが、それは枚数が決まっているらしい。ただ、今回、余ったので母親が多めに燃やしたのだが、その時に「地獄の沙汰も、っていうからね」と言っていた。先祖、地獄にいることになるだろ、と思った。
両親もこれからお隠れになるだろうから、こういうの俺が率先しておぼえないといけないんだろうな、となった。帰りに大戸屋で食事をする。体調不良のために適当なご飯だけを食べていたので、久しぶりに食事をしたという気持ちになった。
帰宅後昼寝をする。起きたら、妻が好きなフリースタイルダンジョンを見ていたのだが、とあるラッパーに「この人下手じゃない?」と言ったら、「私もそんなに好きじゃない」と。どうにもラップが単調だと思ったから言ったのだけれど、僕は一切ラップを知らないけど、そういうのが分かる。なぜなら昭和の名人の落語家のフロウを知っているからな。
夜にタイタンシネマライブを見に行く。
以上のことより、同人誌は何も手をつけず。

 

5月4日
朝起きたら、同人誌が購入されていたので、即日郵送する。ありがとうございます。在庫を数えると58冊。
いとうせいこうの本をあれから3~4000文字にまとめなおすのってめちゃくちゃ難しいことに気がついたので一切手をつけられず。
書き下ろしの記事について、そんな小賢しいことをしてもなあという気持ちにもなり、これもアップしようかな、という気持ちにもなってきた。
どうしたらいいですかね。コメントに何かあればよろしくお願いします。これはあくまで日誌なのでご意見お待ちしております。
いとう本について、全く進まないので、とりあえず推敲する。いくらでも直せる。大甲橋について書くことがあったのでウィキペディアで調べる。誰だよ、大甲橋の関連項目に上田晋也って入れたの。

俗物ウィキペディア日誌

4月19日
重い腰を上げて、二冊目の同人誌に取りかかることにした。タイトルは『俗物ウィキペディア』。まず、これまでにブログにアップしてきたものから入れたいものを選択してワードにコピペしてみたら、80,000文字を超えていた。前回はどれくらいだっけと調べてみると、34記事100,000文字だった。加えて、書き下ろすものも書き出してみた。まずは、あるものの推敲からやる。

 

4月20日
毎日、どんだけ少なくても取りかかる時間を作ることを決める。
遂行がてら、2014年までの自分の文章を読んで見ると、フルパワーズ福永の記事など、隔世の感がある。何より、坂口杏里のことを、優秀な軍師でもついているのかとか書いていたこと。構成作家すらついていない、無策だった。「生き方はロックなのに歌声はロックじゃない」とツイートしていたが、ロックはロックでも落石だろ。
ブログは、自分の文章の拙さに驚愕するが、それは成長したから言えることだということにする。何より、あの時は2,000文字を目安にしていたくらいだから。今は、マクラでその半分に達してしまう。
とりあえず、孤独で楽しい作業が始まる。

 

4月21日
目次に、日付をつけてみたらどうにもごちゃごちゃしてしまったので、年表でも作ろうかな。
やはり、新しく書き下ろすやつ(新作と書こうとして恥ずかしくなってやめた)も手をつけようと思う。まずは、『ファミリーヒストリー』の設楽さんのやつあたりから。いとうせいこうの『今夜、笑いの数を数えましょう』も4,000文字くらいにまとめていれたいけど、どうしようかな。
劇団かもめんたる、やっぱ行こうかな~。

 

4月22日
設楽統の『ファミリーヒストリー』の話を考える。マクラからとりかかる。ずっと頭の中にあった構成で問題なさそう。設楽さんの『ファミリーヒストリー』、2015年9月なので、3年半放置していたことになるのか。
赤ちゃんを太ももにのせながら、パソコンを睨む。そうすると赤ちゃんはいつのまにか寝ていることが多い。

 

4月23日
帰宅してだらだらしてしまったので、既存の章を適当に推敲することに。
通して読むと、やっぱりお馴染の表現が目立つのでちゃんと変える必要がある。手くせで書くのはいけない。バレる。
1時間ほどやって赤ちゃんをお風呂に入れたりして就寝。
明日、ウィキペディアで見つけて気になった本が県立図書館にあるみたいなので仕事帰りにでも行こうと思う。
相沢直さんのnote『医学部平凡日記』を読み始める。面白い。

 

4月24日
ツイッターがうるさい。ツイッターでのみインプットしてアウトプットしているからそうなるのかもしれない。自家中毒。みんなブログやって、そっちで殴り殴られればいいんだ。そのほうが健全だよ。東京ポッド許可局の『ナイスコーヒー論』と『チルアウト論』を千回聞け。
仕事帰りに県立図書館に行ってきた。最近新設したばっかりでめちゃくちゃ綺麗。目当ての『古今東西落語家辞典』を見つけて必要な個所を確認する。この本、めちゃくちゃ資料として最高で、普通に欲しくなった。「古今コント東西辞典」という本のタイトルを思い付く。得られた情報はウィキペディアと変わらず、結果は「『古今東西 落語家事典』によれば、」という文字を付け加えるためだけなのだけれど、こういうのを大事にしないといけない。
帰宅後、記事にとりかかる。文章を書いていたら、とんでもないことに気がついた。たまんない。これが歴史のロマンか。2冊目は、前回と比べると、取り扱っている材料が限られているので、より深くしていきたい。でも、2,000文字に満たない文章もさくっと入れても良いかなとも思う。まあ、なるようになる。
本文を粗く書きなぐって『俗物ウィキペディア日誌』を今日の分まで日記から引っ張ってきて書き始める。それにて今日はおしまい。ほうれん草のおひたしをつくらないといけないので。
1冊目を買ってくださった方には分かると思いますが、エピグラフをそのままにするか、別のものを使うか、もっといえば、『俗物ウィキペディア』でいいのか悩む。
BGMはカネコアヤノと折坂悠太。
子供が生まれて、ずっと風間やんわり先生の書く顔みたいだと思っていたが、最近やっと素直に可愛いと口に出すことが出来るようになった。
行きたいなあと思う日程で見られるライブを色々と教えてもらった。ありがとうございます。

 

4月25日
帰路につきながら、『爆笑問題カーボーイ』を聞く。太田さん転倒からの復帰の回。リアルタイムでも聞いていたが、面白かったので飛ばさずに聞く。一カ月たった今聞くと、より面白い。
記事にとりかかろうとしたら、『アンビリーバボー』が面白くて見入ってしまった。『科学の教室』という雑誌についての『プロジェクトX』みたいな内容。
粗く書いたものの簡単な清書。明日は飲み会なので、何も出来ないかも。
BGMは引き続き、カネコアヤノと折坂悠太、宇多田ヒカル
表紙の案が思い浮かばない。誰か書いてくれないかな。褒め言葉としてのごちゃごちゃっとした絵を書いてほしい。風見さんとか良いな。もちろん、『俗物ウィキペディア』は筒井康隆の『俗物図鑑』のパロなのだが、あの表紙に似た絵を描いてもらえるならぴったりだ。
こういう場合、お金とかってどうなるのでしょうかね。
また書いている記事がマクラで2000文字超えてしまう。
「俗物ウィキペディア日誌」をブログにアップして終り。狙いは、頑張っているアピールです。あと、退路を断つため。見る前に跳べ。跳ぶ前に退路を断て。
今日は終り。

 

思ったこと
空気を読むということが、芸人、ひいてはタレントの悪癖のように言われるが、例えば、りゅうちぇるなどが言う新しい風と褒めそやされる言葉なども、ある程度、新しい風の空気を読んでこその発言だと思う。揚げ足取りと言われるかもしれないが、基本的には、空気を読むことが良い悪いというのもそのレベルだと思っている。
空気を読む読まないうことは、美徳でも悪癖だとも善行だとも思わない。それ以上でも以下でもない行為だと思う。

いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』の「第6夜 きたろう」の雑感とまとめ

 最終章は、いとうが勝手に師匠と仰ぐ、きたろうがゲスト。ただ、この章は、きたろうが「セックスを語るみたいなもんだよ、笑いなんて語るもんじゃないよ」とうそぶくように、理屈の先にあるものの話をしていて、舞台に立ったことのない人間としては、分解することが出来ない。ある意味、これまでこねてきた理屈をちゃぶ台をひっくり返すような、とはいってもやっぱりそうだよなと妙に納得させてしまいまた迷路に入り込まされてしまうような章だった。なので、これからここで話すことは基本的に、笑いって何?ということになってしまう。また、僕が全くシティーボーイズを知らないという不勉強なので、その点でもきたろうの立ち位置を説明できないというのもあります。ちゃんとDVDとか買います、すいません。
 そもそも、シティーボーイズ三人が三人、フラを持っている存在なので、その一人をゲストに迎えるという時点で、理屈を超越した話になるのはまあ想定の範囲内であっただろう。なので、この章は、いとうがきたろうとイチャイチャしながら、きたろうという存在から笑いの理屈を抽出していくというこれまでとはやや異なったアプローチとなってもいる。
 きたろうの凄いところは、「セックスを語るみたいなもんだよ、笑いなんてかたるもんじゃないよ」と言葉だけ引けば、カッコいい名言となるのだが、いとうにすぐに「セックスのことなんてわかってないじゃない」とつっこまれて成立してしまうところだ。
 それだけでなく、いとうは、きたろうのそういった理屈から外れたところ、例えば、「きたろう、それは笑いにならないぞ」とか「あそこ面白くないですよ」と言われてもギャグをやめなかったりという、「(いとう曰く)客が引くことに対する異様な執着」についても話が出てくる。たしかに、客を引かせることは笑いのセオリーから外れているわけだが、引かせたいという気持ちになるのも分からないでもない。いとうもそうだと思うので、異様な執着というのだからよっぽどだろう。
 いとうは「精神分析フロイトがユーモアのセンスは生まれつきだって言ってるんです。これは変えられないって。」と話し、そこから古今亭志ん生へと移る。古今亭志ん生というのは、昭和の名人の筆頭とも言われる伝説のような落語家なのだけども、この人も、理屈を超えたところで「面白い」を体現している人で、フラといえばこの人という芸人でもある。ここ最近、『いだてん』の影響で、志ん生関連の本を読んでいた。なので『いだてん』を貯めてしまっているという本末転倒な状況に陥ってしまっているのだけれども、志ん生は、実は昔はものすごく写実的な落語をしていたという記録があるらしいということ、そしてものすごく勉強熱心であったということを知った。聞いてみたら分かると思うが、よたよたと走っているような落語で技巧派とは言えないようなものなのだけれども何故か何度も聞くと、ものすごくハマってしまうというその志ん生の落語がもともと「上手い」芸をやっていたということを知って、少なからず驚いた。ピカソがすでに15歳ごろには、写実的な絵を完成させていたが最終的にはゲルニカのような絵に到達していたみたいなことだったのだ。
 それでも話が進むと、技術の話も出てくる。きたろうは、転ぶのが上手いという話から、前の章にも出てきた「笑いの人って忘れる能力がすごく必要」「本気で『あれ?』って顔ができるかどうか」が重要だと話、「きたろうさんは前にのめって転ぶのもできるし、後ろもいけるし、ヒジを外すズッコケや、頭ぶつけたりすることもできるでよ。日本でこれを全部できる人は堺正章さんときたろうさんだけだと思う。」といとうは言う。
 たまにネタを見てても、ほんとうに「突っ込んでいるだけ」の人がいて、それって「知っちゃってんじゃん」って冷めてしまうので、この忘れる能力というのは技術としてもっと知られるべきだと思います。
 とまあ、ここにきて尻すぼみ感が以上に出てしまうくらいに、きたろうゲストの回は、面白かったけどあまりにも不勉強で話せることがないという体たらくになってしまいました。
 なので、最後にこの本のまとめをやりたいと思います。
 エピローグとして、宮沢章夫が再度登場しているのですが、こっちは逆にめちゃくちゃ深いことを話しているのですが、それはもう買って読んでください。
 この本をいつもみたいにひとつの記事にしようとしたんですが、大事なことが書かれすぎていてこんなもん3~4千文字でまとめられるわけねぇじゃねえかとなって、一章ずつやろう、でもまた途中で飽きるかなとか思っていたら、全然飽きませんでなんとか完走できました。リプライで褒めてほしいです。
 恐らく僕よりも年下で今のお笑いを見ている人って、このラインナップって正直そんなにピンと来ていないんですけど、将来お笑いやテレビ制作などに関わりたいって人は必読だと思います。これは本当に。もちろん、お笑いの面白いところは、これを読まないでも面白い人、超えてくる人はいっぱいいるだろうけど、自分にはそういう才能がないという人(その才能という言葉を僕は疑っていますが)にこそ読んで考えてほしいです。
 多分、これを読んで実践していったら、まじで売れると思いますもん。
 そしてファンのひいき目かもしれませんが、この本を読んでいると、本当にバナナマンのコントを持ってくることが出来て、さすがに多いんで、バナナマンのあのコントのあれだっていうのは書かないように自重していたくらいなんですけれど、やっぱバナナマンって本当にすげえんだなって思いました。思えば、「宮沢さんとメシ」って、シティーボーイズの「宮沢君シリーズ」のタイトルオマージュなのかなと。
 まあ、そんな感じで終りでーす。
 オランダ行ってきまーす(かぶせの笑い、通称天丼)。

いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』の「第5夜 宮沢章夫」の雑感

 第5夜は宮沢章夫。宮沢と言えば、NHK風間俊介とやっていた『ニッポン戦後サブカルチャー史』。放送当時、熱心に見ていました。
 余談から入らせてもらうけれど、この章で大江健三郎の『河馬に噛まれる』という小説のタイトルを、宮沢が素晴らしいよね、と話していたが、僕のツイッターのアカウント名は、大江健三郎の小説から拝借しているのだけれど、最近、どうせなら「河馬に噛まれる」にすれば良かったな、などと思っていたので何となく嬉しかった。
 河馬に噛まれるというのは恐らく、大事故なのだけれども、カバから連想される、バカという言葉やあの間の抜けたビジュアルなどが、その重要性をかき消していて、そしてそれが生み出すギャップが面白いのではないかと思われる。「河馬に噛まれる」、大喜利の答えとしても有効そうだ。
 話を本題に戻します。
 始まってすぐに、演劇での笑いとコントの笑いの違いにおいて、盲点というか本質を突くような話題に入る。渋谷ユーロライブで行われている「渋谷コントセンター」という、大体四組ほどのお笑いコンビや劇団が出て、30分ほどの時間を貰って、コントをするというライブがあるのだけれど、そのキュレーションを任されているいとうは「驚いたのは、演劇の人は平気で人数を増やすんですよね。」と話す。対して宮沢は爆笑し、「舞台にはそういったワクがないんだな。何かやりたいことがあって、そのために八人必要だったら集めれば良い。演劇の発想だと、そうなるよね。」と返す。
 想像してほしいが、たしかに、コントやりますって来た人が、八人くらいがぞろぞろと来たらそれだけで面白い。倉本美津留の回に話に出てきた「数が多いと笑う」と同じだ。
 いとうは、あくまで一つの定義になるのだが、「笑いを作る側の事情と何を作るかの問題のどっちを優先するかってことじゃないですか」と話し、「演劇の人たちは、最初の十分間、笑わせなくても平気だもんね」と続ける。
 よく、フリを長めにとると、お笑い芸人は演劇っぽいと評されることがあるという話はケラリーノの回でちらっと言及したけれども、この話でよりなるほど、と思わされた。上手く言語化できないので、考えるべきこと、として保留しておきたいと思うのだけど、『HUNTER×HUNTER』にあった「入口が違うから到達できた」みたいなことだと思う。そしてコントの質を一段あげるための大事な何かがあるような気がする。
 ただ、舞台に出て一秒でも早く笑いをとるということこそが、芸人としての業(カルマ)でもあるような気がする(事実、『M-1グランプリ』で審査員を勤めた博多大吉はツカミの速さも評価軸にしたと話している)ので、必ずしもじっくり立ち上がるコントがすべていいのかというと、もちろんそんなことはない。
 演劇と芸人の笑いを話していたが、徐々に素人の笑いの話へと移っていく。素人の笑い、というよりは、素人を使った笑い。話はもちろん、それを作り上げた萩本欽一の話へとなっていく。

 坂上二郎が面白い人と大衆に認知されるようになって、萩本は次の大ボケとして、素人を選んだという流れは
 坂上二郎が普通の人から面白い人へと転換してしまったように、今、天才的なツッコミとまで評されている萩本欽一は大ボケになっている。それがよくわかるのが、『電波少年』シリーズの土屋が萩本を撮ったドキュメンタリー映画『We Love Television?』で、これは萩本が30%の視聴率をとるために奮闘するというものなのだけれど、これがものすごくて、ずっとボケていてツッコミがないドキュメンタリーになっていた。是非見てほしい。僕は、松本人志監督作品の『大日本人』は傑作だと思っているのだけれど、萩本欽一は素でこれをやっている。精神と肉体が乖離した人間のペーソスが存分に描かれているこのドキュメンタリーはそういう意味で一件の価値があると思う。そこにビンビンに勃起出来る人間は、最後に爆笑できると思う。
 当時のコント55号萩本欽一と、坂上二郎のコンビ。今気付いたけど、555になっていますね。)の新しさとして、これはよく言われていることでもあるけれど、宮沢はこう説明する。「それまでの笑いは普通の人がボケの失敗を指摘して笑う。つまり大家と与太郎の構造。コント55号は違ったよね。二郎さんはいたって普通の人物として登場する。そおに得体のしれない世界からやってきた萩本欽一が登場する。」と、つまりは、普通の人を追い込むというものすごく陰湿な笑いで、それはとても新しかったのだという。そして、その陰湿さが、ほぼそのままの形で大衆に受けていくというのは、大衆の本質を穿つような話である。いじめはいけないといっても、人はいじめるものなのだ。だからこそ、よく言われるのは、いじめをなくそう、ではなく、いじめはあるものとした対策をしなければならないといわれるのだけれど、それは別の話なので、置いておくとして、爆笑問題が初期にコントをやっていたのは有名だが、そのネタの「進路指導」と「不動産」は、それをさらに陰湿にしたもので、強い影響下にあるということが想定できる。
 ただ、その萩本にいちゃもんをつけられる坂上という構図が、人気絶頂のころに崩れたという。それは二郎自体が面白いと思われはじめたことに起因する。そこで、萩本は素人いじりに向かっていったというこういう流れがあったわけだ。で、様々なカウンター要素を含みつつも、その素人いじりは「ひょうきん族」を経て「とんねるずのみなさんのおかげです」の内輪ネタに帰結するような気がしないでもない。そして、この内輪ネタ的なSNSで撮影現場の動画をアップしたり、共演者同士で楽しんでお笑いをやっていますというある種のクラスの一軍の学芸会的なノリが、福田雄一監督作品なんじゃないかと睨んでいます。この見立て、盗んだら殺します。見立てら理紗。
 宮沢は「天才的なツッコミとしての萩本欽一を前提としないまま素人を使うことで作り手が満足する。笑いの本質が分かってないんだよね。」と言っている。この笑いの本質が分かっていない作り手というのは、現代でもいる。例えば、サンドウィッチマン冨澤のフレーズに「ちょっと何言ってるか分かんない」というのがあるが、あれは、何を言っているか分かるはずなのにそういうから面白いのだが、よく見るのは、本当にちょっと何を言っているのか分からないときに、それをいう人やCMがあるということだ。これこそ、そのおもしろの構造を理解していない人が作っているからこういうことになる。伊集院光もそんな話をしていたが、「ゼロカロリー理論」は詭弁だから面白いのであって、詭弁を言わせずに「カロリーはゼロ」というオチだけを持ってきているものを見ると、何も分かってねえんだな、と思う。
 少しずれるが、この素人と天才的なツッコミという構図は、現代でも使えると思う。もちろんそのままではないが、というか、そう解体することが出来る人気番組が多い。
最近は素人を出すテレビも多く受けているが、例えば、どういった素人をフィーチャーするのかがあるとして、その受け手(ツッコミ)を誰にするかということで番組は決まっていくと思う。例えば、「家着いてっていいですか」だと、どんなヘビーな話でもやんわりと受け流すおぎやはぎの矢作だったり、たとえば「病院ラジオ」のサンドウィッチマンというのは的確だ。どこかこの器用には説得力がある。だからこそ番組が面白い一因となっている気がしないでもない。関係ないが、バナナマンの「youは何しに日本へ」は、日本人を揶揄する言葉のバナナマンがMCをやっているのは皮肉めいていて良い。
 本に戻ります。これから先は、シティーボーイズとかスネークマンショーの話とかをしてますので、あまり雑感は書けないのではしょりますが、やっぱり面白いこと言っています。
 小林信彦の『日本の喜劇人』という本の話がでてきて、宮沢は「小林信彦の青春と挫折の記録である。乾いた笑いを志向していた小林信彦さんが、日本の湿った風土に絶望する話」と語っているところは、本の内容含めて必読です。そして、ツイッターで調べたら、僕は6年前に図書館で借りて読んでいて、その当時の僕は面白がっていました。全く内容覚えていないですが。で、一万円するので買っていなかった模様。その流れで、伊集院光オススメの『怪物が目覚める夜』も読んで面白がっていた。
 最後に、いとうのこの言葉を引用したい。
 いとう「コントで重要な要素の一つは笑える構造が長続きしてくれるってことじゃないですか。『チャンチャン』ですぐ終わらない。だから、さっき言ったみたいないつまでも果実が採れる状態のシチュエーションを考えなきゃいけない。ウェルメイドのコントは、人間の関係性がよくできているから何度でも笑いが産めるけど、宮沢さんの方はナンセンスですもんね」
 この言葉もものすごく示唆的で、ここ最近の「果実が沢山」の例として、これはあくまでマジで根拠のないゴシップの一つとして受け止めてほしいものがあるのですが、先日、復活した『爆笑オンエアバトル』で空気階段が541KBでオンエアとなった。541KBといえば、玉ひとつだけ転がっていないというほぼ満点で、祝祭のような雰囲気のなかで披露された鉄板ネタといえども、なかなか凄い点数で、空気階段が純粋にコント師として面白いということが証明された結果となった。でも、泥目線で見てみると「じゃあ、誰だよ。玉転がさなかったの」となるが、確かめる術ももたないまま、インターネットを散策していると、「空気階段のネタに唯一玉転がさなかったの、カンカラらしいです。」という文字を見つけた。こんなに心躍る言葉はなかなかない。これが、ここ最近、一番果実が取れた木です。
 まず、「真偽は不明だが、本当っぽい」「『誰も傷つけない笑い』の筆頭ぽいのに、めちゃくちゃ厳しい」「祝祭に近いバトルなのに、玉を転がしていない」「カンカラはゴリゴリの本衣装を着て来ていて笑わせに来ているのに、他人をオフエアにしようとしている」「カンカラは空気階段のネタをお茶の間に届けたいと思っていない」「カンカラは、萩本欽一の笑いは勘からって言葉に由来しているけど、鈍感じゃねえか、てか、萩本にもどってる!」と、いろんな角度から果実がとれる。
 こんな感じで、『激レアさんがやってきた』で特集していた、鉄の棒を叩いて叩いて叩きまくってそれでトライアングルを作る激レアさんがいたが、その人が作るトライアングルは音が共鳴しまってとても不思議な音色を生み出していた。そんなように、お笑いも小さな果実が共鳴すると、不思議な爆笑を生み出す。
 ただ、難しいのは、この果実が採れるというのは、単に大喜利に答えを重ねるようなコントでもそれは出来るがそれだと一本調子になってしまうということが多いというところだろう。どうやって、様々な笑いを共鳴させるかが、肝になるのだろう。
 最後の最後に、この本の中で一番、気になったことを紹介して終りたいと思います。
宮沢「これは僕の意見じゃなくて、人から聞いた話として聞いてもらいたいんですが、蛭子(能収)さんの漫画ってマリファナ吸って読むとめちゃめちゃ面白いんだよ。」
めちゃくちゃ気になりますね。オランダ行ってきまーす。

鈴木もぐらの恋は永遠、愛はひとつ。『空気階段の踊り場』「駆け抜けてもぐら」感想。

 2018年最大の深夜ラジオでの事件、『空気階段の踊り場』での「かたまり号泣プロポーズ」から半年ほど経ったが、最近の踊り場は、鈴木もぐらが都営団地の抽選に外れてしまったために実家に帰ることになったり、もぐらが愛する実の妹に縁を切られた疑惑が生じたり、水川かたまりがラジオのブースに手作りのカレーを持ってきて、もぐらにふるまおうとするも拒否されたり、かたまりが筋トレを始めたりと、相変わらず報告の多いドキュメンタリーラジオではあるものの、比較的平穏な放送が続いていた。一番のニュースと言えば、名物コーナー「あんちゃんあそぼ」が、家族バレで終わるというAV女優の引退みたいな理由で終了してしまったことくらいだった。
 ラジオ以外の仕事はどうだったかというと、『有吉のお饅頭が貰える演芸会』に出演してネタを披露し、普通の饅頭六個とピンクの饅頭を貰い、『爆笑オンエアバトル20年SP』のなかで行われた「爆笑オンエアバトル2019」に出演し、過去の出場芸人たちが審査員になったこと以外は当時と全く同じシステムで、541KBという、満点には球一個だけ及ばなかったものの、俗に言う「オーバー500」をという高得点をたたき出し、オンエアを一位で獲得した。また、渋谷にある∞ホールのネタバトルライブでも一位となるという、着々と芸人としてステップアップしていることが手にとって分かるくらい順調で、踊り場リスナーとして、空気階段を追っかけていて本当に楽しい半年でもあった。
 余談だがもぐらがもともと住んでいた家は狭く、親子三人で暮らすには狭いという理由から、まだ妻と子供は妻の実家にいるため、子供には三回しか会っていないという。そのことを踏まえて『爆笑オンエアバトル2019』のネタ前のVTRのもぐらの「奥さーん、息子ー、パパ頑張ったぞー」というコメントは味があり過ぎるし、そのときの陣内智則の「まだ31歳なん、パパ頑張れ」というコメントは味が無さ過ぎた。作家が書いたにしては陣内に寄り過ぎているし、陣内本人のコメントにしては感情がなさすぎたあのコメントは誰の意思だというのか、考えれば考えるほど謎は深まるばかりである。 
 僕はと言えば、今の空気階段を生で見ておきたいという一心から、ラジフェス2018に参加し、その帰りに新宿の居酒屋で、同行していたリスナー仲間と空気階段の未来を話しあい、『この空気階段がすごい!』というライブを見にいっては空気階段のネタの変遷と、他の芸人に褒められているところを見に行ったりしていた。借金があるもぐらが借金取りをやるのはおかしいという理由で封印されているネタも見ることが出来た。
 そのライブで聞いた最高のエピソードとして、「この芸人が面白い、という噂話の中心には、いつもモダンタイムスのとしみつがいる。少し前から空気階段がめちゃくちゃ面白いという噂も広まっていて、特にとしみつがその噂を広めていたという。そのことを知ったかたまりはいつかお礼をしたいとぼんやりと思っていたのだが、そんなある日、客として入った上野の個室ビデオで、受付の店員のバイトをしているとしみつを見かけた。さすがに今じゃないと思って、声をかけなかった」というのがあった。いつか、この伏線もどこかで回収してほしい。
 そして四月。改編を乗り越えて、番組が継続することを知って安堵していた矢先に、またもや、ドキュメンタリーラジオとしての『空気階段の踊り場』が炸裂した。
 それは『ダウンタウンガキの使いやあらへんで!』に銀杏BOYZ峯田和伸が出演していたところから始まる。体験談をカルタにするという企画「カルタ争奪戦」に出演した峯田は、「さ」のカルタで「再会して感動したぜとあるファン」という読み札を作ってきていた。
そのエピソードはこうだ。
 「10数年前なんですけど、どのライブ会場にも見に来るみたいなお客さん、まあこういう方いらっしゃると思うんですけど。で、そいつまだ高校生で、学校休んで、俺らがツアーとかで東北とか行ってもいるんですよ。泊まるところないっつって。だからじゃあ部屋に泊めてたりしたんですよ。で、しばらくしてから会わなくなって。元気でしてんのかなーと思ったら。ひっさしぶりにメール来まして。去年。『実は吉本で芸人やってます』。で、自分がいっぱしになって、今度単独をやれる感じになったら、それまで峯田さんに連絡しちゃいけないと思って黙ってましたつって。今度単独やるので見にきてくださいつって見に行って来たんですよ。すごく面白くて。芸人が空気階段ってコンビなんですけど。パンパンですっごいびっくりしました、面白かったです。嬉しいです。」
 まず、この峯田の話を聞いた時に、踊り場リスナーは全員こう思っただろう。「もぐら、音楽聴くの!?」と。それくらい、もぐらには音楽のイメージが無い。踊り場で流れた印象的な音楽と言えば、水川かたまりが元彼女に振られて号泣して、プロポーズしてまた振られたという「水川かたまり号泣プロポーズ事件」のテーマソング、Superflyの「愛をこめて花束を」くらいだったからだ。
 このニュースを聞いてから、心待ちにしていた、この週の『空気階段の踊り場』は、その期待を裏切らない、むしろ超えてきた本当に最高な回だった。
 これまで銀杏BOYZのことを話さなかった理由を、もぐらは「俺が中途半端な状態で、銀杏BOYZの峯田さんとすごい仲良くさせてもらってと言うことによって、なんかその銀杏BOYZに迷惑がかかったりだとかもやだし、借金600万のどうしようもねえやつが聞いてる音楽みたいな、ってなるのもやだし、俺らみたいなもんがそういう銀杏BOYZって名前を出して、注目されるみたいなのも、やだというか。それもなんか違うなというか。そういうの関係なしに、いっぱしになってね、共演できたら、嬉しいなっていう思いはあったんですよ、俺の中でね。でも、今回はだから峯田さんがね、もう峯田さんの方から俺の名前出してくれたんで、こちらをお送りしたいと思います。『駆け抜けてもぐら。僕と銀杏の青春時代』。」と話し、自分がどういう青春を送っていたのかを話し始めた。
 そんな、かたまりにすら言っていなかった、十何年も大事に心の奥底に鍵をかけて閉まっていた話が、ひとつひとつ出てきたのだが、それの全てが最高だった。お金にだらしなくて、クズで駄目なもぐらだが、ずっとこの大事な思いをずっと守っていたのだった。
 もぐらは、童貞で卓球部でデブで田舎に住んでいた中学2年の時に、銀杏BOYZの前身バンドであるGOINGSTEADYの『さくらの唄』を始めて聞いて、味方が出来たような気持ちになったという。
GOINGSTEADYの解散を知った時のもぐらの話を聞いた時、恐らく、リスナーみんなの頭の中に、自分が解散を知ったときの風景が思い浮かんだであろう。僕は、高校の売店の前で昼休み時に、生徒がごった返す中、部活の後輩から聞いて驚いたことを覚えている。
 高校生になってバイトしてライブに行くようになったもぐらは、出待ちもしていたりして、次第に銀杏BOYZのメンバーに顔を覚えてもらうようになったという。その中で、もぐらはすでにもぐらだったという、かたまりも知らなかった衝撃の事実も飛び出す。
 もぐらという芸名が、銀杏BOYZのHPのBBSで使用してたハンドルネームに由来していて、それは、朝なかなか起きられなくかったもぐらが、母親に「お前もぐらに似てんな」と言われたからだそうだ。もぐらが、そんな名前を芸名にまでしていたという事実が、もう素晴らしい。
 ある時、横須賀でのライブを観に行った時に時間を潰すためにライブ会場の近くをぶらぶら歩いていたら峯田とドラムの村井守に会った。少し話をした後、「もぐらさぁ、本物のハンバーガー食ったことある?」と誘われて一緒に「本物のハンバーガー」を食べた話をした。「本物のハンバーガー」というのは、ファストフードなどのハンバーガーではなく、お店で食べるようなもののことで、この「本物のハンバーガー」という表現が、峯田の上からではなく、ちょっとカッコつけた先輩のような感じが出ていて凄く良いなと感じた。
 続けて、高校二年生の時の恋を話し出す。
 「俺塾通っていたんだけどさ、そこにいた子が凄い気になってたの。1個上の子なんだけどね。好きなんだけどね、俺も思いを伝えられないみたいな。壊れちゃうんじゃないか、みたいなね。告白したらこの関係が、みたいな。でもこの気持ちを誰にも言えないし、もやもやしてるし、っていうのをもう夜になっても眠れないし、考えて、がちゃってやって外でて、叫びてえけど家団地だから叫んだら怒られるし、どうしたらいいんだ俺はこれはーつってこのもやもやはーつって、あの子に会いたいんだ俺は一緒に手をつないで歩きたいんだ俺はーつって、幻かもしれないけれどそれでもいいんだって言って、ヘッドフォンをつけて聞いていたのがこの曲です、『駆け抜けて性春』」
 綺麗な曲フリで流れた『駆け抜けて性春』を聞いていた間、泣きそうになりながらも笑いが止まらなかった。その後には「弘前のライブに行ったら、峯田が泊まっているホテルの部屋に停まって一緒に寝た話」まで飛び出した。
 それから10年経ってまた運命の歯車は回り出す。
 もぐらは芸人となって、元芸人のひとりと、鬼越トマホークの坂井と居酒屋で飲んでいると、偶然その店に峯田が入ってくる。もぐらは気付くも、声をかけられずにいると、酒井が峯田に気付く。声をかけて写真をとっていると、峯田が「あれ、もぐらじゃない?」ともぐらに気付く。「どうしたお前。何してんだ今。」「実は、吉本で芸人やってて」「そっか。頑張ってんだな」と言葉を交わした後、峯田は「ていうかさあ、いつでも連絡して来いよ、俺のメールアドレスわかるだろぉ。」と言ってくれて別れた。
それから半年して単独ライブが決まり、もぐらは悩んで悩んだその結果、単独ライブの当日、峯田に単独ライブ招待のメールを朝の4時に送る。すると、すぐに峯田から返信がきた。「当日の朝4時に来てほしいつってこうやってメールしてくるお前のことが俺は好きだ、明日予定空けて行きます」というメールには、思わずかたまりも「かっこいい、かっこいいよぉ、かっこいい、うぁー、かっこいい、かっこいい」と語彙力が無くなるくらいに少し泣いてしまう。
 峯田はものすごく記憶力が良いらしいということを噂で聞いたことがあったが、10数年前に交流があったファンの一人を覚えていて、こうやって気にかけてくれるという、これってまさに『漂流教室』の「今まで出会えた全ての人々にもう一度いつか会えたらどんなに素敵なことだろう」じゃないか。
 もぐらが話した全てのエピソードの中の峯田が、峯田のまんまだったのも、嬉しかった。
 あの時の僕たちは本気で、「ときめきたいったらありゃしない」と思っていたし、「あの娘に1ミリでもちょっかいかけたら殺す」と思っていたし、綾波レイが好きだと言っているだけでその女の子を好きになっていた。何かになれると思っていたし、何にもなれないんだろうなとも分かっていた。
そんなことを、もぐらの話を聞きながらずっと思い出した。
 峯田が、もぐらの話をダウンタウンの前で話したということにも意味はある。
それは、そこから遡ること三年ほど前の2016年5月に、『HEY!HEY!NEO!』という『HEY!HEY!HEY』の後継番組に、峯田は銀杏BOYZ峯田と出演し、ダウンタウンと初めての共演を果たした。そこで峯田は「今38ですけど、僕の全てはお二人のお陰と言いますか、今日ですね、ダウンタウンさんの番組に、あの、初めてお会いしましたけど、僕は会ってましたよ、ずっと。僕はずっと会ってきたんですよ。」「僕は音楽はじめまして20年経ちますけど、辞めたいなと思ったりとか、彼女にいろいろ上手くいかないときとか、なんの映画も見たくないし、音楽も聞きたくないっていう、どうしよっかな山形帰ろうかなって時に、ダウンタウンさんの、僕、ほとんど全番組あるんですよ。山ほどあるんですよ、VHSで。つらい、きついときは、ほんとに二人が、あの、あの僕を、何て言うんですかね、どんなものよりもダウンタウンさんが二人立ってらっしゃって、で、そういうのだけで僕は救われたというか、もうほとんど僕の全部、なので、そういうお二方と実際に会うということは、僕の中であのその、バグってしまうというか。ファンなんですとかあるじゃないですか。あのそういう生易しいものではないんですよ、もう。僕の中にあるんですよ、二人が。いるんですよ二人が。」とつっかかりながら、ダウンタウンの全番組を録画して保存しているという峯田は思いのたけをぶつける。ここをギュッとしたのが、『恋は永遠』の「病んでも詰んでも賢者でもバグっても月面のブランコは揺れる今も」だ。


 その中での松本の「銀杏の中や。めちゃくちゃくっさいやつやんけ。くっさいやつや、うんこみたいな匂いするやつや」という返しは本当に良かった。
 ミュージシャンとして音楽番組に出演し、神に近い存在の人たちとの共演をつかみ取った峯田が、今度はダウンタウンのバラエティに出て、お笑い芸人である、もぐらの話しをした。心の中にくっさいものを持っていた峯田が、ダウンタウンによってそれと向き合うことが出来たのと、恐らく同じように、心の中のくっさいものをGOINGSYEADYや銀杏BOYZによって浄化し昇華し、対峙し退治することが出来たであろうもぐらの話をしてくれたのである。バトンが繋がったとてつもなく美しい瞬間を見ている気がした。
 『ギンナンショック』という本がある。上下二冊に別れたこの本は、銀杏BOYZが出した、写真やインタビューなどが載っているものでかなり濃厚なものとなっていて、銀杏BOYZに熱中していた時期がある人たちが一度は手に取ったことのある本だ。もちろん、僕の本棚では未だに一軍の位置に鎮座している。そんな十年以上前に出版された本に、一人の銀杏BOYZのファンが寄稿したコラムが載っている。「ゴイステは支えであり、味方であり、僕自身」と題されたその文を書いた人物の名は鈴木翔太、のちの鈴木もぐらである。
 GOINGSTEADYとの出会いから、GOINGSTEADYの解散を知って傷つき、解散を受け入れることが出来ないまま、銀杏BOYZのライブを見に行き、そこで初めて銀杏BOYZを受け入れることが出来た話が書かれていた。それは、まさに何かに熱狂している真っ只中で十代特有のどろどろとした自意識に塗れながらもがいている十代にしか書けないような、今にも暴発しそうなくらいギンギンに勃起しきっている文章だった。それから十年以上の時を経て、何者でもなかった鈴木翔太の話を、芸人となった鈴木もぐらが「峯田さんが言ってくれたから全力で乗っかりますよ」と笑いを交えながら、話してくれた。全ては巡るのだ。
 もぐらはこのコラムで、初めて銀杏BOYZのライブを見に行った2004年2月29日日曜日、渋谷O-EASTでのライブのことをこう書いている。
 「ライブが始まった。凄まじかった。僕は客席の真ん中辺りで揉みくちゃにされながら汗だくで僕を叫んだ。銀杏BOYZのライブを観た瞬間、僕は無意識の内に銀杏BOYZに対して僕をぶつけた。純粋なかっこ良さ、とんでもなくデカい、会場全体を覆ってぐるぐる動く狂気、そしてその狂気の中に小さく見える、強く光り輝くとても眩しい愛。」
 2016年7月8日土曜日、名古屋のDAIAMONDHALLで行われた銀杏BOYZの「世界平和祈願ツアー」を見に行って、揉みくちゃにされながら、「夢で逢えたら」を熱唱、いや、絶叫していたあの瞬間の僕も、峯田に向かって僕を叫んでいたのだ。もぐらの文章を読んではじめてそう気付かされた。そういえば、『内村プロデュース』が終ったあとの次に同じ時間帯で始まった、面白いことが分かりきっていたはずの『くりぃむナントカ』をしばらく見ることが出来なかったりもした。
 このコラムを書いた後、ただの銀杏BOYZのひとりのファンというだけで何者でもなかったハンドルネームもぐらは、一浪して大阪の大学に入学して、オチ研に入って、銀杏BOYZのライブに行かなくなって、大学を中退して、風俗の無料案内所で働き、風俗で童貞を捨てて素人童貞になって、風俗嬢に恋をして、偽名を使っている風俗店のオーナーからお金を借りてよしもと興業の養成所に入って、その間も風俗とギャンブルで借金を膨らませながら、慶応大学を二カ月で中退した水川航太と出会って、空気階段の鈴木もぐらとなった。そして、そこで峯田と再会する。そんな空気階段のエピソードゼロは、そのまま、峯田のカルタの話へと戻っていく。
 『空気階段の踊り場』の「駆け抜けてもぐら。僕と銀杏の青春時代」は、ラジオを聞いて20年近く経つが、半年程度の間に2回もこんな人生の全体重が乗っかった回が放送された番組は記憶にないし、これからもなかなか現れないだろうというくらいに、ものすごい回だった。
 僕たちは、今まさに空気階段にときめいているったらありゃしない。ラジフェスの会場で、一日中立ちっぱなしでふくらはぎに乳酸が貯まりきった状態で聞いた、かたまりが「やさおじでしたー!」と叫んだ瞬間の爆発したような大きな笑い声は忘れられない。
 「駆け抜けてもぐら」はこれから「駆け抜けて空気階段」となって、爆売れしてさらに駆け上がっていくだろう。そして、村井守が働いているケイマックスが制作したバラエティで、横須賀に行って「本物のハンバーガー」を食べてお揃いのスカジャンを買いに行くというロケを見られるに決まっている。
 その日まで、もぐらの心の中のブランコはずっと静かに揺れ続けるのだろう。
 ご清聴ありがとうございました!
 あ、オンバト復活SPで、空気階段のネタに唯一、玉を転がさなかったの、カンカラらしいです。

 

シニカル気取りのバカ、あいみょん聞いてセンチメンタルな気持ちになる前に、てめぇを人間にしてくれた方々への感謝の意を伝えるのが先だろ。

あいみょんの「瞬間的シックスセンス」を借りた。泥目線の34歳にあるまじきこの行為には理由があって、youtubeで公式チャンネルで「マリーゴールド」と「今夜このまま」のPVを見ていたらやたら何度も繰り返して聞いていたら、あいみょんの曲がゆずの岩沢厚治に似ているということに気がついた。岩沢の、世の中つまんないくだらない、みんなバカばっか、俺もバカ、ボケが、ラジオ番組でネタ披露しておいて「ラジオなんだから伝わらねえだろ」っていう漫才師は何をやらせても駄目だよとか、「令和」を際立たせないといけないのに後ろに繰り過ぎた名前いれたら主旨がブレるぞとか、あー全てがつまんねえなあ、っていうような気持ちを撒き散らしながらとりあえず存在している感じが、あいみょんの曲から滲み出ていたからだ。あいみょんはラフターナイトを聞いていないだろうけど、「風の強さがちょっと心をゆさぶりすぎて」っていう歌詞に持っていかれた。なぜなら、そういう夜はあるから。そんな夜はコンビニの灯りにとても惹かれるから。めちゃくちゃ良いですね。シングル曲はもちろんのこと、「ら、のはなし」「夢追いベンガル」、フォロワーさんに聞いてほしい!と言われた「from 四階の角部屋」とか良かったです。暗い部屋の中で爆音で聴くよりも、寒い日の深夜のコンビニの帰り道がぴったり合うそんなアルバムだな、と思った。それこそ、ゆずの「方程式2」のような気持ちの時にハマるそんなアルバム。あいみょんを好きになっても何も変わんないけど、何かを変えようという気持ちにはなりました。子供が産まれたという話を職場に報告をしたら、そりゃあ鈴木もぐらも眼の色をかえて奥さんに御祝儀を渡すのを嫌がるわと実感するくらいの御祝儀と、それよりも何よりも、戴いた数々のおめでとうという言葉が本当に染みました。がんばるよー、ほんとだよー。この年度末、自分がお世話になった上司が一気に定年退職していった。新規採用のときに直属の課長で、仕事上での部下ではなくなったものの今年までよく話をしたりした人、つい最近まで直属の課長だった人、新規採用の時の面接官だったというだけで何故か声をかけてもらうことが多かったけれど仕事を一緒にしたことが無かった人。そんな方々が一気に退職してしまうということで、一人でだったり、同僚を集めて一緒にだったりしてプレゼントを買って渡すということをした。沖縄のプレゼントはかりゆしウェアと相場が決まっているので、その通りにしたり、悩みに悩んだ挙句、その自意識が爆発して、やっぱり買うのを辞めようとなったけれどそれを振り払って、少し高めのハリオのティーポットを買ったりした。ありきたりなお酒とおちょこのセットよりも、背伸びした革靴の手入れセットよりも、ニンを出せたと思う。ハリオ好きだしと自分に言い聞かせた。それらをへらへらしながら渡したら、きちんと受け取ってくれた。仕事をしたことない方には、「仕事をご一緒したかったです」とこぼした。それは本心だったと思う。こうやって手塚治虫の『どろろ』のように、定年まで時間をかけて人間になっていくのだろう。その時の飲み会で飲むお酒はさぞかし受けるだろう。そう思った途端に、まあいっかと思ってその日の飲み会を断ったことをゆるく後悔した。

いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』の「第四夜 枡野浩一」の雑感

 第4夜は、歌人枡野浩一がゲスト。
 今回は、「見る」「見られる」、そしてそこから転じた「観客」がテーマになってきます。
 見るといえば、見るのが上手い人という意味の見巧者という言葉があります。 
やや鼻につく嫌な言い方をすると素人の玄人というような感じです。嫌な言い方をするなよ。
 今回のゲストの歌人の枡野は、見巧者だ。というのも、M1グランプリ2016のファイナリスト全8組を予想して当てるということをしているからで、それは多くの芸人を見ているというだけでなく、準決勝までの審査員の視点をもっているということに他ならないからだ。枡野は「見ている人」の傍ら、自らも一時期はお笑い事務所に所属し舞台に立っていたという経歴も持っているので、「見られる」ということも経験している。なので、この章は、お笑いファンとしてはある意味、一番噛み締めないといけなければならない章にもなっていると思います。
 枡野がどのようにしてファイナリスト8組を当てたのかというと、「他と比べた時の珍しさとか、去年と比較して成長があるか」「テレビでの人気度、知名度はあるけど、面白さがそれほどでもなかったものや、自分が個人的に好きなものは外しました。それから『Mー1』は漫才だから、コントっぽいものも外していった」とありここまではまあ何となく分かるという回答なのだけれども、加えて「あとは、ダウンタウンの松本(人志)さんが観た時にバカにしないものっていう基準で選んでいった」と話していた。
 この基準。
 これは松本人志への忖度とかそういうのではなくて、M1にしろ、KOCにしろ、決勝戦の審査員であり、ほぼ事実上、番組の顔の一つとして松本人志である以上、目がけるとまではいかないにしろ、意識していないとダメな基準だろう。
 準決勝までの審査員は松本人志に限らず、全レジェンドたちに見せても恥ずかしくない人を選んでいるはずなので、ただ「面白い」だけでは足りない(個人的にはざっくりと伝統と革新、大衆と知識人というざっくりとした分け方をした場合、2018年のM1グランプリの審査員はものすごくバランスが良かったと思っている。)。
 また、自分たちのネタは「あの松本人志が見ても恥ずかしくない」という視点を持つということは、バカリズムの章で話していた、打率を上げることに必要な客観的視点を養うはずである。それはラジオへの投稿で、パーソナリティーのツボをめがけてネタを書くのとある種似ているような力学が働いているはずである。
 賞金10万円とかでもいいから、爆笑問題1グランプリをやればいいのにと思うが、例えば、僕は深夜の馬鹿力カーボーイにメールを送る時に、これは伊集院さんが言うラインにあるか、爆笑問題の漫才に出てきてもおかしくないか、ということを一応考える。他にも、パーソナリティに脳内で喋らせてみるということをする。
 例えそのレベルだとしても、「審査員に見られても恥ずかしくないか」という自己の基準を持たないといけないというのは重要な指摘だろう。その視点を持っていたら、「発音良いな!」というボケは入れないはずだ。
 いとうと枡野の話は、テレビとライブの違いについて移っていく。
 例えば、「映像になった時に何かが損なわれたネタ」について、ここで言われている何かというのは、「何か」そのものであって、単に生で見ることから感じられるダイナミズムというだけではなく、それはネタそれぞれによって異なるものだと思うが、枡野は具体的に、マツモトクラブのネタは「生身の声と録音の声の掛け合いが面白いのに、映像として見ると、どちらも同じ声になってしまう」、ハリウッドザコシショウはテレビで見ると頭が本当におかしい人にみえて、そこで笑いのブレーキがかかる、というもので、逆にテレビを通したほうが面白いのは、アキラ100%のネタだと話す。アキラ100%は舞台で見ると生々しいらしい。そりゃそうだ。
 お笑い評論で、舞台からテレビに移動するときに「損なわれる(た)何か」について論じているのを見たのは初めてのような気がします。
 テレビで見られるということを前提としたネタを作ったということを話していたのを聞いた記憶で一番古いのは、ふかわりょうだ。ふかわの代表作「小心者克服講座」は、矢継ぎ早にネタを言っていくことでザッピングの手を止めてもらうということを意識したという。もちろん、ふかわりょうが売れたことはそれだけが理由ではないにしろ、その戦略は功を奏したのだろう。事実、それからしばらくしてお笑いはショートブームへと加速していくことになるので、慧眼と言うほかないだろう。他にも、同じように要因なのか、後付けなのか、今となっては全く判断できないが、ハリウッドザコシショウが、白いブリーフから黒ブリーフにしたら、R1ぐらんぷりでそのまま優勝した、という話もあったりする。
 ただ、それが単なる後付け、結果論と一概にはいえないのは、いとうが「笑うってことはある種その場を許容するってことでもあるからね」と話しているが、許容しているから笑うということも逆もまた真なりで、ないことはないはずだからである。
 売れるためにはどうしたってテレビという媒体を通さないといけないが、そのためには、自分たちのネタが、平面な画面に収まることでどう見えるのかということを意識して、その時に何が損なわれるのかということをきちんと把握して、駄目なところを潰し、映えるところを伸ばさないといけない。
 以前、オードリーの若林が、「iPhone(のように簡単に録画出来るもの)があるのに、稽古を録画してそれを見ないという若手がいるのが信じられない」という話をしていたが、このような視点の話だろう。
 枡野はにゃんこスターの『KOC』でのネタを見た時に「テレビ映えするし、テレビでも損をしないネタだ」と思ったと言っているが、こういったネタ作りのセンスについて、先日の『ENGEIグランドスラム』で「お笑い第7世代」をフィーチャーしていたが、霜降り明星ゆりやんレトリィバア、かが屋この世代で抜きんでている人達は恐らく、それが身についている。
 テレビが基本的に「立体感が削がれる」といった特性を理解しているからこそ、脳内で自分達のネタをテレビ画面を通して見た場合をシミュレーションできているのではないか。それはきっと、彼らを育てたのが、ライブではなく、テレビのネタ番組がベースにあるからなのかもしれない。
 さて、笑いとテレビについて、今語らないといけないことの一つとして、誰も傷つけない笑いというキーワードがあり、とくにここ数年よく見聞きする。
 それについて、いとうが話していたことがすごく重要なので全文引用したい。
 いとう「それに気をつけること(※注;誰かを傷つけるのではないかと考えること)自体は悪いことではないと僕は思う派なんですよ。人を傷つけて成立している一方的な笑いは根本的に面白くない。だけど、無色透明な笑いがいいのではない。やっぱり弱い人を攻撃する笑いが卑怯なんですよ。多数とか強い立場とかから弱いやつをからかうのは、単純な下ネタみたいに簡単だし、テクニックもいらいない。ただし、そこで誰が弱者か判定していくのは、テレビのスタジオにしかいない人には体感として無理になってくる。その上、あれもダメこれもダメと手足縛られた場合に笑いに何が残るのか、心配はある。うなぎの稚魚が少ないよ、なのにうな重なんか食うなよみたいなことと似てるよ、これ。」
 「うなぎの稚魚が少ないよ、なのにうな重なんか食うなよみたいなことと似てるよ、これ。」という例え自体が面白いことはさておき、配慮の欠如や問題があるもので炎上するものについてはもちろんのこと、例えば、この章にも出てくる、ゾフィーの「メシ」のネタのように本人たちに非がなくても炎上してしまうということもある。初めてこのネタを見た時、爆笑したのだが、まさか炎上するとは思わなかったので本当に驚いた。そして余談だが、このゾフィーの「メシ」のネタには良い話があって、ライブ界隈では、良いネタがあると噂で広まるらしく、このネタも同様に広まっていき、めぐりめぐってネタを作ったゾフィー上田のところに「最近、メシメシ言うめちゃくちゃ面白いネタがあるけど知ってる?」と言われたらしい。
 めちゃくちゃ面白いし別にこれは誰かを傷つける意図がないものであるということが分かっていたとしても、これ炎上するんじゃないかと思ってしまうこと自体がノイズになってしまうことがある。そして、そういうことを過剰に意識しているつもりでも避けられない時がある。一度、自分でも「妻を論破した」と書いたら、軽く叩かれたことがあった。  
 これまでにこのブログの記事を読んでいる人や、一定の読解力があれば、それが笑いやフリ、前置きのためにあるものだと分かるはずなのだけれど、読む人が増えれば増えるほど書いた人の手を離れてただ単にモラハラをした人になってしまうとそういうことが起きたりする。
 逆に、不特定多数ではなく、特定の誰か(そこには信頼できてシャレが通じ合う関係性が出来ているという大前提がある)に目掛けて言ったことが、そこに属する人たち全体を傷つけるということもあり得る。
 政権批判だって、広い意味で言えば、官僚や政治家本人とその家族を傷つけることになる側面もある。これは詭弁だろうか。
 また、同性愛などを笑いにしない人たちは、単にコスパが悪いからやらないだけで別に差別をしないからではないという可能性もあるし、全くおもしろいと思っていないだけということもあるので、誰々の笑いは傷つけないから好きというのは早計だと思います。

 こんな感じで、この章については、観客として思うことが山の様に出てきて止まらないのですが、最後にひとつだけ、個人的にタイムリーなことも書かれていました。それは枡野が「電気グルーヴの『かっこいいジャンパー』という歌にうまく説明できないセンス」と話していた箇所。この話のあとに、枡野は「企みじゃないくらいまでに見える無作為さが面白い」と続ける。
 電気グルーヴがタイムリーというわけではなく、先日見た『ENGEIグランドスラム』でかが屋がネタをやっていたのだが、ネタの肝となるところに、木野花という女優を用いていた。この木野花というセンスはとても最高だった(※どう最高だったのかは、先日ツイートした文を最後に載せてます)。
 ふかわりょうは以前、「黒沢年男はあるあるでのジョーカーなんですよ」と言っていたがそれに近い。このジョーカーというのがキーワードであり、それこそ上手く説明できないが、今だと、高橋英樹真麻親子とかはこれに近いような気がする。
大喜利の問題を出された時に、3番目までに出た答えでも、20番目に絞り出した回答ではない感じ。この感じに関しては、枡野が俳句の世界での言葉「つきすぎ」を出して色々と話していますがそこは本文で。
 こんな感じでマジでキリがないのでこの章はこの辺で。

 

 

 

 

 


 『ENGEIグランドスラム』でのかが屋のネタが凄かった。コロンブスの卵の様に簡単に言ってしまえば「スマホの画面がくるくる回る」ということを面白いと思うネタなのだけれども、凄かった。スマホのあるあるを持ってくるというそのデジタルネイティブなセンスが、平成育ちということを感じさせるが、実は、このことは、ジャンガジャンガ的な「間の抜け」による笑いなので、スマホを使っている人であれば年代を問わない全員に伝わる笑いとなっている。
 強いて言うなら、恐らくこのネタは舞台よりもテレビで見た方が面白いネタで、それが平成産まれのセンスということになる。
 そして巷に氾濫しているセオリーに沿うのであれば、この笑いどころをネタの頭に持ってきて最後まで引っ張るのだが、かが屋の凄いところは、それをせずに、逆に前半全てを、このことを「何の打ち合わせをしているのか」などの観客に疑問をもたせるなどのフリをカムフラージュしているところだ。この勇気と技術に震える。そしてそのことで、このネタに緊張が産まれ、貯めの状態が作られる。
 そして何よりも巧みなところは、一番最初にスマホ上で木野花の画像がくるっと回ったときは、本当に「よくあるハプニング」だと思わせられたところだ。その後、それが繰り返されることによって、観客はここが笑いどころだと気付き、一気に貯めが開放される。
 そういった構成の妙だけではなく、何より、木野花というチョイスが素晴らしい。バナナマンの名作コント「宮沢さんとメシ」での宮沢さん、『KOC』でのバッファロー吾朗のネタでの市毛芳江を彷彿とさせるチョイス。
 かが屋、すげえ。