石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

ミソジニーの本を読んだら、あばれる君のCMに引っかかっていたことに気づいたことについての省察

 呪術廻戦について書きたい文章があり、上野千鶴子の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』を読み始めて数秒、あ、これ読んだことあるなと、そのメロンパン入れに入っている自らの脳みそのポンコツっぷりに呆れながらも、再読をすると、めちゃくちゃ面白かった。

 ホモソーシャルの特性についてはもちろん、特に膝を打ったのが、「東電OL殺人事件」についてだった。この事件について、多くが割かれているが、この全てが当時の日本におけるミソジニーの産物であるということに今さらながら理解できた。初めて読んだ時にこのようなことを学ぶことができたという記憶が全く無いので、本当に、今さらながらその理屈を把握できたということなのだろう。そもそも、「東電OL殺人事件」という俗称自体が、女性差別であるということに全く気がついていなかったということ自体が、自らにミソジニーがこびりついている事の証左である。この「俗称自体が、女性差別である」という言葉の意味が分からない人こそ読んでほしい。早く、タネ本であるイグセジウィックの著書も読まないと行けない。

 この程度の感想であれば、Threadsに流すかして終わっていたのだけれど、先日、ふと、あることに気がついて恐ろしくなった。

 それはとある映像についてだ。それは、あばれる君が出演していた、サントリープレモルこと、ザ・プレミアム・モルツのCMの「無言の父たち」篇だ。話題になったので、観たことある人もいるかもしれないが、タイトルのとおり、あばれる君が扮する父親が、子と公園で遊んだり、保育園への送迎、習い事をしている間の待ちだったり、「パパ」が「ママ」に押し付けてきたことを、疲労感を滲ませたり、習い事の間も仕事をしつつも、こなしている様子が映る。そこには、あたふたしていたりなどの、慣れてない感はなく、男性の生活に育児がきちんと組み込まれていることが分かる。ただ、問題は、パパは、周りのパパたちと、喋らないということだ。育児中の当事者として、そのタイトルを見た時、確かに、となってしまったくらいに、秀逸なあるあるだ。

 会釈はする。が喋らない。喋らないというか、おしゃべりをしないということか。

 映像的にもよく出来ているのが、子たちを送迎のバスに乗せた後のくだり。パパもママも半分の割合でそこには映っているが、パパたちは、いや、パパの個体それぞれは霧散するも、ママたちはママ友の集合体となり、即座におしゃべりを始めるシーン。これは見事で、「無言の父たち」というテーマを明確に、かつ端的に、武映画における、銃声の後に既に数人倒れているといった銃撃シーンや、かが屋のコントくらいの省略を持って、表現している。 

 全体を通して、あるあるというお笑いの観点からも、上手くまとまっているし、ほっこり笑ってしまうようにもなっているし、とても良いCMだと思う。実際、このタイプの映像をドロップして、炎上しなかったのって、かなり珍しいのではないだろうか。アップデーターだけじゃなく、クレーマーや陰謀論者も会議に参加してないとおかしいくらいの制球力だ。いつもここからも昨夏に入っているのかも知れない。

 自分もそうであるしとても分かる、あるあると思ってしまったこの映像を見て、しばらく引っかかっていたのはあるものの、どうしても文章化することが出来ずにいた。言語化っていうけど、文章化だろ、他人に感想を仮託しすぎるなよと、すぐに悪態をつく人間であるにも関わらず、粗を見つけ出すことが出来なかった。悔しいけれど、問題なし、きちんと出来ています、という判断とした。悔しいとか、よく分からない感情ではあるけれども。

 だが、この無言の父になるという理由が、先の著作を読んだことで、自分にそれがあるということを認めたく無いほどに醜い暴力性を孕んだ感情にあるのじゃ無いかと気づいて、ゲボが出そうになった。

 上野の本には、男性は原則として女性を値踏みするようになっているということが指摘される。詰まるところ、抜けるか抜けないかで女性を見て、その埒外にいる存在は、女性とはみなさない的なことだ。この、値踏みをするという視線は、同性愛嫌悪としても機能する。ホモソーシャルというのは、あくまで男だけの社会だが、そこに同性愛者が入ってくると、それが崩壊してしまう。だから同性愛は男ではないし、むしろ、我々の素晴らしい環境を滅ぶす因子であるので排除しなければならない、というのがホモソーシャルにおけるホモフォビア(同性愛嫌悪)になる。ホモソーシャルに「侵入」した男性の同性愛者を「見抜く」ためには、それなりに「警戒」しなければならない。この行動が、男性には染み付いているのではないか。自分は、ホモソーシャルにはいないし、ミソジニーもないし、ホモフォビアでもないと、否定したくなると思うが、多寡の話であり、男性である以上、避けられない指摘である。救いがあるのは、これは本能ではなく、文化によって植え付けられたであるとしなければならないこともあるので、批判、否定されている訳ではないということも追記しなければならないと思う。しかし、であるが故に、自らが孕む暴力性に向き合わなければならないし、そうすることで、少しでも抑えられるという話でもある。

 話を戻すと、父親が、パパ友を簡単に作らず、無言になってしまうというのは、無意識に値踏みをしているというグロテスクな部分があるのではないか、という気付きに、キッショとなってしまった。

 自分であれば、子を同じ学校に通わせている周りの父親たちに対し、趣味合わねえだろうなとか、話を振っても面白い答えって返ってこないんだろうなと思ってしまっている。これは、「こいつは、頭良さそうじゃないな」とか「収入低そうだな」とか、男性ってどっかでそういう目線で他者を見ているのではないか。女性に対して、おっぱいでけーな、化粧濃いな、ギリ抱けるよ、下ネタのってこなくてつまんねぇよなといったように、勝手な基準での値踏みするというのが思考のクセになっているのではないか。キッショ。

 何かにひっかかりつつも、文章化できなかったのは、CMに問題があったのではなく、自分に問題があったのだ。これじゃあ、乙骨先輩じゃないか。

 これについては、さらに考えないといけない話なので、考えさせられる、で締めておきます。

 こんなこと、マジで話す必要ないですからね。嫌われるだけなんだから。

 ただでさえ、こないだの職場の飲み会で、二次会があるのかないのか分からず、幹事が何も決めていないようだったので、飲み会の一次会の後の、二次会あるのかどうか不明というあの時間が死ぬほど嫌いなので、急いで回覧を回したら、誰一人参加の欄に丸をしなくて、嫌われてるのかってなってるんですから。とりあえず、これ以上、嫌われないために、この話題は、考えさせられるで締めさせてください。

 ところでサントリーの邪悪な顔をしている社長、政治的な思惑、思想というほどには価値がないものだと思うので、そういうが、自分達の仕事が、ビールを始めとした清涼飲料水など生きていくうえで無駄なもの、生活の余力がなければ切り捨てられるものを作るという、大衆や市井の人間に奉仕することであるということが、頭からすっぽり抜け落ちている気がするのは、御社の新商品の好烏龍くらい甘ったるい認識なんじゃないでしょうか。