石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

評論とお笑い評論と積読の不思議

 構成作家の方の「お笑い評論って音楽や映画とかほかの評論に比べて、100歩くらい遅れてますよね。そもそも必要かって論議から一歩も前に進まないし、プレイヤーは語らないのが美学って価値観あるし、ネットで語ってる人に過去の演芸を参照する人が少なすぎる。」というツイートを見かけて、2割正しくて、8割間違えているなと思った。
 この「過去の演芸を参照する人が少なすぎる」というのは正しくて、かつ一番、全員の駄目なところであるけれども、お笑い評論が必要かっていえば必要なのである。それは、フェミニズムが抑圧されてきた女性にとっての武器たりえるように、これからやり玉にあげられ続けるお笑いを擁護するために。かつ、それは、お笑いを語るという性質上、合気道的な、渋川剛気的な戦い方を、軽やかさをもってなさなければならない。例えば、誰も傷つけない笑いということに対して、『ヨイナガメ』さんのように、「嘘」と一蹴すること自体には笑ってしまうし、そこに総合格闘技的な強さはあるものの、断絶された両者の間を埋めることは出来ないわけである。加えて、ぼくは、お笑いの知識がないので、お笑いについて何かを書くときはどうしても構造的な話になってしまうという弱さもあるので、過去の演芸と先達の演芸評論を勉強しないといけない。矢野誠一も読まないといけないし、シティボーイズのコントも見ないといけないし、別役実の戯曲も読まないといけない。しかし、全然憂鬱ではない。勉強したいことがあるということは人間にとって最大の幸せであるからだ。爆笑問題霜降り明星の『シンパイ賞』を見ていたら、高齢のマジシャンが出ていて、その人は定年前にマジシャンを始めて、今でも舞台に立っているということだったのだが、その芸歴は30年以上と、爆笑問題を超えていた。そこに思いもよらないほどに、勇気をもらってしまった。何かを始めることに遅すぎるということはないのである。
 そういうことに気がつくまでの過程を、やや偶然に近いかたちではあるものの、詰めることが出来た同人誌「俗物ウィキペディア」は作業に一年かかってしまいましたが、業者に入稿して納品待ちの今は、いわゆる積読状態にしている本をどんどん読んでいる。
 途中で止まっていたがつい先日読み終えたナイツ塙の『言い訳』なんかはまさにプレイヤーがお笑い評論をしていて、面白かったのだが、この本は、かなり寄席演芸に近い塙が書いていながらも、意図的になのか、そのようなことは触れられておらず、あくまで『M-1グランプリ』での戦い方等についての語りであり、そしてそれは、どこか結果論的なところがあるというところがある。これを瑕疵ととるか、塙の作戦と取るかは自由だが、このことによって、舞台に上がらない演芸評論家の存在というものは必要である、と逆説的に思わされた。
 次は何を読もうかなと思っていたら、コロナウィルスの件で、東浩紀さんがtwitterを復活していたことを目にしたので『ゆるく考える』を読み始めた。
 そのなかで、評論について書かれていた。厳密に言えば、文芸評論についてであるのだが、東浩紀が到達した結論だけを引用するが、評論というのは、「ある特定の作品なり事件なりが、文化や社会の全体にとって意味があるように見せかけること、言い換えれば、特殊性が全体性と関係があるかのような幻想を提供すること」とある。さらに「評論が評論として認知されるためには、対象の個別性から普遍的な問題を取り出し、そこに社会性なり時代性なりを読みこんで、一見作品や事件とは無関係な読者とのあいだにも共感の回路を作りださなければならない。ひらたく言えば、作品や事件そのものに興味がない読者にも、評論は届かなければならない。」と続く。例え、どんなに正確なテキストであっても、「無関係な読者との共感の回路」が造り出されていなければ、評論だとみなされないという。しかし、「全体」というものが無くなって久しい今において、「その状態を肯定しオタク的な分析に淫するならば、それこそタコ壺化は加速していく一方だ。したがって、無理だ知っていても、むしろだからこそ作品や事件に豪いんに時代性を見いだし、そこから全体性に接近できるかのようにする」とも述べている。大体88ページあたりなので立ち読みでも何でもして読んでほしい。
 まさに、お笑い評論も世間と接続する必要がある、出来るかぎり分断を止める必要があると思っていた矢先に、この文章に出会いとても感動し、あんなに頭が良い人と問題意識が共有出来ていた!とほくそ笑んでしまったのだが、その後に、これが2008年の文章だと知り、ずっこけてしまった。ぼくは11年遅れているわけである。しかしmこの11年というのは少ない方で、どちらかといえば喜ばしいことなのか、しかもこの文章を東さんが書いたのが今のぼくの三つくらいしか上でないということを考えると、そんなに離れていないことからもどちらかといえば、全てを計算させると喜ばしいことなのかとも思えてくる。そもそも、twitterを始めた頃から、東さんをフォローしていて、この十年近く著作も頑張って読んできたのだから、そこに到達するのはそんなに不思議な話ではないのである。しかし、この本を買ったのは、割と前であり、でも読んだのは先日で、このことを考えていたのはもう少し前から、という時間軸がバラバラになっている。本を買ってすぐに読んでいたら、東さんが言っていたようにお笑い評論も全体に接続するべきであるとなっていたはずなので、それとぼくが体験した一連の文章との出会いは意味が全く異なってくる。積読という行為には、こういった不思議な出来事を起こす力がある。
 ぼくが書いているネタの構造についての話なんて、まさにタコ壺の極地みたいな話であるし、ラリー遠田のAマッソと金属バットについての文章が駄目だったのは、彼ら彼女らを擁護しているようでいて、分断それ自体を擁護することであり、日本人は本格的に黒人差別をしていない、欧米人とは文脈が違うということを言っても、それは、少し前にあるあるネタとしてあった「そんなに仲良くないやつが俺をいじってきたから、おめえはちげぇだろとムカついた」みたいな話である。
 なので、未だにタコ壺に籠っているという意味では、お笑い評論は100歩遅れているわけであり、過去の演芸を参照にすることも必要だが、全体性に接続するということをもっと意識することが必要だなと思っている次第である。

 

 

 

 

 

ギャルの軽さは江戸の風

 ぼくが嫌いなライターの吉田豪が「サブカル男子は40歳を超えると鬱になる」ということ言っていたが、二年ほど前に唐突に脳内に散逸している点と点が結びつき始めて、線となって、弾けて混ざり、最終的には「文系カルチャー青年は30過ぎたらギャル好きになる」という言葉となった。
 妻子のいる身でなければ、ギャルと濃厚接触をしてみたいほどに、ギャルに憧れを抱いている。
 神田松之丞が、神田伯山の襲名に合わせて、youtubeのチャンネル「伯山ティービー」を始めて、そのチャンネルは毎日動画がアップされ、襲名披露公演の様子などが見られるのだが、何より、寄席の楽屋での映像が何よりも面白い。落語家がカメラを回しているからか、緊張感はなく、ホームビデオのようなのだが、こんな映像を見たことがない。それをずっと見ていると、やっぱり、落語家というのは、軽い人たちだな、と思わずにはいられない。伝統芸能という重しがあるからここまで軽くなれるのかとおもうほどに、他愛無い会話の中でも、シャレを言い合ったりする軽妙洒脱な姿は、同じ言語を使っているけれども、やはり芸人というのは職業ではなく、別の世界にいる人種の事だと思わされてしまう。
 ギャルも同じである。
 ギャルは、マイノリティに所属しつつも悲壮感がなく、我を通していながらも確かにある軽やかさ、友達は少なかったとしてもしっかり繋がっている、けれどもベタついていない、本来あるべき慈愛に満ち距離感を保った多様性を担保し、そして、メディアに出てきた時に需要に合わせて踊れるところも素晴らしい。そして、爽やかでありながらも少しはやっぱり湿っているエロさを持っている。まさに別世界にいる人たちである。幻想かもしれないが、少なくとも、ギャルはそのように見えることが多い。
 そしてそれら全ては、文系カルチャー青年が持ちえていないもの、というか、持ち得ていないからこそ文系カルチャー青年になってしまうのだが、そんな僕たちがギャルに対して憧れの視線を隠しきれなくなるのが、ハスりの時代を過ぎた30歳ということではないだろうか。

   

 

 

最近思っていること

 おおよそ普段と変わらない日々を過ごしている。おおよそというのは、嫌な空気が蔓延しているな、というくらいで、それは、twitterをしているからで、もし、それを見ずに、メディアからの情報だけしか得ていないのであれば、インフルエンザが流行っているという程度の認識でしかないだろう。地方在住で、テレワークが不可能な仕事に就き、原付バイクで出勤し、妻が専業主婦で、子供は保育園に通っておらず、ライブの予定も無く、土日も外出を滅多にせず、趣味が読書とラジオで、ジムもしばらく行っていない、もともと現政権に懐疑的な僕にとっては、日本を覆っている騒動に対してどこか当事者意識を持てずにいる。たまたま、ぼんやりと出来る環境にいるだけなので、不謹慎であることは重々理解しているが、コロナウィルスによって浮かび上がっている様々なことは、どこか、問題提議をしてくる批評さを帯びているように見えてしょうがない。
 「マスクって意味ないらしいよ」「不要不急の外出って、どこからどこまで」「満員電車って狂ってるだろ」「賞レースにおける観客の存在」「ダブルワークしていることを隠していたかった」「自粛を要請したらそれはもう強制だろ」「トイレットペーパーを買い占めるってオイルショックのときから何も学んでないのかよ」「まじで政治家って、一丸となってっていうんだな。戦時中かよ」「桜を見る会みたいな小さなイベントでの野党に指摘されていたこと、またやってるじゃん」「政治と生活は直結する」
 ウィルスは忖度しない、という秀逸なことを誰かが言っていたが、一斉休校の要請は、これまで政府はこうやって忖度をさせようとしてきたんだな、と可視化されているようだった。
 特に、このこと自体、そう言っている人がいるという批判が目立って、もともとそう言っている人を見つけることが出来ないというような都市伝説みたいなものだが、「音楽に政治を持ち込むな」と言っていた人たちは、この、政治が音楽の場をいとも容易く奪えるという事実を見てどう思っているのか。仮にライブが中止にならなかったとしても、ライブをしたこと、もしくは、ライブ楽しかった、とツイートすること自体が、もはや政治的な発言に捉えられ、是か非かの俎上にあげられる。
 かくいう僕も、来週東京にライブを見に行く予定である。幸いにも三つのチケットのうち、細心の注意を払ったうえで上演するということなので、行くのだが、感想はツイート出来ないだろう。少し前なら、関係ねえよとなっていたが、今は、SNS上での友人が楽しみにしていたライブが中止になったり、行けなくなったり、ライブが開催されたことで叩かれているのを見たことで、そんな気にはならないなということである。
 やはり、どこかナイーブになっているのだろう。通常の生活をしようと意固地になるあまり、牛乳を普段より消費しないように気にしすぎて、逆に普段より飲んでいないという状況になっている。そもそも補償は国がすべきことであるのに、なんで一市民が政府の無策のケツを拭かないといけないんだ。てめえのケツを拭くトイレットペーパーも無いのに。
 無料で配信が決定されているのを見る気にもならない。なぜならそれは普段にあるものではないから。ましてや、暇な方ブログ読んでください、とツイートする気にはとてもなれない。
 先日、多くはない貯金で、資産運用をするために、銀行に色々と聞きに行ってきた。その後、やっぱり面倒くさいなあとなって、貰った資料に目を通すことすらしていなかったのだが、昨日、銀行より電話がかかってきた。その時に窓口で対応した行員からで、今は相場が低くなっているので始めるなら今ですよ、という内容だったのだが、それを聞いて余計にやる気を削がれてしまった。
 要は世間的に混乱していて株価などが下がっているから、儲けは出やすいですよということであり、それは資本主義の価値観から言えば、そして行員の仕事からして言えば、正しいことなのだが、どこか火事場泥棒のような気になってしまったのである。話はずれるが、キャッシュレスによる国の還元事業も、ようは、キャッシュレスに対応できない老人たちが割を食っている、国主導の緩いオレオレ詐欺じゃないのかとずっと思っている。しかし、そう思いながらもキャッシュレスでの買い物をメインとしているので、還元のお金を受け取っているし、何だったら、職場のお茶等の買い出しを担当しているので、その分もちょろまかしている。
 全ての選択や生活へのが政治的な意味合いをもってしまう日々に、どうしたらいいのか分からずにいる。

 

 (ここまでをマクラとして、太田さんの「何て従順なんだ」と言っていた「太田はこう思うシリーズ」の話から、どうにか『100分de名著』のハヴェルの『力無きものたちの力』をまとめるということを、今年中にはしたいと思います)

 

 同人誌第二弾「俗物ウィキペディア」を入稿しました。今月中にはBOOTHにおけると思いますので、詳細をお待ちください。

 

 

 

ヒライの大江戸カツ丼とミニうどんセット

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 『せっかくグルメ(2020.3.2)』で、日村さんが熊本に行っていて、そこでヒライを紹介されていた。ヒライとは、熊本のそこかしこにある弁当屋でありそこには、食券制のイートインスペースもあり、大学生時代に熊本に住んでいたころは週に2~3回ほど行っていた。店舗は違えども、そんな見なれた景色に日村さんがいて、何百杯と食べたうどんをすすっている姿や、同じく何百杯と食べた大江戸カツ丼をテレビ越しで見た時にとてつもなく不思議な感情になって、泣きそうになってしまった。
 朝までバナナマンの『WANTED』を聞いたりテレビの録画を見たりした後や、スピリッツで「ボーイズオンザラン」の青山戦を立ち読みして興奮したあとに食べた夜食のようなうどん、友達なんて誰もいないから、騒いでいるだけでただ詰まらない奴らと見下していた人たちを避けるように食べに行った昼食としての大江戸カツ丼、バイト終りツタヤでミリオンガールズを中心にAVを借りた後に食べた大江戸カツ丼とミニうどんセット。ヒライのイートインスペースという風景は、自堕落な大学生活そのものだ。
別にそこに日村さんがロケで現れたからといって、そのころの自分は何も成仏することはない。
 当時の自分は、才能がないと思い込んでいた。今は、才能という言葉すら、幻想であると思っている。実際、僕には才能がある。それはラジオに継続してメールを投稿出来たという才能や、ブログにでも文章をアップし続けるという、続けるという才能。才能というのは、好きなことを続けられるかどうか程度であるということまでに、その言葉のハードルを下げることが出来ていたら、今はライターか構成作家にでもなれていたのかもしれない。
 しかし、大竹まことが「俺たちはどう生きるか」で、「栄光をつかんでいたら、この場所にはいない」という旨を書いていたように、そうしていたら、僕もまたここにいない。
 M-1の感想を書いたあと、他の人たちの感想も読んで、その面白さに悔しがったりしたのだが、どの文章にも、ぺこぱの漫才の「正面が変わったのか」というくだりを発明と評した人はいたが、「漫才の断面図を始めてみた」ということを言っていたのは、僕しかおらず、それこそが、自分の文章における強みなのだなと、自信が持てた。おそらくこれは、2ちゃんねるの実況板のノリのように書いたことであり、ずっと2ちゃんねるの実況板を見ていたからこそ書けたと思っている。
 先日、一年もかけてしまった同人誌のデータを出版社に送り、今月末には出来あがった本が届く予定だ。一年もかけるなよ、と思っていたが、一年もかけなければ、後半の空気階段単独、大江健三郎アンタッチャブル復活のことを入れることが出来なかった。結果論だが、やっぱり「今、少なくともここには、いない」ということになる。特に狙ったわけではないのだが、気付く人がいれば良いというレベルだが、上手く円環構造になっていた。
 なるべく安くするためにとまた100冊も刷ってしまった。そもそも前のものも半分以上まだ残っている。一冊1000円と送料で1400円になると思いますので、正式な報告を待っていただけたらと思います。100円貯金して待っていてください。一冊買ってもらったら100円ほど、僕が黒字になります。

 表紙もめちゃくちゃ最高なやつを書いてもらいました。それはまた後日。

 目次は以下の通りです。

【目次】
・人生で、東京60WATSの「外は寒いから」を聞きながら引っ越しをした回 
・ベストラジオ14 
・伊集院さん、センキューです!
バナナマン設楽統の「伝えなくちゃ伝わんないんだよな。」
の系譜
・ペポカボチャの呪い
・『TITAN LIVE 20YEARS anniversary』
・全力TVウォッチャー 福永雄一
・「それは愛であり、病気だよ」
バナナマン単独ライブ『Life is RESEARCH』
・ベストラジオ15
・当たり前を迂回したその先にある当たり前
・生駒ちゃんなりの「笑顔でさらば!」
・ベストラジオ16
バナナマン単独ライブ2017『Super heart head market』
・ひと目惚れさせる男、神田松之丞
・『We Love Television?』=『大日本人』論
・ベストラジオ17
・世に万葉のでたらめが舞うなり『爆笑問題30周年記念単独ライブ「O2‐T1」』
・『M‐1グランプリ2018』での立川志らくは、漫才をどのように審査したのか。
空気階段爆売れ前夜譚その壱~ドキュメンタリーラジオ『空気階段の踊り場』はクズと泣き虫のドンフライ高山戦~ 
・悪意ある良問のパレード『オールスター後夜祭‘18秋』
・オードリーとリトルトゥースたちのあくまで普通な祝祭
・1000年使える笑いの教科書『今夜、笑いの数をかぞえましょう』
空気階段爆売れ前夜譚その弐~鈴木もぐらの恋は永遠、愛はひとつ~
岩崎う大の偉大な才能が花開く劇団かもめんたる
・令和元年のタイタンライブ
・壁を殴るしかない夜に僕たちはどう生きるか
ガゼッタ・デロ・オワライーノ 上田晋也特集
空気階段爆売れ前夜譚その参~空気階段第三回単独ライブ
『baby』~
・魂をサンプリングするということ
・おかえり、アンタッチャブル
・産まれてきただけでステッカー

 

 計32本で約15万字で、前回と比べると、1.5~6倍の量となっていて、基本的な文章は、このブログにアップしているのですが、そこに加筆修正をしているので、完成形を10とすると、ブログにあるのは7から8ですので、まあまあ直しております。ブログは、クイック&ダーティーでやっていることがほとんどで誤字脱字もありますし、しかもオチていなかったりすることもあるので、そこら辺を綺麗にしました。
前回の「俺だって日藝中退したかった」と合わせると、このテン年代に何を見てきたのか、何を考えていたのかが少なからずまとまっているかなと思います。
 ただ、文章について、明確な意識の変化があって、「邪悪な人間、濱田祐太郎」を書いた時、このヒラギノ遊ゴの悪口メインだったので除外しましたが、あの文章がいつもよりも反響があったことで、自分が出来ることが見えたような気がしたからです。
例えば、お笑いに関する文章を書いているブログで有名どころがあると思いますが、そこを読んでいて、そこで取られている手法を取捨選択しながら、やっと型を見つけることが出来たなあと思います。
 何かお笑いの事件があると、是非論になってしまうのがとてつもなく居心地悪くて、他者と他者を接続するお笑い評論というのは、これからもっと必要になってくる。女性にとってフェミニズムが武器たりえるように、戦うための武器としてのお笑い評論。
それをするために演芸史に限らず、様々な世間のことを勉強しないといけなくて、それが足りないのは重々承知なのだろうけど、それをやるのと出来るのは、僕しかいないんじゃないだろうか。
 ああ、すいません、うぬぼれの才能があったの忘れてました。

コミュニケーション論としての「パラサイト 半地下の家族」

 『映画 ひつじのショーン UFOフィーバー!』を観てきました。ショーンが地球に迷い込んでしまった宇宙人の女の子のルーラと出会い、ルーラを捕まえようとする組織の手を逃れながら星に返すために奔走するという、よくあるプロットではあるものの、楽しかったです。
 ショーンは羊で、ルーラは宇宙人なので、共通の言語を持っていないのだが、すぐに仲良くなる。ルーラを自分の星に返すために、ショーンはルーラとともに宇宙船に戻るおんだが、その途中、街のスーパーマーケットに立ちよる。もの珍しさからルーラがはしゃぐことで、普段は憎たらしいくらいに賢いショーンも、振り回されるのだが、ふと、ここで、娘のことを思い出した。休日には、一歳にもならない娘を抱いて20分ほど近所を歩くようにしているのだが、先日、スーパーで娘が突然泣き出してしまった。理由が分からないまま、声をかけたり、揺すったりして、あやしてみるも全然泣きやもうとしない。すでにレジに並んでいたので、急いで買い物をすませて、走って帰宅したのだが、ショーンがスーパーマーケットでルーラに翻弄させられるシーンは、あれと同じじゃないかと思い、今までに他の映画でも観てきたようなよくあるくだりでも、自身の環境の変化によって、受け取り方が変わるということに改めて気付かされた。
 先日、チラシを捨てる前に、娘に丸めて渡してみたら、しばらくその状態で遊んでいたのだけれども、口に入れ出した。紙を食べさせないようにするために、セロハンテープでぐるぐる巻きにしようと、いったん取り上げ、「ボールにするから待っててね」と言いながら、チラシにセロハンテープを巻きつけながら、ふと娘を見たら、こちらを見上げて、じっと待っていた。それを見た瞬間、ぶわっと胸の奥から、娘とはじめてコミュニケーションが取れたという喜びと実感が、湧き出てきた。
 話は変わって、韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』を観てきました。
面白いという前評判を聞いたので、情報を仕入れずに観てきたのですが、凄い映画でした。ブラックコメディということくらいは知っていたので、冒頭の展開で、アンジャッシュかなと思っていたら、千原兄弟の「ダンボ君」になって、ラーメンズの「採集」になるみたいな、二段階もブーストがかかる、変身を二回も残しているフリーザみたいな映画でした。
 展開が全くよめなかったというだけでなく、何より、妹のギジョンが、トイレに座って汚水が噴出するのを止めながらタバコを吸っている画は素晴らしいという、映画としての気持ちよさにも満ちていた。何より主だった舞台となっている社長の家の造りが、そのまま映画の構造となり、さらには韓国の縮図となっているところも美しくてうっとりしてしまう。
 この映画のテーマは経済格差だと一般的には受け止められているはずである。見ている途中に同じく、経済的に恵まれていない人々が出てくる『万引き家族』や『ジョーカー』を連想した人も多いだろう。特に、『ジョーカー』は、階段の使い方ひとつをとっても、『パラサイト 半地下の家族』では、無言で立ちはだかるものや、ふとした瞬間に転げ落ちてしまうもの、災害によって断絶されてしまうものとして効果的に多用されているが、『ジョーカー』では、ジョーカーが踊りながら降るものとして描いているのは、作品の違いとしてとても分かりやすい。
 しかし、この映画は、経済格差そのものではなく、コミュニケーション論だとして受け取った。この映画には、経済格差や知識の格差による、コミュニケーションの断絶や不全が、これでもかというくらいに描かれている。
 そして、同じテーマを持っているであろう『万引き家族』では、最終的には擬似的な家族のコミュニティーであることが発覚する。奇しくも、『パラサイト 半地下の家族』はその真逆の、家族が他人のふりをするというものだが、『万引き家族』での柴田家をつなぎとめていたものの一つは、言語ではない、万引きのためのハンドサインだった。そうした、非言語によるコミュニケーションが要にあるということを考えると、池松壮亮が演じる、松岡茉優が演じる柴田亜紀が勤める風俗店に通う客の青年が、吃音症もしくは発話障害を持っているということ、さらに、柴田亜紀が勤める風俗店が、ヘルスでもピンサロでも、ソープでも、手コキヘルスでも、グレーなマッサージでもなく、マジックミラー越しに向かいあって筆談でコミュニケーションをとるシステムである一連のシーンが、この映画に配置されている意味が掴めてくる。
 日常生活におけるコミュニケーションというのは、言語をもってのみなされるわけではなく、表情や声のトーン、その場の空気など全てが稼働するものではあるが、SNSのなかでも特にtwitterはかなり言語に依存しきっているが、その依存は、同じ言語を使えば、全てが分かりあえる、もしくは他人の悪い部分を矯正出来るとい間違った前提に基づかれている。その前提が正しく機能するのは、相応の読解力、文脈の共有、何より他者が異なる主張をしていても、尊厳を持って受け入れるという度量が必要となる。
しかし現実は、そこかしこで、分断を促す言葉の投げ合いではないだろうか。
単語ひとつをとってもそうで、例えば、擁護などの意味合いが変わっているような気がしてならない。本来、かばうという意味合いの言葉であるはずだが、今は下手をすると、擁護している人も批判の対象に組み込まれてしまい、敵か味方かの単純な構造に落としこまれてしまう。言葉の意味は変わるものだとはいえ、こういう変質は看過できない。芸能人が薬物を使用して逮捕されたとき、作品の罪の有無論争が繰り広げられるが、そこに居心地の悪さを感じてしまうのは、音楽に罪はないと思うけど、あれから電気グルーヴを聞いていないという現状は排斥されてしまうような気になってしまうからだ。
 他にも、少し前に、とある記事の中に、「妻を論破した」という言葉を入れたところ批判されたことがある。普通に読めば、長々と早口で主張を話したあとの軽いオチであり、その後の記事の展開の布石になっているという、いわばフリだっただが、そういう文章としての技法が無視され、「妻」「論破」という言葉のみに引っかかったのだろうか、いつもよりも多くの人に読んでもらった記事だとはいえ、論破という言葉が強くなりすぎた事で、マンスプレイニングだと受け取られたことを反省した。そう考えると、自殺しようとしている人を止めようとするけれども、自殺志願者に論破されてしまうので、自殺を止められないというゾフィーのコントの着眼点と時代の切り取り方は凄まじいものがある。
 映画評論家の町山智宏がたまむすびで解説したように、この映画自体は、あまりに韓国におけるドメスティックな数々の問題の産物ではあるものの、後半に出てくる、豪雨により水没する街並みと、避難所で雑魚寝を過ごしている姿、包丁を持った人物による凶行の瞬間などは、ここ数年以内に日本国内で報道された災害や事件をフラッシュバックさせるには十分な映像になっているように、日本に住んでいる人にとっても切実な映画になっている。特に、自分でも驚くほどに、刃物が振りかざされるシーンは苦しくなった。
 『ジョーカー』をはじめとして銃を使った殺人シーンは多いが、日本は銃社会ではないということで、幾分かフィクションとして受容出来るのだが、駄目だった。この二つだけでも、安易にこの映画を面白いとだけで片づけられない理由である。何より、『ジョーカー』を見た後は、津山三十人殺しの件もあるし、他人をジョーカーにしないように優しくしようと気をつけることが出来るが、『パラサイト 半地下の家族』は断絶を決定づけたのが、匂いという生理的反応であって気をつけようがないというのもリアルである。
 『泣くな、はらちゃん』という傑作ドラマがあるが、そのなかで、漫画から飛び出して来たキャラクターとドラマの視聴者が、唐突に「現実」を突き付けられるというややメタな構造になるシーンがあるのだが、それを観た時の感情に近い。
思い浮かんだ凶行のひとつに、相模原障害者施設殺傷事件があるのだが、このことについて、爆笑問題太田光と霊長類学・人類学者の山極寿一との共著『「言葉」が暴走する時代の処世術』でもこの話題が出てきた。
 この本は、チンパンジー、ゴリラの第一人者という山極と、漫才師の太田という、いわば非言語を研究してきた人と、言語を使ってう言葉のプロが、コミュニケーションについて語り合っている本だが、この本で、「伝える」ということといえば、この事件を思い出すという太田は、「障が執れてとれていた。い者には生きている価値がない」という勝手なことを言っていたあの犯人のことを理解していた人は周りにどれだけいたのか、ほとんどいなかったんじゃないかと指摘し、続けて「一方で、あの施設に入所していた人々は、言葉はうまく話せなかったかもしれない。でも、家族や施設の人たちと、ちゃんとコミュニケーションは取れていた。少なくとも、入所者の気持ちを、みんなでわかろうとしていた。周りとコミュニケーションが取れていたのは、一体どっちなんだという話です。それは言うまでもなく、あの施設の入所者たちのほうです。わかりたい、寄り添いたい、そう思う人たちが周りにいた。「伝える」ための小手先のテクニックを磨くより、周囲にそういう人たちがどれだけいるのか。そのことのほうが重要なんじゃないかと思うんです。」と話す。
 実はこの言葉と伝えるという関係性がもつ矛盾性について、太田は、『爆笑問題カーボーイ(2016.9.28)』ですでに語っていた。
 「(仏様が)悟りを開いたときに、あ、この境地を弟子に伝えないといけないってときに、どうしても言葉っていうものが必要になってくる。仏像であったり。でもそれって、どんどん真実から、真理から離れていくんだけど、でも人間ってのは不器用なもんで、言葉ってものを使わないと、それを伝えることができない。それって自己矛盾じゃないですか、言ってみれば。」と太田は言い、それはアインシュタイン相対性理論を思い付いた時のような学問も一緒だと話す。
 そしてそれは、人間は一生かけて赤ん坊にもどるようなもんだと続ける。
「赤ん坊の時にあー!!って泣いて、出てきたときに、あー!!って泣いて、あれ、苦しくて泣いてるんですか。全部ですよ。あれが全部なんです。苦しみも悲しみも恐ろしさも喜びも、何もかも人間が誕生する生命が生まれたってことを表現しているのが赤ん坊なんです。おぎゃあって泣くのが、あれが全てなんです。でも、あれをそのまま伝えることができないから、人間は言葉を学ぶ。実は俺達がこうやって喋っているのはあの赤ん坊の泣き声なんです。泣き声を分割して、悲しみです、喜びです、苦しみです、ちびです、かたたまです!あらゆるところを遠回りして、おぎゃあに戻ろうとしてるんです。」
 そして、小林秀雄柳田國男の快晴の空に満点の星空が見えたという体験を受けて講演で話した「学問をする人は、こういう感受性がないとやれないんです。民俗学なんてものはこういう感受性を持っている人じゃないと、学問なんてもんは出来ないんです」という言葉を引用してこう続ける。
 そこから、相模原の事件の話題となり、太田は、「28:30 よく勘違いしがちなのは、表現っていうのは、表現の豊かさ、表現のみが大切って思うけど、そうじゃないんです。本当に大切なのは、受け取る側の感受性なんです。受け取る側の感受性を持つ人がどれだけその人の周りにいるかっていうことなんです。だから、どんだけ自分の話を面白いと思って聞いてくれるぐらいに、魅力的な人間であるかっていうことが、コミュニケーションが達者な人なんです。つまり、受け取ろうとする人が多い人、赤ん坊なんです。」
 この放送からさらに、3年あとの、タイタンライブで、シソンヌが一本のコントを披露した。三組目のシソンヌのコントは、『同居人の』というネタで、これは凄いコントだった。ネタ自体の面白さもさることながら、見ている途中で、先日起きてしまった、悲惨な事件とリンクしていることに気付いたからである。このネタ自体は、2017年に行われた単独ライブでかけられたネタなので、それはこちらの勝手な思い込みとなるのだが、どうしても連想せずにはいられなかった。
 じろうが帰宅すると、ソファに座っている忍を見つけると舌打ちをし、「まだいたのかよ」「朝言ったよな、俺帰ってきてまだいたら、もう、ぶん殴るぞ」と強く当たる。そこから数分、じろうが忍を責めていく。その中で、じろうと忍は親友でルームシェアをしていたのだが、忍はじろうに何も言わずに仕事を辞めて、そしてしばらくして全く喋れなくなったという状態にあることが分かってくる。その時のクッションで忍を叩き続けるじろうの「俺たち、こんな関係じゃなかったろ」というセリフは胸にくるものがあった。
 「今日は泊まっていって良いよ。でも明日の朝、俺が起きてきて、お前がまだいたら、もう弁護士に相談するわ」と言って、じろうは自分の部屋へと戻っていく。そして、も度てきたじろうが一言「俺の部屋に、うんこあるんだけど」と言い、怒りだすかと思いきや、「俺が今どういう気持か分かるか。嬉しいんだよ。」と喜びをあらわにする。
 このコントのスイッチに至るまでのじろうの演技が、本当に凄く、だからこそ、このコントのくだらなさが光ってくるわけだ。あとは、ひたすら、手を変え品を変えて、うんこなのだけれども、よくよく考えてみると、このネタは、コントの中の「この一年二カ月、何聞いても返さない、何の感情表現もしない。そんなお前がやっと自分から俺に何か伝えようとしたんだぞ。その手段がたまたまうんこだったってだけだろ。」というセリフの通り、コミュニケーションは言語を解さないでも可能である、という救いに溢れている。
 『爆笑問題カーボーイ』でのトークが無ければ、ただの面白いコントとしてしか受け取れなかったであろう。そして、この経験があったから、『パラサイト 半地下の家族』をコミュニケーション論としてよみ説くことが出来たわけである。
 『パラサイト 半地下の家族』の結末は、断絶された場所に閉じ込められ言語というコミュニケーション方法を取り上げられた父が、受け取ってもらえるという補償が無いまま、非言語であるモールス信号を放ち続け、そしてそれを息子が受け取り、解読し、未来へ希望を持つというものである。これこそが、コミュニケーションの本質ではないのか。
 言語が用いられない『ひつじのショーン』がなぜあんなに面白いのか。それは、理解しようというこちらが、ショーン達を受けいれるために集中するからではないのか。ツイッターで、リプライのやりとりをするよりも、どうでもいいツイートをお気に入りをしたりされたりしているときのほうが交流が出来ているような気になるときがある。
あらためて、ゆっくりコミュニケーションについて考えなければならない時代ではあると思う。

魂をサンプリングするということ(エラボレイト版)

※この記事は、もともとのものを、同人誌「俗物ウィキペディア」用に推敲したテクストになります。

 

 伊集院光とNHKアナウンサーの安倍みちこが司会を務める『100分de名著』という番組で、大江健三郎の『燃え上がる緑の木(1993-1995)』が取り上げられた。大江健三郎にハマり始め時に読んではみたものの理解できなかった作品であったが、せっかくだからと、この放送に合わせて、番組の解説を聞きながら、一カ月かけてゆっくりと再読してみたら、とてつもなく面白い小説だったということに気付かされる良い読書体験を得ることが出来た。

 大江健三郎の小説は、デビューした頃などの初期に分類される作品はソリッドで濃密な文体で、今読んでもとてもカッコいいのだが、後期は特に、伊集院が「大江先生の本は何かとこう話題になるたびに手には取るんですけど、難しいって挫折してきて、唯一ね『「自分の木の下」で』っていう本だけは割と分かりやすく書いてて、40歳手前くらいのときに多分読んでこれ俺にも読めたと思ったら、先生が小学生向けに書いた本だって言って」と笑いを誘っていたように、例えば、登場人物の名前や紹介が不十分であったり、大江の長男の光が頭部に障碍を持って生まれたということを知識として持っているということを前提としているなど、大江作品全体の背景を抑えていないと分からないところがあって、ハイコンテクストとまではいかないが、親切な小説ではないことは確かである。

 なかでも作中に点在する、大江が読んできたのであろう世界文学の引用について、その意味を理解できずにいたのだが、「第二回 世界文学の水脈とつながる」ではまさにそのことについての解説がなされていた。

 番組にも指南役として登場した作家の小野正嗣によって書かれたNHKテキストには、「大江文学の特徴は、つねに他の文学作品や芸術作品との関係において小説が書かれていることです。別の言い方をすれば、大江健三郎の小説には、他の文学作品という対話者がいて初めて成り立つようなところがあるのです。対話するためには、相手の言葉が必要ですから、どうしてもそうした作品の一節や言葉が、作中に引用されることになります。」とある。加えて、大江自身が書いた、または書いたが完成しなかった小説までが出てくるが、これは『燃え上がる緑の木』に限らないので、手に取る順番を間違えると、難しい小説と感じてしまうだろう。

 『燃え上がる緑の木』も、タイトルからしアイルランドの詩人のウィリアム・バトラー・イェイツの詩から着想を得られたものであるように、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデ、ドイツの作曲家のワーグナー、フランスの哲学者のシモーヌ・ヴェイユ、ロシアの文豪のドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、谷内原忠雄『アウグスチヌス「告白」講義』などが全体を通して登場し、物語に大なり小なり作用する。

 番組では特に『カラマーゾフの兄弟』とヴェィユに焦点が当てられた。

 小野は、大江が大好きな作品であるということはもとより、虐げられた子供の物語とも読み説くことが出来る『カラマーゾフの兄弟』での、病気のイリューシャを主人公であるアリョーシャが慰めるシーンは、『燃え上がる緑の木』の病気のカジ少年をギー兄さんが慰めるシーンと重なるものであると指摘する。また、大江が子供という存在にひきつけられる理由について「大江さんには頭部に障害を持って生まれた光さんっていう息子さんとの共生、共に生きるってことが、大江さんのその文学のほんとうの、ほんとうのその柱なんですね。だから大江さんのお子さんが産まれてから、あらゆる作品に子供の問題ってのは描き込まれていると。」と話す。

 大江の息子の光という名前は、ヴェイユが「闇夜の世界でカラスが、光がほしいと願ったことで光が生まれた」というエスキモーの話を論じた事に因んでいる。その時の裏話として、母親に由来となる詩の話をしてから、カラスと名付けようかなと言ったら怒られたというユーモラスなエピソードもある。

 安倍は、叱られそうですけど、と前置きしたうえで「ゼロから産み出だすのと、引用してこう持ってくるのだと、引用して持ってくるほうが楽なのかと思ったんですよ。」と話すと、伊集院も「思うよね。最初はね。でもこの使い方はちょっと異質ですよね。」と頷きながらも、小野に尋ねる。小野はそれに「これだけ膨大な世界文学があるんですよ。その中からどれをどのように引用するかということ自体が、もうそれこそがクリエーションですよね。しかもね、引用ってのは、他者を受け入れる作法なんです。それはね、ほんとに、他の詩人たちの言葉も大江さんの作品の中に受け入れられて、そこで出会い、そこである種、対話していって、新しい言葉の世界が生み出されていく。」と答え、大江作品における世界文学の引用という行為の意味と効果について解説する。 

 その解説に対して、「いやなんか、自分の魂について考える。そのよすがになってくれた文学作品の自分を助けてくれたところをまとめたら福音書になるんだっていうことですもんね。自分のその息子さんとの関係、関係の中で生じた魂への疑問みたいなものを、ありとあらゆるものを読んで、それがどんどん解決に向かわせてくれたんでしょうね。」と伊集院が続けたのを聞いた小野は、「いや、伊集院さんの方が、僕なんかよりはるかに深く読まれてると思います。つまりやっぱ、自分の魂の問題っていうか、疑問を、世界中の詩人や文学者に投げかけているんだと思いますね。」と感嘆する。

 そして小野は、この回の最後に、大江文学における本という存在について、「読書って何かっていうと、人は苦しい時やつらい時に必要としているところにジャストミートするんだ、出会うんだっていう話を大江さんはされていて、なにか僕は大江さんにとっては、読書自体がね、祈りをささげることに似てるんじゃないかっていつも思うんですよ。注意力を傾けて、自分の持てる注意力を傾けて、他者の文章っていうものに触れていくと。まさにね、注意力っていうのは、その祈りの純粋な形だっていうヴェイユは、そういうことも言っているんですけれども、なにか自分の目の前にある、あるいはこう自分の考えている対象に向かって意を注ぐ。で、そう言われてみれば『燃え上がる緑の木』の教会の祈りって何ですか。集中です。集中するってなにかって言うと、注意を、注意力を何かに注ぐっていうことじゃないですか。で、これってまさに、ヴェイユの言っている、その集中力っていうものが、その祈りであるっていうことと響きあっていると僕は、思うんですけど。」とまとめる。

 伊集院の解釈を聞いた小野が終始、「その通りだと思います。」などと絶賛するようなリアクションを取っているのもよかったが、それは、やっぱりという気持ちもあった。というのも、大江と伊集院といえば、伊集院がパーソナリティーを務めていた『日曜日の秘密基地(2008.3.2)』という番組のゲストに大江健三郎が出演して、伊集院とトークをしていたのだが、ジャンルも年齢も異なる二人にも関わらずそれがとても噛み合っていて、素晴らしいものだったからであり、どこか深いところで繋がっているのではないか、とずっと思っていたからだった。

 強くそう思わされたのは、伊集院が、大江の本について、タイムマシーンだと評した一幕による。伊集院は、大江が小学生の頃などを思い出していると、その時に気付かなかったことに改めて気付き、そして、そのことについて文章にしているところが特に好きで、それにつられて、自分もなにか過去のことを思い出して、視点を変えてみるということをやってみると、調子のいい時には、今までとは違うことに気がつくことが出来る、その時の感情として、「面白いも怖いもゾクゾクも全部入った、うわ、俺、なんか、もっかいここに行けてるっていう感じすんですね。なんか、あれすごいですよね。喜怒哀楽の単純な笑いでも、単純な怖いでもない、あっ、なんだろこの感じ、大江健三郎の本によって、俺連れてかれてるっていう感じ。」と話していた。それは、伊集院とリスナーとの関係にも入れ替えることが出来る。『深夜の馬鹿力』でのフリートークの内容と、リスナーとしての自分のバイオリズムがバチっとハマったときに感じることが、まさに、「連れてかれてる」でもあり、そして喜怒哀楽のどれにも明確に属しない混沌としたものを面白く感じるというのは、まさに伊集院光から教わった価値観だったからだった。

 大江の手法は、現代的にいえばサンプリングだが、『100分de名著』が放送されている一カ月の間に、同じようにサンプリングを用いた作風ともいえるクエンティン・タランティーノ監督作品の『Once Upon a Time in…Hollywood』を観てきた。

 1969年のハリウッドを舞台に、レオナルド・ディカプリオ演じる俳優のリック・ダルトンと、ブラッド・ピット演じるその専属スタントマンのクリフ・ブースらを描いた『Once Upon a Time in…Hollywood』は、タランティーノ作品のなかでは、『ユリイカ2019年9月号 特集=クエンティン・タランティーノ』にはタイトルの「…」がinの前か後かという文章が載るほどに情報量が多い映画であることは間違いないのだが、やはりこれまでのタランティーノ作品と比べると、構造が凝られているわけでもなく、途中に緊迫感があったりするものの、全体の印象としては、だらっとしたチルな空気が流れている。 

 ただそれは、とても心地良いもので、特にそれが集約されたような、クリフのトレーラーハウスでの生活を描いた場面などはたまらなく素晴らしい。タランティーノは、少なくとも映画を取ることは10作でやめると公言していて、今作が9本目にナンバリングされるわけだけれども、そんな作品で、いつも以上にサンプリングとパロディを盛り込み、それが本当に楽しんで映画を撮っていることが伝わってきて、そのことだけでもいくらでも語りたくなるほどだ。

 『アルコ&ピース D.C.GAREGE(2019.9.4)』では、アルコ&ピースの平子が「CG無いらしいですけども、ロスのあの頃の埃っぽさすら伝わってくるような光景だったんですが、こだわりってどうなんですかって聞いたら、たぶん、いっちばん聞いてくれたってとこなんだろうね。俺のことでっけぇ手で指差して、ユゥーッてまず言ってきて、びくぅってして、めちゃくちゃがなってきて、あ、殺されるぅと思ったら、よくぞ聞いてくれたの質問だったんだね。そっからばーって喋ってさぁ」と、タランティーノにインタビューした時の裏話を話していたように、再現された当時のハリウッドの街並みも見応えがあるものだった。

 何よりこの映画に心を震わされたのは、タランティーノが、この作品の中で偽史を作り上げたということだった。そのこと自体は『イングロリアス・バスターズ』でもなされていたのだが、『Once Upon a Time in…Hollywood』は、もっとタランティーノの個人的なことに踏み込んで、しかもそれは軽やかさをもって成し遂げられていた。映画の結末の意味に少し遅れて気がついた瞬間に、得も言われぬ感情が心に広がり、理屈を飛び越えた感動が押し寄せてきた。見終わった帰り道、「これは・・・・・・。これは・・・・・・。」とぶつぶつつぶやきながら、少し肌寒くなってきていた夜空の下、原付バイクを走らせていた。

 また、サンプリングということからは、いとうせいこうのダブポエトリーも連想した。

 いとうは、TBSラジオの『アフター6ジャンクション(2019.8.5)』の「LIVE&DIRECT」というコーナーに出演し、ダブポエトリーについて解説する。「80年代くらいか、70年代くらいか、ジャマイカで産まれました。自分達が録音したトラックを、ダブエンジニア、まあ、つまりエンジニアの人が最終的にレコードにする際に、えー、まあ、ボーカルをオンにしたり、まぁ、あるいは、ベースを抜いてしまったり、時には、というように色んな事をやるように、つまり技術者が音楽に関わるっていう革命を起こした。だいたいは、低音と高温をものすごく強調するような音楽で、まあそれが各地にダンスミュージックにものすごく影響を与えて、みんながダブサウンドっていうのをやるようになりました。で、ヒップホップもそれに僕は近いと思っていて、要するにDJっていう非音楽家が音楽をやるという意味ではダブと、ダブも、実はヒップホップもジャマイカ系移民が、あのまあ、やったと言われているんですけども。えー、何故かジャマイカから20世紀後半にふたつの非音楽的な音楽が産まれた。で、これをやっぱり僕は、ずっとやりたくて89年にヒップホップをずっとやってたけど、なんか音楽とまぐわえないと思っちゃって。フリースタイルも無かったからまだ。その頃は。で、僕は一回辞めちゃうんですけど。ラップを。それでその90年代ずっと何やってたかっていうと、いろんなDJ達と、この自分の詩を次々読んで、アドリブで読んで、それにダブをかけてもらうっていう。それがやっぱり、意味と、意味でこっちはセッションする。音楽をやっている人達は意味じゃない音を出してるんだけど、それが意味に聞こえる時がある。で、これがやっぱり音楽の醍醐味なんじゃないかっていう風に思って。意味で踊ってもらう。」

 それから、スタジオで披露されたライブパフォーマンスは、いとうせいこうが、バンドが演奏するレゲェ風の音楽に乗せて、田中正造の言葉を読み上げるというものから始まった。

 「真の文明は山を荒さず。川を荒さず。村を破らず。人を殺さざるべし。人は万物中に生育せるものなり。人類のみと思うは、誤りなり。いわんや、我ひとりと思うは誤りの大いなるものなり。人は万事、万物の中にいるものにて、人の尊きは万事万物に背き損なわず。元気正しく、孤立せざるにあり。明治44年5月14日。田中正造is the poet」

 さらに、九鬼周造、ナナオサカキ、与謝蕪村が読みあげられていく。

 田中正造が百年以上前に書いた文章を、現代人のいとうせいこうが令和元年に、日本の真裏で産まれた音楽に乗せて読みあげることで、過去と現代、さらには国までもがぐちゃぐちゃになって混ざり合い、そのことで、様々なテキストが、ランダムさも含めてクリティカルで再解釈できる瑞々しいものとして息を吹き返して、現代に接続し、新たな文脈となり未来へと繋がっていく。((令和5年、『万延元年のフットボール』を再読し、これがそれと同じ構造を持っていることに気が付きました。((ここに脚注を書きます))))

 タランティーノはインタビューで、「一年半前にシャロン・テートの名前が話題に出たら、20世紀に起きたなかでも、もっともひどい殺人事件の犠牲者として彼女のことを思い浮かべるだろう。俺は彼女が生きていた姿を見せたかったし、彼女をひとりの人間として描きたかった。」と話していて、こういうことか!と、映画を見て心が震えた理由を、追って理解することが出来た。映画が好きな人は、シャロン・テートの名前が出たら、『Once Upon a Time in…Hollywood』を思い浮かべるであろうから、その意味だけでも、タランティーノの手によってシャロン・テートは現代に接続することができたわけである。そしてそれは『燃え上がる緑の木』のカジ少年のエピソードや、大江健三郎が描いてきた、死んだら森の中に生えている自分の木の根っこに戻って再び生まれ変わるという話をはじめとした死と再生の物語と共鳴する。

 『100分de名著』の第4回の最後に、大江健三郎が今まさに『燃え上がる緑の木』の最後の文章であり、「喜びを抱け!」という意味を持つ英単語の「Rejoice!」を書いて執筆を終える瞬間という貴重な映像が流された。

 そこで大江は、「障害のある子供に父親が死ぬということを教えることをどうするかということは、まあ、僕にとっては非常に大きな問題です。子供に自分が死ぬということを君は恐れることはない。自分が新しく生まれ直してくることがあるかもしれない。その時には君と一緒にあるということをね、言いたいという気持ちは持っているわけですよ。」と語るが、もう泣けて泣けてしょうがなかった。

 大江健三郎が『燃え上がる緑の木』を当時、自らの集大成として執筆し、最後の小説と位置付けていたとのことだが、そんな作品が、こんなにも希望に満ちた言葉で締められるわけである。

 ここまできて、ようやく、サンプリングという手法が持つ効果や役割をつかめたような気がした。

 そもそも、ここまでの文章、および、これまでにブログ「石をつかんで潜め」にアップしてきた記事は、お笑い批評という性質によるものが多いが、基本的には引用である。選んだわけではなくて、辿りついたという表現がしっくり来る手法だが、気付けば、「石をつかんで潜め」という名前も、大江の『芽むしり仔撃ち』の最後の「僕は自分の嗚咽の声を弱めるために、犬のように口を開いてあえいだ。僕は暗い夜の空気をとおして、村人たちの襲撃を見はり、そして凍えたこぶしには石のかたまりをつかんで闘いにそなえていた。」という一節を受けたもので、意図せずして、大江健三郎の模倣になっていたわけである。

 『燃え上がる緑の木』は、主人公のサッチャンが、K伯父さんから「この物語を書くよう勧めてくれた」から書いたというていが取られている小説で、その時に、サッチャンはK伯父さんからアドバイスを受ける。

 「あったことをそのまま正確に復元しようと、神経質になることはない。それよりもね、こういうことがあったと、サッチャンの言いはりたいことを中心に書いてゆくのがいい。ありふれた本当らしさの物語ではないんだし、とにかくこのような物語を生きたと、きみが言いはり続けるのが書き方のコツだ。」

 言いはる、という言葉からは、正しくないかもしれないけれども、間違っているかもしれないけれどもという揺らぎのニュアンスが読み取れるが、だからこそ、読まれるか読まれないに関わらず、文章を書いている人間にとってなんと勇気が湧き出る言葉だろうか。

 そして、さらに、『日曜日の秘密基地』での大江の「自分自身が、あの普通の人間として生きていて、普通の現実生活を生きていて、その地続きで辿りつくことのできるものからね、毎日文章を書き直すことによって、一歩、あの、ジャンプすることが出来るっていうことがあると信じているわけなんです。それを頼りにして、あの、五十年間、小説を書いてきたわけです。ですからね、それは本当によく受け止めてもらえるかどうかってことはね、あんまり考えない。」という言葉にもつながっていく。

 『燃え上がる緑の木』にて繰り返される主題は、「魂のことをする」だが、自分にとってのそれは何なのか。

 数学で習ったベン図という、複数の円が重なり合う図式があるが、あのように、全く関係ないように思えるものが重なる瞬間に、異様に魅力を感じる。落語家が近況や世相をマクラとして話して、そこからシームレスに古典落語に入るのを見て快感を得るようなものだ。サンプリングによって産み出されたものから、新たな文脈を提示することが出来るのであれば、こんな楽しいことはない。

 お笑いそのものに限らず、お笑い批評を取り巻く環境もどんどん変化している。お笑いが大衆芸能の一波である以上、気安く語られること自体はむしろ歓迎すべきことでもあるのだが、その語りやすさに付け込んで政争の具にしたり、自身の思想の補強や、正しさの証明に安易に使われているという状況にはプチ反吐が出たりもする。それは何故か。現代において最大の敵である分断を進めるからである。意図的にせよ、無意識にせよ、そういうことをする人間の声が通りやすい時代であることは間違いないが、それに抗うための武器として、サンプリングを始めとしたあらゆる手法を用いて、好きなものと好きなもの、好きなものと嫌いなもの、嫌いなものと嫌いなものを接続させるために、誠実さをもって文章を書くということがお笑い批評となっているのであれば、それこそが自らの魂のことである、と言い張っていこうと思っている。

空気階段を見に行ったら、土俗的なコントを見てしまった話。

 よしもと沖縄花月空気階段が来るということで、見てきました。

 よしもと沖縄花月の通常の公演は、1時間で終焉するのが三本あって、その合間に1時間空いているというもので、せっかく空気階段が来るのだから、2ステは見ておこうと思ってチケットを買っていましたが、結局3ステ見て、しかも全部違うネタだったので大満足でした。

 地元で聞く、空気階段の出囃子のじゃがたらの「タンゴ」は格別でした。

一本目はショートコント三本と「隣人」、二本目は「ねずみ」、三本目は「聖クワガタの集い」で、空気階段らしいコントでした。「ねずみ」には「借金が五百万を超えている奴は、消費者金融から出てくるときに胸を張っている」という踊り場で聞いたようなフレーズが入っていたりして、ニヤリとさせられる一瞬もありました。

 よしもと沖縄花月は、港にあるビルの一角にあってロビーが狭いので、外で開演を待つことが多いのですが、その入り口はひとつしかないようで、その構造上、頻繁に出演者も通って、結果的に出待ち入り待ちになってしまうので、空気階段の2人に会えれば良いな、写真撮れたら良いなと少し、下心が湧きでていたりしたのですが、まさにたまたま、かたまりが外に出てきて、その時に、かたまりさん!とだけ声をかけることが出来ました。そこでは、それだけだったのですが、まあ良いかとなっていたら、少し離れた喫煙スペースでかたまりがいるのが見えて、勇気を出して声をかけようかなと思って近づいたら、そこでもぐらもタバコを吸っていた。

 吸い殻入れがそれぞれのベンチの横に置かれていて、そこで別々のベンチに座って、港をぼんやりと眺めている二人。かたまりは白いシャツで、もぐらは黒いパーカーで、なんともいえない絶妙な距離をとった二人の対照的な姿はまさに、峯田が空気階段を評した聖者と愚者のようだったし、あの「baby」の導入部分のようでもあった。この構図自体が単独ライブのポスターのようで、思わず隠し撮りしたくなってしまいました。

 邪魔をしていることは承知のうえで、声をかけ、「anna」を見に行くことを伝えることが出来、写真を撮ってもらいました。

 空気階段に満足したことはもちろんのこと、お笑いファンとして、すごい発見をしました。それは、ありんくりんと大屋あゆみという2人の芸人のコントです。

 ちなみに僕は、基本的に沖縄で活動しているお笑い芸人が大嫌いで、どのくらい嫌いかというと、落語家が二つ目にならないと落語家を名乗れないというほぼ同じ意味合いで、沖縄で活動している芸人はいない、と思っているくらいに嫌いです。それにはいくつか理由があって、今も活動している沖縄芸人の1人に5000円を貸したら8年くらい返さず、返すときには全く利子もつけなかったということがあるということが一番大きいのですが、基本的に彼らのネタは、テレビで見る漫才のパターンを模倣して擦られまくったくだりをつなぎあげただけで何のオリジナリティも無く、あるとすれば、方言を多用すればウケると思っているようなもので、本当に見なくても良いネタしかないというのがあります。

 加えて、地元への鬱屈した感情もあるので、基本的に、沖縄花月に、好きな芸人を目当てに通常公演を観に行くと、砂かぶりに座っているくせに、沖縄芸人を見ても全く笑わないし、ネタを見ながらフリから先の展開を予想して、当てて、だろうなと思ったり、何がダメなのかとか考えたりしてほぼ無表情というバチバチ尖り最低客でMー1でのジャルジャル に対して「顔で笑ってはいないけど心で爆笑している」と評した立川志らくの最悪バージョンになってしまうのですが、この日に見た、ありんくりんと大屋めぐみは、ちょっと違いました。

 まず、ピン芸人の大屋あゆみは、3公演とも同じネタで(こう書くと大屋あゆみが悪いみたいに取られる可能性ありますが、基本的には3公演見ている僕が悪いですし、なんだったら、てにをはの違いのような言い回しなどの細かい違いを総合して見た結果、二本目が頭抜けて良かったと言っている僕がおかしいということは分かっています。)、気象台のコールセンターの電話担当を、掃除のおばちゃんが対応するという1人コントで、そのおばちゃんが、沖縄のおばちゃんなので、原稿をただ読み上げれば良い仕事なのに、それが出来ないというネタでした。

 そのなかで、「前の職場でも言われたわけよ、下地さんが来たら忙しくなるねぇって。招き猫みたいだねぇって。それが今ではこんな太って豚になって。ええ、誰が豚よ、叩かれるよ」というくだりは、まさに、アルバイト先にいる沖縄の陽気なおばちゃんで、特に、ただ読み上げるだけで良いと言われている明日の天気予報の「降水確率は10%です」を一旦読み上げたあと、「あしたの降水確率ねぇ、60%くらいよ。だから傘持っていきなさいね。なんでかって言ったらね、私偏頭痛してるわけさ。今日頭が痛くてよ。だから、明日は雨降るよ。よく言われよったよ、下地さんは占い師より当たるねぇって。はい、仕事頑張ってね。」と予報を否定する。

 ところどころ、よくある、やりたいボケが先行してしまっているがゆえに脚本に穴が生じているみたいな現象も起きてはいたものの、こういったフックのあるセリフが入れ込まれてて、笑った、とまではいかないんですけど、ああ、よく出来てるしきちんと演じられているなあとニヤッとしました。

 ちなみにここでいう脚本の穴というのは、休憩に入った人が担当する電話が鳴るというところで、休憩に入るなら電話は切るだろとなってしまうようなもので、基本的にこういうことばっかりネタを見ながらチェックしている。お笑い見るの辞めろ、もう。

次はありんくりんアメリカと日本のミックスのクリスと、ひがりゅうた(各学年に二人いる、沖縄での無課金ネーム)で、テレビでも見るような売れている人達です。

 今回の3公演のうちで2本のネタを見ました。

 一本目は、三線の名人のところに、アメリカ人が弟子入りに来るというコントで、二本目はたんちゃめーのコンテストに2人で出ようとしていたら、その相棒の1人が急遽出られなくなったので、その人が用意した代わりに出てくれる人がアメリカ人だったというコント。

 たんちゃめーとはWikipediaによると(文献に当たることもしない怠惰な人間がよく使う言葉で、唾棄すべき最も嫌いな言葉の一つだけど、忙しいので許してください。でもWikipediaに寄付はしません。)、『「谷茶前節」(タンチャメーブシ)は、沖縄本島の代表的な民謡と踊りである。踊りは男女で対になって打組みで踊るもので、雑踊り(ぞうおどり)の一種であるが、その代表的なものとなっている。衣装は男女とも芭蕉布の着物で男役は櫂(エーク)を、女役はざる(バーキ)を手に持ち踊る。谷茶(たんちゃ)は沖縄県本島の恩納村の地名で、谷茶の海岸を舞台にしている。』とのことです。ちなみにヤリマンのことを方言でバーキーと言うのですが、これはザルのことをばーきと呼ぶことから来ているのでしょうか。ちなみに、この方言は僕の友人しか言っていなかったので、この方言が本当にあるかどうかの信憑性は、ヤリマンの貞操観念くらい薄いです。そしてこの友人は安室奈美恵と同じ校区だったので、安室ちゃんに確認してください。

 一本目は、完全なアメリカ人が弟子入りを望むも、名人は人見知りだから、その頼みを断って、練習を続ける。その練習しているサンシンの音色に合わせて、アメリカ人が勝手にセッションしてくるというネタで、三板カスタネットみたいな三枚の板)で返事をするところや、台車に乗せた太鼓を舞台に運んできて叩きだす展開は予想できなくて笑ってしまいました。

 サンシンや太鼓、踊りなど、素人目に見ても上手すぎて笑ってしまうという領域に到達するわけではないものの、少なくともコントの邪魔をしない程度の技術はあって、そこも良かったです。

 二本目も、助っ人出来たアメリカ人は練習の段階では全く踊れず、いらいらしている沖縄県民だったけれど、大会本番にアメリカ人が、実はちゃんと踊れて結果優勝するのですが、その失敗が、ギャグ漫画的なつなげ方でテンポが良くて、面白かった。

 最後に「辺野古をくれ」って言って終わるオチなのですが、その最後のツッコミが「べー!(沖縄県民の子供がやる、あっかんべーのような否定のニュアンスをもったアクション)」で終わるのって、ちょっと吹っ切れていて気持ちよさすらありました。

 どことなく、二つとも、どこか島袋光年の世界観のようで楽しかったです。

 ありんくりんのネタは、沖縄県民とほぼアメリカ人のコンビという見た目の性質上、沖縄県民の日常にアメリカ人が介入するというネタのため、これは沖縄の現代を強く反映していて、茂木健一郎も思わずストレートパーマになって確定申告で経費の控除をし忘れてしまうほどに批評性を帯びている、というのは考えすぎかもしれないが、少なくともタイタンライブで固まっていないネタをやってややウケのパックンマックンよりはきちんとしていました。東京や大阪にいる、日本人と外国人コンビのどのネタと比べても、ちょっとちゃんとそのことが機能している。

 以前、同じように沖縄芸人のコントで目を引いたボケが、どこの地域にも似たような風習はあると思うんですけど、赤ちゃんの前にそろばんや本を置いて、どれを選ぶかでその子の将来を見通すもので、そこに、電球とバットを置いて、「沖縄電力の野球部になってほしいから」というネタがあって、この面白さは、絶対に他県には伝わらないですよね。

 電力会社というインフラ産業に入ってほしいというのはともかく、このバットの野球部というのがミソで、沖縄県民の異常な高校野球好きが反映されていて、それが二つ合わさるから笑えたという、ある意味ハイコンテクストな笑いで、そのことで琉球の風が吹くまでにいたっている。

 空気階段が描く都会の片隅の風の匂いがするコントとの対比でこんなことを考えてしまったというのは否定できないものの、沖縄県民にのみ特化した笑いを客が大体10人前後の劇場で作り続けられた結果、沖縄芸人の何人かのネタがじゃりン子チエくらい土俗性を持ちつつあるというガラパゴス的な進化の状況を見て少し興奮してしまったのと同時に、少し襟を正そうと思った次第です。