『カメラを止めるな!』感想と「伏線」デフレ問題について。

 『カメラを止めるな!』を見てきました。
 以下、ネタバレを含む感想です。
 鑑賞後の実感としては、単独ライブで見ることのできる良質な長尺なコントを見ているような爽やかな気持ちになりました。それが90分も続くわけですから、最高の映画ですよね。『木更津キャッツアイ』を何も知らない状態でもう一度見てみたいという夢を叶えてもくれました。
 思い付きそうで思い付かない、かゆいところに手が届いたという気持ち良い作品内の構造に加えて、「拡散希望」なSNS社会でそれを拒否するという作品外の構造が相乗効果を生み出しつつ、世間の空気の穴にすぽっとハマったと思うのですが、それでもこの作品の凄いところは、そんな取ってつけたような考察が陳腐で野暮に思えるくらいに、真っすぐなところだと思います。三つのパートそれぞれで飽きさせずに、笑いだけじゃなくて、可愛げ、おかしみ、切なさが詰められていて、主演はヒゲを生やしたおっさんですけど、まごうことなき青春映画でした。
 EDも良かったですよね。「本編」の映像を撮っている撮影クルーの映像を持ってくることで映画が完成し、メビウスの輪のような美しさとなっているという。あー!楽しかった! 
 パクリ疑惑に関しては、ネタバレ回避のために全く情報を取り入れていないので何とも言えませんが、原案としてクレジットされているにも関わらず、盗作とされたのって人類有史始まって以来じゃないでしょうか。特に言うことはないです。ただ、ラリー遠田は、サンキュータツオさんのデータをパクっています。
映画について考えていたら、なんとなく「伏線問題」についても考えてしまいました。
最近の「伏線」という言葉の使われかたが、誤用というか、デフレが起きている気がします。下手したら、「今日は仕事休み!」に対して、「先月有給届けを出していたから」が伏線と言われるくらいに価値が下がっている。漫才やコント、漫画を始めとして、昔より様々な創作物に用いられるようになったことの弊害だと思います。
そんな伏線回収は大量に溢れていても、本当に気持ちのいい伏線に到達しているものは少なく、大半が、後半で回収するための伏線でしかないというのが事実だと思います。それだと、カタルシスを得られないどころか、「パズルしてるなあ」と冷めてしまいます。
 じゃあ、良い伏線というのは何かというと、「作品の流れに溶け込んでいて自然なもの」です。例えば、『金田一少年の事件簿』に、登場人物が「施錠を怠らないように」というセリフを告げるシーンがあったのですが、実はこのセリフを投げかけられたのは外国人でその違和感に金田一少年がひっかかるというものなのですが、多くの読者はこのシーンを読んで「外国人に難しい言葉遣いをするのはおかしい」とはならないんですよね。フィクションに触れるうえでのお約束を守り、違和感を見逃してしまいます。ここでいえば、難しい言葉遣いをするのは、作者の言葉選びによるもので、謎ときには関係ないと思ってしまうというものです。
 それが『カメラを止めるな!』でいえば、冒頭の「趣味を唐突に質問する」というシーンが、一回目を見ていると、そのやり取りは、気まずい空気や緊張しているということを演出するためのものでしかないのだけれども、本当は「時間を引き延ばすため」のものであったり、あとはゾンビが良きところで止まったり動いたりするのは、ギャグと見せかけて、実際はこちらも「時間を引き延ばすため」のものだったという。
あと、何気ないセリフ(冒頭の女優と俳優を罵倒するシーンや、『ぽん!』)がすごく人間が乗っかっているものだったということを知るっていうのも、気持ちいいやつでしたね。『カメラを止めるな!』にはこれが沢山ありました。
 伏線を流れに溶け込ませたら、あとはその後の展開を激しくして、忘れさせる。
 この二つを抑えているのが、気持ちい伏線だと思います。
 『ONE PIECE』がよく伏線回収!と言われますが、あれは「長期連載だからこそ出来る遊びや後付け」であって、これは別のジャンルでの凄いことですよね。
そんなことを考えました。
 映画は同僚と見てきたのですが、その帰りに、タコライスを食べました。かなり美味しかったのですが、もう一つの支店が仕事からの帰り道に寄れるところにあることに気付いて興奮してしまいました。
サンドウィッチマンのネタで「昨日まで何も無かったのに、ハンバーガーショップ出来てるな、興奮してきたな」とありますが、まさか体験できるとは思いませんでした。

 これが人生の伏線ってやつか?
 俺はかなり、地方生活を満喫している。