石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

ロングコートダディ単独ライブ「たゆたうアンノウン」

 


 『キングオブコント2020』で見た中で一番好きだったコントは、ロングコートダディのネタだった。堂前が演じる肉体作業のバイトに来た男が、兎演じる先輩に、仕事の内容を教えてもらうが、徐々に先輩の仕事の要領の悪さが明らかになるというものだった。仕事の要領が悪いという危ない題材でありながら、笑わせる力を持っていて、一目惚れしてしまった。「井上さん」というタイトルもいい。

 それから、もっとロングコートダディのネタを見たいと切望していたら、ロングコートダディが東京の芸人をゲストによんで行う「とんぷう」というライブがあることを知り、その配信を購入した。このライブは、関東の芸人をゲストに呼んで、ネタとトークをするという主旨のもので、初回のゲストはザ・ギースだった。ロングコートダディが披露したのは、「美術館」「ガン告知」「旅人」の3本。いずれも違った毛色のコントで最高で、ザ・ギースも3本ネタを披露し、最終的には、4人でキャッチボールをして終わるという最高のライブとなっていた。

 その結果、一気にロングコートダディの虜になってしまった。あくる日から、愛称であるところのロコディと呼ぶようになっていたほどだ。

 さらに、11月に大阪で開かれた単独ライブ「たゆたうアンノウン」も配信で視聴することが出来た。この単独がとても素晴らしかった。1時間という短い時間ながら、コントはもちろんのこと、幕間映像も凝られていて、いろんな種類の笑いがちりばめられていてかなり満足度の高いものだった。

 ラインナップは、「密葬」「OP映像」「相性の話」「宣材写真(幕間映像)」「お家でまったり」「あみだくじ(幕間映像)」「業績発表」「マユリカ(幕間映像)」「たゆたうアンノウン」。

 1本目の「密葬」は、舞台が葬式のコント。大勢の参列客の書き割りを前に、堂前が演じる喪主である妻が、挨拶するところを、兎が演じる亡くなった夫の幽霊が見守っているところから、始まる。

 妻が挨拶する中で、このコントもコロナ禍にあることが分かってくる。まずここで、ぐいっとコントの世界に引き込まれた。フィクションであると思っていたコントが、現実の世界と地続きでるあることが分かったことへの興奮と、こういうコントもするんだという驚きと感動があった。日常の中の非日常、非日常の中の日常だ。

 夫は、生前ずっと「俺は密が好きだ」と言っており、亡くなる直前まで病床で「密が見てぇなあ」と繰り返し言っていたと妻は話す。だから、葬式で、きちんと参列者には検査を受けさせ万全の対策を取ったうえで、この密を作り出したという。

 実は、人混みが嫌いな妻であったが、死んで幽霊となった夫を演じている兎は、終始、穏やかな顔で妻を見守っているのだがそれが心地よくコントのリアリティを担保している。だから2人の嗜好に差異はあろうと、分断は生じない。

 ED映像の中で、このコントのタイトルが「密葬」であることが明かされ、その巧さにもやられてしまった。

 「相性の話」は、兎演じる男と、堂前が演じる男の友情関係を描いたコントだが、兎演じる男は、とにかくやってることがめちゃくちゃなのだが、その堂々とした佇まいに、自分の中の常識を疑いそうになってしまう。

  「お家でまったり」も面白かった。むしろ、ロングコートダディの真骨頂かもしれない。ネタバラシになっしまうが、マントのようなものを羽織っている兎演じる男は、自分の部屋でスマホをいじったり、本を読んだりとまったりしていると、そこに突然、堂前が演じる美容師のような男が部屋の中に入ってきて、「まだ、終わってないんですけど」。2分もないこのコントに爆笑させられてしまった。

 「業績発表」も少し見せ方が工夫されていたネタだった。

 最後の単独の表題作コントの「たゆたうアンノウン」は、30分ほどの長尺のコント。堂前演じる男が、家賃の催促のために兎演じる男の部屋に行く。家賃の催促に来た男は、おどおどして、家賃を滞納している男は堂々としている。そんな男に誘われて部屋にあがると、部屋はがらんとして荷物や調度品がほとんどない。男は、アーティストで、そして、想像した犬も飼っている。そこから、家賃を払ってほしい男と払わない男の攻防を軸にコントは進むが、じんわりと展開していく。設定は、まるで、泥棒が盗みに入った家が、全て書き割りの変な家だったという古典落語「だくだく」のようだ。

 たゆたっている未知のものは、家具や犬のことだけではなく、人の心のように思わせる。そんな、不思議なコントは、恥ずかしげをまといつつも、ストレートに良い話に着地する。そこは、どこかバナナマンの単独ライブの長尺コントに通じるものがある。

 1時間という長くはない単独ライブのなかで、爆発的な笑いが起きにくい長尺のコントをするという強気な姿勢は、自身の表れでもあるが、それまでにコントと映像で様々な種類の笑いを取りまくっていて、すでに満足度が閾値に達しているからこそ、成立するわけである。

 言い忘れていたが幕間映像もめちゃくちゃ面白かった。映像コントの「宣材写真」「あみだくじ」、そして何より、漫才コンビマユリカの顔がスクリーンセイバーのように画面上をそれぞれ動き回る中、マユリカの2人が近づいた時だけマユリカの漫才が聴こえるという映像「マユリカ」など、全部趣向が異なっていて最高だった。

 Yogee New Wavesで統一されたおしゃれな音楽を使うところも含めて、本当に、大満足で、一生追えるコント師じゃんと大感動した。  

 ロングコートダディのコントの面白さの秘密は二つある。

 主観の強さとそれを演じる兎の凄さにある。基本的に、兎がボケ役に回るとき、主観が強い嫌なやつなのだが、どこか憎みきれないキャラになっている。それがめちゃくちゃ巧くて凄いし、堂前も攻めるようなツッコミをしないのが、ロングコートダディのコントの世界観を崩さずにいる。

 「とんぷう」でザ・ギースとトークをしているときに、「そもそも」を「もそもそ」と言い間違えていて、嘘だろ!と腹を抱えて笑ったのだが、なんとも言えないその可愛さの虜になってしまった。

 もう一つは、コントの中で、予期していないところからくるセリフがほぼ確実にはいっていることだ。こちらの感情にぐっと踏み込んできてめちゃくちゃ笑ってしまったりするようなセリフなのだが、ただ面白いだけじゃなくて、セリフが笑わせるためというよりは、本当に、その登場人物の思考のロジックに沿っていると思わせるからこそ、コントのリアリティがギリギリまで保たれている。

 井上さんが言った「どうしたぁ、段ボール初めてかあ」や、「密葬」で死んだ夫が密が好きだったということを表すエピソードとして妻が照れながら「ロッカーでしたこともあります」と話したりするところだ。『キングオブコント』で「どうしたぁ、段ボール初めてかぁ」というセリフを初めて聞いてから、この年末までずっとこのセリフのことを考えいている。

 こういったセリフがあると、コントは一気に深みと奥行きが増す。

 そしてこういうセリフは、作ろうと思って作れるものではない。

 改めていうが、まじで一生終えるコント師だと思う。

 

 

 

来年明けに、ゾフィーを迎えた「とんぷう」がある。配信もあるので、絶対に買ってください。買わなきゃ、チェだぜ!

THEW感想

 THEWを見ました。 

 『THEW』自体、始まって三年足らずで、ここまで多牌な賞レースになるとは思っていなかった。R-1グランプリが芸歴十年未満という制限をしたことで自ら、狂気の門を閉ざしてしまったことを考えると、『THEW』にガラパゴス化を突き進むという役割を託し、見終わった後、笑いというジャンルの多様性を知らしめるというどの賞レースよりも勝っていると言えるくらいになっていってほしい。

 やはり、他の賞レースと比べると、これまでに書いてきたように、ネタの粗さや、技術が足りない部分などを感じてしまうことで、どうしても、からい評価になってしまうなどの残念な点もないわけではない。何より、恋愛をネタにされると、その時点で、マイナスポイントになってしまう。

 例えば、TEAMBANANAなんかは、今更シンデレラを題材に出されても、どうにも入ってこない。フェミニズム批評では、割とディズニー作品は批判されているが、そういうものでもなく、かといって、山田独自のニンが出ている、人が分かるような、独自のロジックで、シンデレラの幻想をひっぺがしていくというものでもないので、無理していちゃもんをつけているというレベルに留まってしまっている。どうせなら、半沢直樹の妻だとか、もって時事的な題材を使って、本当に思っていることを言っていくくらいでいいと思う。あと、会話がうまく噛み合っていないので、ちょっと気を抜くと、一気に気持ちが入らなくなってしまう。

 そうなると、ああ、漫才しているなあという以上の感想にならない。

 あと、ルッキズム批判というわけではないが、単純に藤本が太っているといういじりがあったときに、あ、いらない!って拒否してしまった。単純に、そこで生まれる笑いが絶対的に必要じゃないなと思ったし、何より、TEAMBANANAの並びのルックがすでに漫才師として成立しているからで、気になっていることを処理されたという気持ちよさも生まれなかった。これは、紅しょうがにも言えるし、ターリーターキーにも言える。

 だからこそ、オダウエダなどを際立って覚えておくことが出来たけれど、そのオダウエダも後半は、発想の突飛さ、動きが舞台の中央のみで小さくまとまってしまって、振り返れば、せっかく手首を縛っていた縄から自由になったのだから、プロレスのロープを使ったアクションよろしく、上手から下手まで縦横無尽に動いても良かったのじゃないだろうか。もっと発想をダイナミックに広げても良かったのじゃないだろうかと思った。例えば、小田が植田と一緒に舞台上から、叫びながらはけていって、しばらくしたら、目玉だけをもった小田が舞台に戻ってきて、ゴムパッチンのように目玉から手を放すというように、見えないところでとんでもないことになっているというお題がさらに出来たんじゃないかと思う。KOCでのニューヨークの「結婚式の余興」のネタのように、序破急になりきれていなかった。

 一番驚いたネタは、もちろんAマッソで、漫才にプロジェクションマッピングを映し出すというだけでも凄い発想なのだが、この手法がAマッソにがっちりハマっていた。

 Aマッソに対する印象はあまり良くなく、というのも、彼女たちの漫才は、良く言えば大喜利的であり、悪く言えば、Aマッソの漫才は二人で完結してしまっていて観客に対して、開かれていないように思えて、それは漫才師としての技術というよりは表現の技術に問題があるような気がして、どうにも「見られている」という意識があまり感じられず、「伝える」ということの放棄のような気がして見ていてあまり楽しくない。ボケてツッコムというやりとりを見ても、そのビジュアルが頭でイメージされにくい。面白いことが、二人の間のみで完結しているような気がするのだ。だから、M-1の準決勝見たいな、集中力が途切れてしまうようなところでは、どうしても弱くなる。

 そんなAマッソへの苦手意識が、プロジェクションマッピングという手法によって見事に打ち消され、個人的に弱点と思っていた部分が補完されていた。ピーターパンに対して「あいつずーっと同意書書いてんねんで」というくだりは、普段のAマッソで出てくるやりとりからあまり外れていないと思うが、プロジェクションマッピングでそのイメージが映し出されることで、あ、この二人はこの面白さで繋がっているんだなと理解することが出来た。

 ダジャレをいって、二人は笑いあっているけれど、背景では二人が叩かれてるというくだりこそが、Aマッソの本質のような気がした。

 一番味があったネタは、にぼしいわしだった。

 好きな遊具が雲梯という設定に対して、導入で笑わせられ、その世界観に入ることが出来たが、だからこそ、雲梯を作りだした人の名前という大喜利に、山田のりこみたいな、細部で妥協してほしくなかったという思いも生じてしまう。

 題材が子供の頃ということと、にぼしいわしの2人の顔が漫画にしやすそうということもあって、さくらももこ的なファンタジーさを感じた。そこにさらに振り切ってもいいのかもしれない。

 にぼしいわしは、ネタとして、2人がきちんと、共有している面白いということを、ネタに落とし込んでいるという意味では、ものすごく好感をもて、今回のTHEWのファイナリストの中では、一番早く、Mー1のファイナリストになるポテンシャルを感じました。少なくとも、0票はちょっと腑に落ちない。 

 逆に一番、何の感情も湧かなかったのは、ゆりやんだ。

はなしょーのコントは、ヤンキールックでおばあちゃん子というギャップを描きたいということは分かるが、だったら、前半で孫がお見舞いに来るということをばらす必要は全くなく、おばあちゃんのお見舞いに来るんだから悪い孫ではないということになってしまうから、いくら良い行いをしても、そりゃあ、祖母のお見舞いに来るくらいなんだから、根が悪い子ではないだろうということになる。だから正直言うと、前半のフリ全てを変える必要があって、としえさんと話していて、何かしらあって席をはずし、そこに孫が来て、だるそうにスマホをいじっている姿を見て、同室の怖い男の彼女かと勘違いして勝手に怯えてたら、としえさんの孫だったことが分かって、どんどん良い子だということが分かるという構成にしたほうが、良いのではないかと思ってしまった。

 だから、「女審判」「銀行員」のコントをかけた吉住が優勝したのは当然と言えば当然の結果だったと思う。もちろん、ファイナリストのなかで一番愛着がある分、嬉しかったし、自分のセンスを信じていないので、優勝しないだろうなと思っていた。思わず、M-1三連単に、ウエストランドを入れそうになったくらいだ。 

 女審判という言葉は面白いのだけれど、そのいじりかたが多角的だったし、回想や、最後のセーフセーフなんかも面白すぎる。銀行員のコントに関しても、冒頭の銃声と、少しのセリフで、設定を観客に理解させることで、最後まで今から告白すると言いだし、狂っていると思わせておいて、「私たちに生きて帰れる保証なんてどこにもないんだよ」と正しいことを言ってくるところがたまらない。

 ちなみに、キングオブう大で、う大先生が「コントにおける贅肉」の話をしていましたが、それは、女審判における、中腰になるところです。流れ上、全く不要なんだけれど、コントの登場人物にとっては必然的なセリフや言動。逆にいえば、他のネタでは、笑いを取るワードや笑いを取るためのフリオチはあっても、こういうのがやっぱり感じられない。

 吉住のコントは恋愛をテーマに描くが、そこには、男性コンビ、男女コンビ、女性コンビですらもやっている、恋する女性をバカにしたり、斜めに見たり、否定するような視点が用いられていない。ただただ、恋愛感情が産みだす盲目さをストレートに演じるからこそ、滑稽さとその悲哀を描き、変な設定のなかでそれらがさらに輝く。

 それはまさにコメディだ。

 吉住が優勝したこと、Aマッソの仕掛け、にぼしいわしに気付けたことなど、ちゃんと見て良かったなあと思える、良い大会だったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ヒラギノ游ゴである。

『THEW』の直後に、以下のツイートをしていた。

 

女性芸人が技巧派なネタをやると「小賢しい」とジャッジされる、そういう男性ホモソーシャルの刷り込みに対して若手がどれだけ実力でNOを突きつけても、上の世代に"それを評価できる審査員がいない"というのが厄介すぎる

審査員7人のうち女性が2人、その2人も喜劇役者としゃべくり漫才なわけで、ここ数十年テレビタレントとしての稼働がほとんどで、モダンな設定のコントにどれだけ普段触れているのかどの賞レースでもそうだけど、審査員がライブの現場の潮流をどれだけ把握していて、モダンな設定のネタをどれだけ読解できるのかという

あと審査を、批評をするのなら、頼むから「好み」の話をしないでくれ…

それぞれの時代にキレキレにモダンなネタをやっていた女性芸人たちがいたはずで、評価されず残っていけなかったから今この審査員席があるとするなら

 

 

 ヒラギノさんは、『キングオブコント2020』の後、何もツイートしておらず、本当にお笑い好きなのかなと思ったりもするのですが、これらのツイートをきちんと読むと、全く具体的なことを言っておらず、ガワの話しかしていない。ネタの話が出来ないからじゃないかなと勘ぐってしまいます。技巧派なネタをやると、というのは恐らく、Aマッソのことだと思うけれども、ゆりやん、審査員はおろか、Aマッソに対しても失礼である。失礼なことを言わないというレベルまでアップデートしてほしいものだ。

 「それぞれの時代にキレキレにモダンなネタをやっていた女性芸人たちがいたはずで、」というのも憶測でしかない。

 ネタの話が出来ない、フォロワーの割には反応も少ないので取り上げる必要はないかなと思ったのですが、M-1でまた、適当なことを言って、そこは拡散されそうなので、一応ワクチン程度に書いておきました。TLで当日何か苦言を呈するようなことを言ってたら、あれ、良く見たらネタの話はしてねえなという視点で見てください。

スピリチュアル好きは悪いだろ!

 フォーリンラブの笹森の「バービーが大声で言いたい、スピリチュアルが好きで何が悪い」というインターネット上で連載されているコラムを読んだ。

 最悪だなと思った。「私自身も今、各所で本音を言いすぎて少し疲弊している。」という部分で爆笑した以外に、笑いどころが一切無かったというのも芸人のコラムとして問題なのだが、一番は、それなりに理屈をこねくり回して、それっぽく見せている点にある。だからこそ、広くSNS上でかくさんされた。

 この文章の何がダメなのか。

 端的に言えば、学問としての宗教、信仰の対象としての宗教、宗教的な慣習、スピリチュアル、スピ、霊感商法など、それぞれ全く異なるものをスピリチュアルと一つのものに仕立て上げ、ユングなどといった言葉を出すことでさも歴史的なものであるというように見せ、さらにスピリチュアルを信じてしまったが故に起きうる悪事や被害、この文章を書くきっかけになったであろう、小林麻耶にまつわる一連の騒動については、オウム真理教の名前を出してぼやかし、自らの大学時代からのルサンチマンや、現在も自分がやっている、全くもって曖昧なスピリチュアル的行為を肯定するために書かれた自己弁護でしかないからだ。

 笹森に限らず、たいてい、こういう時に、オウム真理教の名前が出されるが、そりゃ、オウム真理教が起こしたことなんて例外中の例外であり、相当に凶悪なことなので、流石にそれと比べたら、お金を取られるくらいなら相対的に悪の度合いはそりゃあ下がるだろう。

 どう考えても、膣内に宝石を入れて運気が上がるわけがない。陰茎に真珠を入れるのとはわけが違う。

 小林麻耶きっかけでこんな文章を書いたなら、明確に「いや、悪いだろ」と言わなければならない。

 この文章からは、大麻容認論者がいう「大麻は害がない」という主張と同じようなやり口を感じる。そりゃあ、覚醒剤よりは大麻は害がないだろうし、大麻で救われる人もいるだろうが、絶対的な害は大きいわけではある。いや、そもそもスタートが間違っているし、理論が通っていないよという話である。

 大麻といえば、高木沙耶だが、ああなる前は、高木美保と間違えがちだった。高木美保は有吉から「ヒステリック農業」とあだ名を付けられたことで、それを経由することで、間違えなくなったが、高木沙耶もある意味、ヒステリック農業になってしままった。

「スピを嗜む」みたいな、ゼロ年台的な価値観も分からないではないが、嗜みのまま止められるという保証は全くない。コラムを良いねした人は、もしかしたら誰かの非公開リストに入れられているかもしれない。ある意味では、押し売りは、セールスお断りという札を玄関にはってある家に行くらしい。それを貼るということは、断る自信がないということでもあるからだ。

 特に、不安定な情勢の真っ只中で、安易にスピリチュアルまたはスピを容認するような発言は慎むべきである。

 笹森は、地下鉄サリン事件を出したが、そもそも、オウム真理教は、バラエティ番組をはじめ、そういった緩やかな嗜み的な許容の下に、認知されていったわけである。そんな経緯を知っていたら、こんな文章を書くことは嘘になるから書けない。知らなかった勉強不足。

 どっちにしろ、詰んでいるとしか思えない。

女子メンタルは、ドキュメンタルという実験の結果なのか。

 フジテレビの特番『まっちゃんねる』の中で、Amazonで配信されている、『ドキュメンタル』を女性タレントで行うという「女子メンタル」というコーナーがあったのだが、これが思った以上に、面白かったし、何より、現代のメディアにあるホモソーシャルの極地であり、それを産み出す土壌としてのドキュメンタルのフォーマットを用いながら、それらがなく、テレビでの放送に耐えうる笑いが生み出され、満足度も高い結果になったというと、では、松本がドキュメンタルに対して何度も重ねている、実験の場という発言は正しかったのか、過激な笑いの有用性とはなどと考えてしまった。このことは、じゃあ、昭和女子大学出身の女性の医者は優秀ってことかで済む暢気な話ではないのではないかとも思わせる。みやすのんきではないのだから。

 ここでいうホモソーシャルな笑いとは、異性を恋愛の対象とする男性同士であるということに依拠した笑いであり、男性器を玩具にするなどで笑いあうというものであるが、少なくとも、今回の女子メンタルでは、その土俵には上がっていなかった。女性が土俵に上がるというとまたややこしいことになるが、少なくとも、基本的には、性別という要素に止まらない笑わせあいになっていた。

 女なのに、男ばりに体を張ってるという印象は殆ど感じられなかった。これはこと女子メンタルだけのことかといえば、そうではなく、笑いの取り方のマニュアルが男女問わず広まっていることと、女性がガンガン笑いを取るという光景に慣れているといいうここ10年の蓄積があるからかもしれない。そして、このレベルのメンツを揃えられたのも、もしかしたら5年前では難しかったかもしれない。それくらい、女性タレントの特性が高いレベルで多牌になっているということでもある。

 ホモソーシャルな笑いであることで批判を受けることもあるこの企画を女性がやることである一つの完成形を見ることができたというのは、あながち不思議なことではないのかもしれない。

 時間が短い、モニタールームには松本だけでない、100万円を払っているというリスクを参加者が背負っていない、など、芸人をアスリートとして扱っている演出が強い本家とは異なって、視聴者側が何も気負わずにいられたことで笑いやすくなっていたという側面があるために、本家を超えたなどとは一概には言えないが、少なくとも、本家でも通用するようなくだりが幾つもあったことは間違いないし、何より、本家同様に仕掛けた人が結局笑ってしまうカウンターや、笑いの感度が高いと攻撃力が上がるけどその分ゲラになるという諸刃の剣現象も見ることが出来たことが、本家と遜色ない見応えを生み出した。特に後半のグルーヴ感だけで言えば、名勝負だった。

 特に一番、映えていたボケは、ファーストサマーウイカの、松本の本に付箋がたくさん張っていて、浜田の本には全く張っていないというものだった。本に付箋がたくさん張っているというそれだけでも面白いのに、そこに全く付箋が貼られていないという本を並べるというボケに、当時のダウンタウン好きにとってのあるあるというものも乗っかっている素晴らしい攻撃だった。ただ、その分、全体的にウイカは誘導がやかましかったという西の悪いところが出ていてマイナスポイントも浮き彫りになっていた。

 ゆきぽよに関しても、みちょぱの隙間産業だ下請けだと、僕や深夜ラジオに投稿しているリスナーに何かあるたびに言われているけれども、ナチュラルで繰り出した、峯岸への「カツラはいつぶりですか?」といった仕掛けによってゲームが展開したし、心のこもっていない、合コンというよりはいじめに使っていたという偏見を持ってしまいそうにざわつく一気飲みのコールなどに関して言えば、めちゃくちゃ良いムーブとなっていた。天性のバランス感覚を持ったみちょぱでは、この危うさは出せなかったかもしれない。さらに、ドキュメンタルのシステムとして面白いところなのだけれど、実は笑いの勘所が悪いゆきぽよだからこそ、防御力が高くなっているという強さも感じられた。

 さらに、興味深いことに気がつかされたのは、容姿が笑いの量に明らかに左右されていた場面だった。

 それは朝日奈央の二つの攻撃についてで、一つは、朝日が股間に白鳥の顔がついたバレリーナに扮した際、ちょっと、美人すぎることが邪魔になってしまって、あんまり面白いとは思わなかった。反して、朝日が最後に繰り出した、男性の顔の下半分が模された大きなマスクをつけて登場したとき、朝日の顔は半分以上隠れ、目だけが見える状態だったのだが、その目が端正すぎたことが、マスクに描かれている顔と妙にマッチングしたことで、目はめちゃくちゃ綺麗な顔の長いおじさんとなって、これがやたらと面白く、実際、ゲーム最後の畳み掛けの起爆剤となった。あそこでもし、マスクの下にもう一枚、さらに意表を突く仕掛けが仕込まれていたら、朝日は峯岸を笑わせて、一番気持ちいい形で優勝していたのではないか。

 朝日のこの二つのボケで美人は笑いを取りづらいのかという昔からある問いへの答えの片鱗を掴むことが出来たような気がした。

 朝日には、バカリズムに会った時に、少し褒められるかなと思ったら、そのことを指摘されて悔しがるということになっていてほしい。

 ウイカとは対照的に、関東芸人の美学を受け継いでいるかのように仕掛けにシームレスに移行するところや、松本の真似をする時に、部屋の湿度を気にし過ぎるという一点で突破しようとする角度の入れ方と、角度を入れすぎてあまり伝わっていなかったところなどが好みだった個人的には朝日に優勝してほしかった。

 峯岸、朝日と合わせてキーマンとなったのは、金田朋子だ。本家でいう、ハリウッドザコシショウを思わせるほどに参加者からすれば恐怖になってたであろう。自らフったり、フラせるように誘い込んでは、綺麗に落としということを華麗にやってのけていた。バラエティに出ている時は、ただの奇人のようであったが、ここまで、自分の強みに自覚的だったとすると少し話が変わってくる。ただ、冷静に考えれば、もともとは役者なのだから、俯瞰的な視点もあるのかもしれない。そうすると、途中に、自分で笑ってしまってイエローカードをくらったのも、番組のためにわざとやったのではないのかと勘繰ってしまうほどだ。

 さて、峯岸である。バラエティの第一線活躍しているとは言い難いので、はじめにメンツに入っているのを見た時に、あまりピンと来なかったのだが、思わぬ伏兵であり、走攻守揃った素晴らしい闘いっぷりであった。繰り出したボケは、アイドルがゆえの暴露、過去のスキャンダル、ガチャピンに似てると言われてきたことに由来する扮装といった、発想こそブッ飛んではいないものの、ニンに即したもので、最後の全員からの攻撃に耐えている様子からのゲーム終了のホイッスルがなった瞬間は思わず声を出してしまったほどだった。

 本当に第二回が楽しみで仕方がない。参加者ドラフトだけでも心が躍る。次は女芸人が投入されるも負けまくるかもしれないし、人生を出し尽くした峯岸は山王に勝った後の、湘北のようにあっさりと第二回では負けてしまうかもしれない。

 先日、配信で「全日本コントコレクション」というライブを見た。全体を通して、素晴らしいコントが見られたのだが、中でも、蛙亭パーパー相席スタートという男女コンビが3組続けて登場したパートがあり、これだけでも、チケット料金の元をとれたなと思うほどに、良いものだった。

蛙亭デートDVパーパーはコロナ禍におけるカップル、相席スタートカップルの別れというネタをやっていて、その多様さに心が満たされた。まずもって、自分が芸人をやろうというときに、男女のコンビをやるということに対して、少し躊躇ってしまうと思う。漫才ならまだ分かるが、ましてやコントであったら、設定の幅が限られてしまうのではないかと臆してしまう。しかし、現時点で男女コンビのコントがここまで広がっていることから、それは甘えになってしまう。

 同じく配信で見た、マイナビラフターナイトの月間チャンピオン大会に出ている女芸人は、ぼる塾、吉住、ラランド、蛙亭と、全12組の中に7人もいた。それが、女性のトリオ漫才、ピンコント、男女コンビの漫才、男女コンビのコントという、あまりにバランスの良いメンツだった。

 ともすれば、お笑いはジェンダー的な正しさで叩かれがちだが、日本においては一番先進的であるのかもしれない。 

 いや、今年は、THEWが俄然楽しみになってきた。

キングオブコント2020感想追記

テグス問題について。正直に言えば、何の批評性もない、擁護しようもないコメントだと思っているが、一番は、それを今言われても……と言うような、どうしようもないコメントであり、全くもって「優しくない」ものだった。

フルートがグローブをもって、舞台上からいなくなる時点では、もはやあのコントのバカバカしさは共有されていて、テグスが見えてもその範囲内に収まっている。磁力でも使えば点数は上がっていたというのか。

優しい爆笑問題なら、太田さんは「あのグローブの動きがバカっぽくて良かった」と笑い、田中ウーチャカは「坂本の投球フォームが下手だ」とか「今、河川敷で野球できないんだよ」とか言ってくれたはずである。 

 


ジャルジャルのキャッチコピーは「人間性の欠如と充満」だった。素晴らしいキャッチコピーだと思う。もちろん、ジャルジャルの優勝が遅すぎることは審査員を含めたみんなが思うところである。

本来であれば、キングオブコントで披露した「おばはん」、Mー1グランプリにて中田カウスが露骨に不快感を示した脱構築漫才といった、人間性が欠如した2本でキングオブコントになるべきだったのがあまりに時間がかかりすぎた。

タイトルを得てガッツポーズをしたジャルジャルの足元には、今回のエントリー数の何倍ものネタが転がっている。どこが天才だというのか。ただただ愚直にコントを作り続けてきただけじゃねえか。

そしてさらに昨年に至っては、骨折でネタを変えざるを得なかったという不幸にも見舞われている。ファンにとっては、満身創痍で戦い続けているようにも見えている人もいたのではないか。

今大会の順位は、いみじくも第6世代、第6.5世代、第7世代という順番になった。

ニューヨークは、今でこそ、第7世代ぶって、シンパイ賞で霜降り明星とやりあっているように思えるが、基本的には、実力があるけれどいまいちバラエティで跳ねきれなかった第6.5世代だ。

鬼越トマホークの喧嘩を止めては、賞レースで結果を出せてねえくせによとも言われたりしていた。

全てを追えているわけではないが、ニューヨークも、ジャルジャルと同様にタネを撒き続けていた二人だった。

今年は、アーカイブが勝った年といえるだろう。

 


ニッポンの社長のコント、さらなる飛躍があれば、自分の中でも一位になっていた気がする。さらなる発送の飛躍ってどういうのがあるだろうなと考えていたら、一つだけ思いついた。ミノタウロスケンタウロスが抱き合っている時に、甲冑を着た辻が出てきて、怪物を2体ともでかい聖剣でぶった斬るというオチ。ミノタウロスは実は辻が演じていなかったとかみたいなオチだったら、驚きもあるし、怪物達が死ぬことで今のは何だったんだとなれる。

でも、そうすると、テグスすら認めなかった松本人志に点数を低くされてしまうので、それは単独ライブでやってほしい。

 


松本は、沸点という言葉の意味をピークと思っているような気がした。

 


こればっかりは推測でしかないが、どの

芸人もこれまでの審査の傾向をよんでそこに照準を合わせてネタを作ってきているように思えた。もちろん、コンテストであり、審査員に変更がない可能性が高いのであれば、それは悪いことではない。悪いことではないが面白いことでもない。

どこかまとまったコントが多かったという感想も少しだけ抱いているのは間違いだろうか。

だからなのか、今年は、誰も傷つかない笑いばっかりだった。しかし、常日頃から監視している、誰も傷つけない笑い信者の奴らは、今年はまったくこの大会を話題にしていなかった。こういう時に、褒めたり話題にしたりしないところが、奴らの全く信用できないところである。

人を傷つけない笑いといえば、去年までの僕だったら、「人の金で寿司食ってそうな人しかいないな」と言っていただろう。アップデートが完了しエントロピーが増大していてよかった。

キングオブコント2020感想

 Gorillazの『Feel Good Inc.』の笑い声から始まったときから一味違うなと睨んでいた『キングオブコント2020』めちゃくちゃ良い大会でした。例年通り、誰が誰に何点を入れたかはあまり興味がないので省略します。

 

滝音「ラーメン」
 さすけ演じるラーメンを食べている男と秋定演じる店員のコント。そんなラーメン屋での一幕かと思いきや、ラーメンを食べている男は大食い選手権の出場者で、秋定演じる男はただの店員ではなかったというひっくり返しはコント的で、とても気持ち良く、大会の一本目かつ一発目の笑いどころが、これで本当に良かった。
 ここで観客に気持ち良くなってもらうために、冒頭をトーンを抑えめにされている。男が真剣な顔をしていることや、ラーメンのお代わりなら替え玉だから、普通は一杯まるまる持ってこないよなという、うっすらとした違和感が実はきちんとした伏線となっているところも良い。
そこから男と店員のやりとりが広がっていき、餃子をサービスで提供するという、くだらなくて笑ってしまうところから、二人の間に友情のようなものが芽生え始めているところも好きだ。
 思ったことは、やはり、コントは会話劇として優秀であればあるほど、コントとしての動きが左右のみに留まってしまうということになってしまう。これはものすごく簡略化していえば、観客の視線の動きが左右にしか動かないということだ。これまでの傾向から言っても、そういったコントでは最終決戦まで駒を進めにくい。だからこそ、いかにしてコントを立体的にするかということが肝になってくるのだと思う。だから、面白いけどまだ決勝に行けていないコント師は大抵、左右の動き止まりになっていたりする。演劇でもそうだが、立体的であればあるほど、その気持ちよさは増してくる。
 滝音のキャッチコピーは「パワーワード錬金術師」となっていたが、さすけのツッコミは「ベロの偏差値2ぃぐらいのやつ、おるわけないやろ」「あたしだけ足軽フードファイターと思われてしまうやろ」などなど、いちいち面白かった。
例えツッコミは、コントに入れこむのはとても難しい。コントの中の登場人物は、お笑い芸人ではないからで、例えツッコミをするということ自体が、設定に矛盾が生じてしまう。そういった中で絶妙なバランスの例えが繰り出されていく。そういった制約がない漫才だったらどうなるのか、ものすごく気になってしまう。『M-1グランプリ』で見られる未来も遠くないのかもしれない。
 そんなさすけのツッコミは、霜降り明星粗品コウテイの九条のツッコミを連想させるが、大阪のこの世代の特徴なのだろうか。どこか、大喜利のフリップをめくって回答する時のようなはっきりとして聞きやすいことを意識したような声の出し方と間の置き方に近い。それから考えると、本来のフリがひとつ目のお題として、それにボケとして回答する、さらにそのボケをお題としてまた回答するというコンボになっているという二重の極み的なことになっていて、なるほどそれだと確かに強い笑いが押し出されていくことになる。
 このスタイルは、パクリとかそういうものではもちろんなく、大喜利が根付いたことによって自然と産まれてきたひとつのフォーマットということかもしれない。
 好きなくだりは「おぉーぐい選手権なのよぅ」
 
・GAG「フルート奏者の災難」
 宮戸演じる女性が河川敷でフルートを練習していたら、坂本演じる中島美嘉が現れ、驚きながらもフルートを披露していると、中島美嘉に福井演じる草野球をやっている男がぶつかって、中島美嘉と中身が入れ替わるというコント。
 四年連続でキングオブコントの決勝に進出しているさすがのGAGのこのコントは、立体的なコントとなっていた。他のファイナリストと比べても、一貫して、良い意味でバカらしさが溢れるコントをキングオブコントという大舞台で披露し続けていて、でも振り返ると毎年、そのバカバカしさの角度が違う。本当に凄いと思います。特に今年はこれまでで一番バカバカしかった。
 好きなくだりは「(草野球選手がフルートになるところ)」

 

ロングコートダディ「バイトの初日」
 堂前演じるバイト初日の新人に、兎演じる先輩が仕事を教えるコント。冒頭から、ぼそぼそとローテンションで始まり、何かが起きそうな感じの緊張がしばらく続くが、先輩の「ほら、俺、頭が悪いからさ」で、コントがゆっくりと稼働しはじめる。
 舞台上の動きがないのだけれど、脚本で揺さぶられるからそれが全く気にならない。
 脚本のなかで一番凄いのは、コントの途中で「バカだから」というセリフの謎が解けて、さらにオチでこの「バカだから」という意味がさらに深くなるところだ。
 今大会一番、誰もボケていない、誰も悪くない、ただ登場人物の日常を切り取ったらコントになったという好きなタイプのコントでした。
 先輩は新人への気遣いも出来るし、優しそうだし、きちんと場を和ますようなことも言ってくれる、本当にただ頭が悪いだけの人であるというところが素晴らしい。そして、あそこまで筋骨隆々になっているということはこの仕事をずっと続けているという真面目さまで備わっているということで、そこまで描いて初めて、観客はコントにおける彼の扱いを肯定できる。きっと彼の下半身は全く鍛えられていないに違いない。
ツッコミらしいツッコミもなく、コントコントしていないまま進み、その後、綺麗なオチに着地したのは素晴らしかった。新人の「めっちゃ頭悪いんですね」という言葉に全く先輩が怒らないのは、先輩は、ただの事実を言われただけで、文句として受け取っていないからなのかと勝手に考えてしまう。
 悪い人は出ていないのに、本当に頭が悪い人をコントに落とし込んでいることからくる溢れ出る危うさがたまらなくて、baseよしもとの地下で見たらもっと最高な、じめった良いコントでした。段ボールに書かれているラベルも無機質でたまらない。二回目以降の視聴の際は、段ボールを降ろしている時間が、より面白かったです。少しだけ頭を使わされる感じは、バナナマン単独ライブのOPコントのようでもあった。
ロングコートダディのこのネタと、クリストファー・ノーランの『TENET』は二回目からが本番。
 好きなくだりは「段ボール初めてか?」「おい、俺の前で効率の話をするな(笑)」「オチ」。

 

空気階段霊媒師」
 聖者と愚者と呼ばれていた昨年と比べて、今年は「第七世代の狂戦士」と、第七世代に入れてもらったことと引き換えに、二人とも狂人であることがばれてしまったキャッチコピーがつけられていた空気階段。もぐら演じるキングインパクトを名乗る霊媒師に、かたまり演じる男性が祖母の霊を呼び寄せてもらうというコント。
近くに出来たコミュニティFMの電波と、霊の波長が似ているから、調子が悪いとラジオになってしまうという、妙にリアリティを持つという設定は、まさに、街を歩いてい独り事を言っているおじさんは、お腹に電波を受信する機械をぶち込まれていることにしたかたまりらしい世界観の肝だ。
 空気階段の前に披露されたコントが三本とも、弱火でじっくりタイプのコントだったが、このネタで、霊媒師が上下をきって話をしだしたところから、ちょっとこれまでとは違うウケが出たという印象があった。
 特に、スマホからradikoのアプリを起動しているから、放送にラグが生じるというところをネタのギミックにしたところなんかは、愛おしい。そして、そのことで、キングインパクトが本当に霊能力者であるということの証明となり、最後にはキングインパクトが実はヘビーリスナーだったということが明かされるという、整合性の取れた脚本の美しさにうっとりしてしまう。
 後半のリスナーと電話をつなぐというところからは、二人とラジオ番組が繋がっていくという展開に入り、これまでのことを畳みかけてコントが熱を帯びていくところは、たまりませんでした。  
 好きなくだりは「(キングインパクトが、このコミュニティFMの熱心なリスナーというところ)」からの「何これ、呪われそうだー!」

 

ジャルジャル「野次ワクチン」
 後藤演じる新人演歌歌手が競艇場の営業で歌を歌うことになっているが、福徳演じる所属事務所の社長が、客席から野次が飛んでくるだろうから、今から楽屋で野次を受ける練習をしておこうと言いだすというコント。
 後藤が歌う、別に良い曲ではないのに、無駄に耳に残るメロディに、福徳の野次が入ってくる、リズムネタのようなこのネタは、冒頭数十秒でネタの説明をして、そこからまた最速で観客にこのネタのシステムと笑いどころを理解させ、それからは時間いっぱい、しつこーく、でも一直線ではない展開で観客に揺さぶりをかけながら、ガシガシと笑いを刈り取っていくという圧倒的なスタイル。空気階段で暖まった会場の空気がさらに押し上げられているのをビンビンに感じました。
 好きなくだりは「大事な電話、大事な電話」

 

・ザ・ギース「新聞配達所」
 尾関演じる新聞配達を止める年老いた先輩に向けて、高佐演じる同僚が最後に贈り物をするコント。高佐がハープを持ってきて、それをきちんと弾けるというだけで、八割は勝っているコント。とはいえ、ボケの数が少なめであるということと、ジャルジャルの後だったということで、少し点数が伸び悩んでしまった印象を受ける。
 同僚が弾いた中島みゆきの『糸』に触発された先輩が昔やっていた紙切りをやり始め最終的に二人のユニゾンになるのは、感動的でした。
 好きなくだりは「ドンキホーテの曲じゃねえか!」「紙切り!?」

 

うるとらブギーズ「陶芸家」
 八木が演じる陶芸家の師匠と、佐々木演じるその弟子のコント。陶芸家が納得のいかない皿を割るというベタな設定を見ると、ここからどう展開していくのかと構えて見てしまうが、そんなシリアスなところから、ふざけ、そしてバカバカしいいちゃつきに変化していくグラデーションが楽しいネタで、少なくとも今回の倍の尺で見たいと思わせるコントでした。
 一年経ってもそのいぶし銀なコント師っぷりは良い意味で変わっていませんでした。ただ、前回の二人の会話の妙が削られていたのはちょっと残念でした。
 好きなくだりは「いい!」「いい!」「いい!いい!」からの皿割で「なんでなんでなんで」

 

ニッポンの社長
 男子高校生がケンタウロスというコント。ケツ演じるケンタウロスの男子高校生が、ケントという本名なのに、ケンタウロスに引っ張られて先生にケンタと呼ばれているという、男子高校生ケンタウロスあるあるで突っ切るコントなのかと思いきや、辻が演じる、ミノタウロスの女性と出会うことでコントは一変する。男子高校生ケンタウロスが、顔だけミノタウロス女性に一目ぼれして恋に落ち、HYの「AM11:00」を歌い出したところで、わざわざ積み上げてきたリアリティが一気に瓦解していく。同じく、恋が芽生える瞬間をテーマとしたコントと言えば、昨年のビスケットブラザーズのネタを思い出すが、あちらは筋が通っていたことでグルーヴが産まれていくことで爆発したことに対して、ニッポンの社長のこのネタは、そういった理屈をすっ飛ばすことで爆発力を得て、その推進力で逃げ切っていた。この逃げ切る態度や潔しとするか、さらなる展開の飛躍を求めて完全に破滅してもらうのを望むかは好みで、でもここが意外と点数が上がるか下がるかの微妙な分岐点になったと思います。
 男子高校生ケンタウロスがマイクを譲った後、ミノタウロスに吠えさせるという発想は狂いが過ぎている。さらに、そこからケンタウロスが、ケンタウロスとしての声を取り戻すという展開は、物語の破綻の末に神話性を取得していた。
今大会で一番、ブレーキがぶっ壊れていたコントは間違いなくこのコントだった。
 好きなくだりは「ミノタウロスが吠えるところ」

 

・ニューヨーク「結婚式の余興」

 屋敷が演じる新郎のために、嶋佐演じるまさおが、結婚式の余興をするというコント。
 まず、ニューヨークのキャッチコピーは、「隠れ悪意のファンタジスタ」だったが、隠れというところに、考えた人のニューヨークへの愛情を感じてしまった。
ネタは、初めにピアノを弾きながら、ハーモニカを吹いて、鼻でリコーダーを吹いて、タップダンスをするという明らかに練習しすぎな余興が披露されてから、そこから余興を超えていく演目は何かという大喜利の問いへの見事な回答の積み重ねと、画ヅラのくだらなさは最高で、そして最後に千羽鶴という、三部構成となっていて、かつきちんと尻上がり的に笑いが加速していくという理想的な構成になっていて、隠れ悪意であるところの、新婦の友人の『ハッピーサマーウェンディング』いじりが不要なほどに、気持ち良く笑い転げました。
 好きなくだりは「(頭にドリルを当てるところ)」

 

ジャングルポケット「脅迫」
 斎藤演じる企業秘密を握っている男から、おたけと太田が演じる男達が脅迫して情報を得ようとするコント。小気味よく交互から斎藤に仕掛け、斎藤が決めていくという、明らかに優勝を狙いに来ているジャングルポケットだったが今一歩届かなかった。
斎藤を脅すために娘の情報を掴み過ぎているというところから、近所のゴシップにいつのまにか移行し、ホワイトボードをひっくり返して相関図にまでもっていくという流れは、徐々に盛り上がっていくようなきちんとした構成になっていると思うが、どうしても最初からテンションが高いので、後半に向けて上がっていくというカタルシスが得にくくなってしまうのと、基本的に余韻も少ないので、面白かったなーとはなっても、良いコントをみたなあ~となりにくいというのが本音だ。
 好きなくだりは「もう資格の情報じゃねーか!」

 

 決勝戦です。

 

空気階段定時制高校の教室にて」
 恐らくこのコントの元ネタは、『空気階段の踊り場』でも盛り上がった桂正和『I"s』の「きみに・・・」の回。にしても、これを賞レースの二本目でかけるという胆力、サイコゥサイコウでした。
かたまりの女装の完璧さと、もぐら演じるおじさんとその声では、笑いどころがないのに、何でこんなに笑えるというのか。理屈ではまったく説明できない。踊り場リスナー以外にもばしばしと刺さっているのは本当に不思議だ。
 かたまりは「ほんと、恋の尊さみたいなのが伝わればいいなと思って」と言っていたが、思えば、空気階段は『踊り場』を通じて、恋とエモと、嫌なことがあったら帰って良いということを伝え続けていた 
 空気階段について。昨年のやりたいこと詰め込みすぎてしまっていて、イメージとしては、改造しすぎたミニ四駆コーナリングで曲がり切れずにそのままコースを飛び出してしまったような印象があったのだけれど、今年は二本とも、ボケなどの余白を味わえるような時間も取れるくらいにはゆったりしているという体感的に尺がぴったりだったから、笑い以外の感情も得ることが出来る素晴らしいコントだった。「やさおじ」「クローゼット」と一昨年前なら優勝してもおかしくなったコント二つを別の形で上回っていて、二本目のネタをこの場でかける胆力含めて、空気階段の二人が賞レースを掴んでいる!!と興奮してしまいました。
 空気階段らしさを持って、ストレートに三位というのは大健闘です。
 好きなくだり「全部」
 
・ニューヨーク「組の事務所にて」
 ここにきて、じっくり見せるコントを持ってきたニューヨークはやっぱりコント師だった。屋敷演じる弟分が帽子をかぶっていることに、嶋佐演じる兄貴分が興味を示したことから始まるも、どんなに粘っても頑なに帽子を取らないというアウトレイジなのに自意識過剰な屋敷が可笑しいコント。
 良いコント師は全員、最終的にコントの中で人を殺したい願望があるのかもしれない。 
 好きなくだりは「俺の墓参りはよぉ、帽子とって来いよ」

 

ジャルジャル「強盗」
 後藤と福徳演じる二人が会社に強盗に入ったら、福徳はタンバリンを持ってきているわ、金庫からはタンバリンしか出ないわという、福徳のタンバリンの扱いと、後藤の慌てふためく姿がただただ面白い、リアリティも整合性もシステムも仕組みもほとんどないただただ動きの笑いに満ちたコント。
 それ以外、何も言えません。 
 好きなくだりは「音かき消します!ピーーー!!」

 

 総評
 「ほぼ無観客の審査の結果、テキストのみの面白さの比重が増えて、下手したら、コアなコントが優勝する可能性がある」と思っていて、それは滝音ロングコートダディといった大阪の若手がその波に乗っかることが出来た気はしますが、やはり、ジャルジャルがこれまでに積み上げてきた壁はあまりに高すぎました。そして二位のニューヨークも、意外と苦労人で持っているものは多かったわけですから、これもそうなるべくしてなった結果のように思えます。
 やはり、このご時世、劇場がある吉本興業が強いということは記録しておかないといけない気がします。
 審査員のさまぁ~ず三村については、点数にそこまでの違和感はないし、仮に点数が低くてもそれは問題なく、むしろ何故点数が低いのかということを知りたいので、これは単純に司会の浜田が、何で点数が低いのかを掘り下げられてなかったりするからではないだろうか。浜田が安易に三村いじりに流れていたようにも思えますし、全体的に、今回の浜田の司会はひどかった気がします。

フェミニズム関連の本を読んで思ったこと

 とあるラジオにおける事件をきっかけに、前々から勉強しなければらならないと思っていた、フェミニズムについての本を数冊読み、今も何冊か読む予定である。

 読んだのは、北村紗衣「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」、田嶋陽子「愛という名の支配」、栗田隆子「ぼそぼそ声のフェミニズム」、漫画「さよならミニスカート」だ。

 勉強になったことと言えば、例えば、「お砂糖と」などはフェミニズム批評で、この本の中に登場する作品を全て見ていたわけではないので、そこらへんは流し読みになってしまったが、フェミニズム批評、分かりやすくいえば、フェミニストにはこういう視点で見られているということがおぼろげながら把握できた。フェミニズム的な視点を受けて批判をされると、良くないことではあるがあ、こちらとしては唐突に殴られたように思ってしまう。しかし、そういった目ではずっと見られていたわけである。

 一番重要なのは、どう怒っているのか、ではなく、何で怒っているのかということを理解する必要がある。

 これは先日の、キン肉マンレオパルドン事件にも言える。ネタバレそのものではなく、これまでネタ扱いしてきたキャラが再登場したシーンを噛み締めることなく、インターネット上で受けるためだけにスクショを投稿したその情緒のなさ、その安易さに怒っているわけであるということを理解しなければ、ゆで先生が言っていた消費という言葉をそのままネタバレを話すこととのみで受け取ってしまう。

 どうせ読んでいないからここで悪口をいうが、嫌いな人間が、エンタの神様を腐すスクショをツイッターにあげるためだけでに、エンタの神様を見ていて、自分の力で承認欲求を満たせない可哀想な人だなと思ったりもした。

 田嶋陽子の「愛という名の支配」は、その、フェミニストが、どうして怒り、声を上げ始めたのかということが分かる。学術的なものというよりはエッセイに近いので、論理的なところや田島が紹介する他者の体験などは怪しいところもあると感じるが、何に怒っているのかということを理解するとっかかりにはなると思う。

 学術的な本といえば、上野千鶴子の「女ぎらい ニッポンのミソジニー」で、これはまだ読んでいる途中なのだが、こちらは100頁を越えたあたりから俄然と面白くなる。  

 とはいえ、上野が正しいかというと、基本的に上野は、笑いのセンスがなく、僕の了見でいえば、下品の領域に踏み込んでいることのほうが多いのだが、一読する価値は十分にあると思うし、この本のなかで紹介されている本は、恐らくガチなので、ガイドとしても活用できる。ホモソーシャルの章などは応用すれば、「ドキュメンタル」批評になるだろう(パクったら殺します)。

 田嶋も上野も、そのほかの人々も、やはり一理はある。ただ、一理しかない場合もあるということであって、人間社会は複雑なので、たかだが一理では何も変えられない。

 ここから先は、僕の友人である女性らにも嫌われたり、根本的に間違っているという指摘を受ける可能性があるため、あまり気が進まないことだが、僕がフェミニストに対しての反論などの答えはどれだけ読んでも見つけられそうにないということだ。

 例えば、社会福祉士の藤田孝典などは、性風俗産業を完全撤廃しろと主張する。女性が性的に搾取されるからという理由はもちろん分かる。その流れから、彼ら彼女らに、持続化給付金を与えないのは当然であるという主張もわかる。ただし、僕が性風俗店の経営者であれば、持続化給付金が貰えなければ、働いている女性からの搾取、例えばお客が減ったからとか何とか言って、割合を減らしたりするなどして、搾取を強めるということをするだろう。北風と太陽のような話だが、それは最終的には、藤田の主張は、女性の性的搾取を助長していることに繋がらないのだろうか。また、風俗嬢の仕事を奪うことになるわけだが、じゃあどうやって働けば良いのかというと、性風俗産業以外の仕事に就く、それが様々な理由で出来ないのであれば、生活保護を受給すればいいと主張する。仮に性的に搾取をされているとして、でもそれを受け入れて風俗嬢をやって月何十万も稼いでいる人が、その仕事を奪われたとしたら、恐らくというか絶対と言っていいほどにその何分の1の手取りになる。それは個人の選択する自由を奪うことにならないのかという疑問が生じる。藤田のツイートを見ていてもその答えは出てこない。

 本屋に行くと、AVのコーナーは無くなっているが、普通にBLの本は、目立つところに陳列されている。AVを撤去するのであれば、こちらも撤去するべきであるはずだが、そういう声はあまり聞かない。聞くとしたら、AVを見る男性側からであって、それは正当な反論のように思えるが、無視されている、または、これまでこちらは我慢してきたんだから許容しろと圧迫を受けているような気がする。

 長々と書いてきたが、やはり、気をつけなければならないのは、これらのことに時間と労力を割けば咲くほど、自分は偉い、意識が高いとなってしまうことである。それだけではなく、それをしない周りはダメだという対になる感情も芽生えてしまうことである。

 さらに、読めば読むほど、考えれば考えるほど、良くない言い方だが、地雷が増えている気持ちになってしまうということである。武器を手にしていっているという感覚には全くならない。

 恐らく、この武器を手にしているという感覚になっているのがヒラギノ游ゴで、僕は個人的には彼のフェミニズムに関する考え方は間違っていると思っている。例えば、AV女優の戸田真琴と対談した時に、彼女の本を見るやいなや、ピンクじゃないことに安堵したり、フェミニズムについて語ったりと、これってマンスプレイニングじゃないのかというムーブをかましていたりする。顔出しすらしていない男性ライターがAV女優にフェミニズムを語るのは滑稽なんじゃないか。

 それよりも僕が彼を嫌いなのは、「岡村隆史はヒーローだったんだよ」とツイートをしていたことである。自分がアップデートしていることにするために、衰退するものへのロマンを感じさせる感じのはつげんには反吐が出る。

だったら、岡村に、フェミニズムが分かる本や長文を送ればいい。僕は、自分であの事件が生まれる空気を醸成してきた深夜ラジオリスナー(岡村隆史ANNこそ聞いていなかったものの)一人であり、めちゃイケが好きだったからこそ、今は積極的に本を読んでいる。恩返しでもあるし、贖罪でもある。

 長々と書いた後にさらに長々と書いてしまったが、ここ最近のことをまとめたかっただけで偉くも何ともないということを肝に命じないといけない。

 ただ、たまにTwitterにアップする食べ物の写真に良いねするくらいでは甘やかしてください。あと、リスナーとして誠実だなとはちょっとだけ思って欲しいです。

 以上!!(厚切りジェイソン