石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

『怒り新党』の「臨時党大会」から考える有吉弘行のバランス感覚

 有吉弘行夏目三久が結婚したことも驚きだったが、それよりもその二人が出会ったきっかけである『怒り新党』の「臨時党大会」という名の、一夜限りの復活のほうが衝撃的だった。有吉の芸風的に、二度と共演することはないという思い込みは、軽々と裏切られた。

 『かりそめ天国』でのもう中学生の築地ロケに笑いながら、『怒り新党』のパートを待つ。番組が始まると、懐かしいセットをバックに、有吉と夏目が所在なさげに立ってマツコ・デラックスをスタジオに入るのを待っているという画には、やはり興奮してしまった。

 三人が揃い、マツコが芸能リポーターばりに二人のことを聞いている中で、夏目の今後の進退の話になると、二人で相談した結果、夏目が全ての仕事を辞めるといことが発表される。

 そこで有吉は「まあほら、何か、みんなの話を聞くと、離婚の理由ってすれ違いか、価値観の違いじゃない。ダブル違いでしょ。価値観のほうは、まあ、無理だとしても、すれ違いだけ潰しとくかみたいな。」と二人が出した答えに至ったロジックを説明する。これだけでも名フレーズであるものの、名著『お前はもうすでに死んでいる』で感じられた、リアリストの徹底したリスクヘッジでしかないが、もう一つのやり取りがあったことで、今回の放送がさらに意義のあるものたらしめた。 

 それは視聴者からの、昨年から凝った料理を自炊をしたり、椎茸やサボテンを育てるようになったのは、夏目の影響だったのかと思ったという内容の手紙が読まれると、有吉は「これはちょっと僕の名誉のために言わしてほしいんですけど、まったくそういう影響は無いです。僕個人の、僕個人の成長です。」ときっぱりと明言する。その後に、マツコに圧をかけられる形で、「結婚の影響です」と半ば言わされてはいたものの、やはり、ギラギラした芸人が自分のことを気遣った行動の数々は、自分自身の成長の賜物であると有吉が発言したことには大きい。

 「すれ違いだけ潰しとくか」「僕個人の成長です」というこの二つの言葉が揃うことで、有吉と夏目の選択は、互いを尊重した結果であるということが際立った。

 これを成立させる、有吉のバランス感覚たるや。

 この番組のなかで繊細なポイントは二つ。性的マイノリティに属するマツコがウェディングドレスを着るという演出と、夏目が仕事を辞めるという報告だ。

 いずれも扱いを誤ると大きなミスにつながりそうなセンシティブな題材だが、有吉は、軽やかに処理していた。これは、キツイことを言った後に、笑い顔を見せて、ジョークですよとエクスキューズを見せるというような小手先の技術だけの話ではない。

 有吉がマツコへの結婚報告を直接出来なかった顛末を、笑いを交えてトークすることで、マツコが有吉に攻撃する流れが生まれる。この導線がスムーズに機能したことで、有吉がいじられる側に立てた。この場面で、いじられる側に立つこと決められることも凄い。そして、この角度でいじられるなら、やはり、マツコしかいない。

 今回の「臨時党大会」が無ければ、夏目が半年後に引退した時に受ける印象はまた違ったものではなかったのではないか。そのことを考えると、おしゃクソ事変に匹敵する名勝負だったと思う。この放送に対して議論を仕掛けてくるなら、それなりの覚悟を持ってこいよという凄みもあった。

 そんなことを、打ちっぱなしのコンクリートの壁に向かってブツブツと喋りかけていたら、知人から今週とその発端となった前々週の有吉のラジオ『SUNDAY NIGHT DREAMER』を聞くように勧められ、音源が入ったMDを譲り受けた。まず、2021年4月11日の放送のオープニングで、拘置所から送られたリスナーからの手紙が読まれる。検閲され黒塗りになっていたことをいじりつつ読み上げて笑わせる。

 それから二週間後の2021年4月28日の放送で、先の手紙を送った人から、放送内で読んだことに対するリアクションとして再度手紙が届く。そこには、常識に沿って考えたら、いわゆる他者の合理性のサンプルのような行動が詰まっていて、もう笑うしかなくなってくる内容だった。

 手紙を送った人は、同じラジオを聴いているということだけが唯一の接点だが、それには、ある種の許容を生み出す力がある。しょうがねぇなあ、に持っていく推進力だ。

 有吉は自らが産んだ流れが、メディアに与えられるギャラクシー賞をもらえるんじゃないかと期待し始め、全く関係無い話から刑務所に話を繋げたり、良い話を引き出そうと、アシスタントの二人にカツアゲまがいのことをする。そして、番組のラストで、有吉はこう叫ぶ。

 「私は、あなたたちを許します!」

 黒塗りの手紙から始まった物語がいつのまにか、有吉弘行に回収されるというオチのコントになっていて、きっかけそのものはきっかけでしか無くなっていた。このバランス感覚たるや、である。

 さて、当たり前のように、「バランスが良い」と有吉のことを2回も評した。読んでいる人にも、そのニュアンスは伝わり、確かになあと思ってくれた人もいることだろう。この当たり前に使われる、バランスが良いという言葉について具体的な指標はもちろんない。基本的に、芸人に対して主に使われるが、ただ単にミスをしないだけではあまり使われない。例えば、麒麟の川島であれば、いわゆる、まわしの旨さであったり、その場その場での緩急の付け方など、安心感があるとは言えるだろうが、バランス感覚が良いというのは、ややしっくり来ない。少なくともその芸風も関わってくる。危ないと思わせるギリギリのところまで踏み込むと思われている芸風であることが必須条件である気がしてくる。

 そうして考えてみると、バランス感覚を持っていると思わされる何人かの芸人の言動がいくつか思い浮かんでくる。それを一つ一つ挙げても良いが、バランス感覚を理解できない人達から、遡って袋叩きにあいそうなので、それは辞めておくが、「バランスが良い」人たちは、全員売れっ子ではないだろうか。これはメンタリズムでも何でもなく、きっと現在売れているという事実も重要な要素だからだ。

 売れていることで、視聴者は勝手にその芸人やタレントの言動には多くの制約が設けられると思い込む。ましてや、今の場面は炎上しちゃうんじゃないかと勝手に心配してしまうようなご時世であれば尚更だ。

 バランスが良いとされる人たちは、そこのラインを見極める。社会的なアウトと、点を線で見てくれるファンだからこそ踏み込んでほしいところのキワキワのラインを見極め、あえてそこまで踏み込み、いや、少しだけ飛び超え、疑念を持たれる前に元の位置に戻り、話の方向を変える。この場合は危機に限らず、名誉すらも避けられる。

 言ってみれば、バランス感覚があるというのは幻想でしかない。しかし、視聴者側の勝手な線引きと、演者の嗅覚と場の舵取りという確かな技術に裏打ちされた位置取り。それらが揃って初めて、バランス感覚すげぇなあとなるのではないか。