石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「三遊亭圓楽・伊集院光 二人会(夜の部) ゲスト 爆笑問題」感想

 さて、何から話せば良いだろうか。高校浪人という名の穀潰しをしていた2000年に『爆笑問題カーボーイ』を聞き始めた。ある回で「今週の宝船」という、爆笑問題の二人が、与えられたテーマでトークをし、最後にキーワードを決めるというコーナーで、伊集院光がそのお題となったことがあった。その時に、太田は、伊集院の引き出しの多さを語り、そこからキーワードは「薬局にある棚」になったと記憶している。伊集院光の存在こそ知ってはいたものの、ラジオが面白いという情報は持っていなかったので、それがきっかけで『深夜の馬鹿力』を聞き始めたと思う。恐らくその少し後に、伊集院光が「オールスター感謝祭」で太田光デヴィ夫人のゼッケンをつけて走ってて最高だったというトークをしたと思う。そこらへんは、友人から音源を録音したMDを借りて見ないと分からないが、まだまだこの時は、伊集院光爆笑問題には、それなりの距離があったはずだ。「だめにんげんだもの」が全盛のころで、最初はコーナーのほうが楽しみで、徐々に一人喋りの魅力に気付いていった。「JUNK枠」というブランドが確立する前の話だ。
 それから高校生となり、どっぷりと伊集院光爆笑問題に浸かることになる。多感な時期だ。単純な笑いだけでは無く、落語や小説、映画などの文化だけでなく、世事への見方、茶化し方や、本を読むという習慣が根付いたことなど、この二つの番組から様々なことを教わった。了見の二輪になっている。どちらかが欠けていたら、今この文章を書いている自分は存在しない。もっと上手く自分に向き合って生きて、ライターとかになっている自分は、もっと読みやすくて面白い文章を書いていただろう。
 大学生活が始まり地元を離れるという時に父親から貰った、古今亭志ん生の落語のCDもすんなり入ることが出来たのも、二つの番組で落語に興味を持っていたからだろう。その少し後に、『タイガー&ドラゴン』が始まるという絶妙なタイミングだったのもラッキーだった。どこに載ったのかも分からないが、大学卒業時に、「へっつい幽霊」から見る人間のダメさみたいな小文を買いて提出したのも覚えている。どうにかして今読むことが出来たとしても、ほとんど伊集院光爆笑問題による落語論の流用でしかないが、書きあげた時は、自分はこんな文章を書けるのかと嬉しくなった。それから折に触れて落語を聞いてはいるので、立川談志古今亭志ん生三遊亭圓生などの名人だけでなく、若手の落語家にも好きな人はいるくらいには嗜んでいる。落語を知っているからこそ、サンキュータツオに興味を持って『東京ポッド許可局』を聞くようになったし、神田松之丞改メ六代目・神田伯山への導線はバッチリだったし、全く知らないよりは漫才を始めとしたネタへの理解度も深くはなっているはずと信じたい。
 「三遊亭圓楽伊集院光 二人会」に爆笑問題がゲストとして出演するということそのものが、自分にとっては奇跡のようなものであり、全てが揃った空間だった。ここから始まったことに支えられながら生活し、日銭を稼いで、コスパ悪く生きている。
 チケットを取ってからライブ当日までの約一か月は、生きた心地がしない日々だったが、生きている実感を持てる期間でもあった。まさに電柱理論だ。ライブの前の日には、どんな結果でも受け入れられるような境地になっていた。『深夜の馬鹿力』で、伊集院光が、演者は演者に徹するだけと言っていたが、観客は開演を待つだけである。ただただ楽しむだけだ。全てはオリバーカーンそっくりの落語神次第だ。
 とはいえ、グッズを買うために並んでいるとさすがにまた緊張し始める。つまらなかったらどうしよう、分からなかったらどうしようという負の感情が胸の奥で煮立ってくるのが分かる。  
 そんな瞬間、ふとロビーに飾られている花を見てみると、都立足立新田高校3年7組卒業生一同から届いた花を見つけた。その文字列が目に入った瞬間、ぶわっと込み上げるものがあり、泣きそうになって、しばらく涙を堪えるのに必死だった。30年という時間の重みが一気に脳内に流れ込んでくる。家にある自分が写っている全ての写真をヤギに食べさせていた暗黒の時代だとトークしている高校時代の同級生たちからの花だ。彼ら彼女らは同級生である伊集院光のことを人生の合間で気にかけ、テレビで活躍する同級生のことを誇りに思っていたのだろうかと勝手に考えてしまうと震えるものがあった。
 よくよく考えると伊集院は中退しているという事実も少しおもしろい。このままだと泣き崩れてしまうと思い、隣のブッチャーブラザーズぶっちゃあからの花を見て、「腕折れてもうたやないか」のエピソードを必死で思い出して涙を堪えていた。
 ここで泣きそうになって感情が振り切ったのが良かったのかもしれない。緞帳が上がりきるまでには冷静になることが出来た。
 夜の部は、三遊亭圓楽伊集院光のフリートークから始まった。 拍手を受けながら登場してきた、圓楽と伊集院。初めて見た伊集院光は、二階の奥の方の席から見ても大きい。
伊集院は出てくるなり、昼間大変なことが起こりまして、と話し始め、圓楽が今日が良かったら、秋ごろに第二回をやろうと言い出していると続ける。それに観客は色めきだち拍手を送る。圓楽は『深夜の馬鹿力』がネットしているから、福岡でも札幌でも出来ると言い出し、そんな圓楽に伊集院は、「こんな言い方なんだけど、あんた元気すぎ!」とツッコむ。
 和やかにフリートークが終わり、続いて出てきたのは、三遊亭落大。伊集院光が落語家時代に名乗っていた楽大を現在名乗っている、二代目だ。確かに、体格は昔の伊集院を思わせなくもない。
 落大は師匠である三遊亭圓楽に名前をつけてもらうことになって、三遊亭楽大は出世名だからと言われて貰ったので喜んでみたものの、冷静に考えたら、落語家辞めた後に出世していたという伊集院光にまつわるマクラをしてから、牛ほめに入っていく。
 続く圓楽は、「出たり入ったり」。全く知らない落語だったので、何だこれ!と思いながら前のめりになって聞いていた。その時は、めちゃくちゃ理屈っぽい落語だなぁと、圓楽の新作かと思っていたら、『深夜の馬鹿力』で話して、もともとある噺であり、さらに調べて驚いたのだが、桂枝雀創作落語だという。
 一回聞いただけでは、振り落とされてしまうほどにぐわんぐわん揺さぶられるこの噺は、そのことを知ったうえでもう一度聞いてみたくなった。
 中入りが終り、飛び出してきた爆笑問題は、もちろんワクチンの接種開始、党首討論星野源新垣結衣の結婚から、カトパンの結婚など硬軟織り交ぜた時事ネタ漫才だ。もちろん面白かったけれど、良かったのは圓楽と伊集院をいじりまくった冒頭だった。特に、圓楽が不倫を謎かけ一つで許されたことに対して、「あんなんで許していいんですか」と客席に向かって怒鳴るくだりは、まさに寄席演芸のシャレの世界で最高だった。
 コロナ禍においても、タイタンシネマライブだけは行けていたので、爆笑問題の漫才を見てきてはいたが、やっぱり、生はちょっと別格だった。この落語会に来る観客だけあって笑いどころの感はばっちりで、太田がボケ、田中がツッコむたびに、どっと笑いが起きる。その波が何度も何度も自分の体に収斂していくこの感じも一年三か月ぶりだったので、じんわりとしてしまう。人生において一年や二年は短いが、楽しみを奪われるのには長すぎて、観客が笑いに来ているという当たり前の事実すら遠ざけられてしまっていた。席が満席だったら、うねっていてもおかしくなかっただろう。残念なのは圓楽、伊集院らとのクロストークが無かったことだが、それはタイタンライブに取っておいておこう。そのくらいの期待なら、してもバチは当たらない。
 トリを勤める伊集院の演目は「死神」。
 たっぷりと1時間はやっていただろうか。素晴らしかったです。
 マクラは、落語をするにあたって30年前には無かったスマホで落語に出てくる一両が現代の価値でいくらなのかを調べてみた話から、走馬灯や死ぬ間際に見るお花畑の映像は、今は脳科学で少しずつその仕組みが解き明かされているという話をして、生き死にまつわる噺として「死神」に入っていく。
 「死神」に入ってしばらくは、普段のラジオと比べるとやや丁寧な喋りであったが、男が死神に会ったあたりからギアが上がり始める。
 「死神」は男が死神と出会ったことから、寝込んでいる病人の側には死神がいる、その時、死神が枕元にいたら病人は助からずに死んでしまうが、足元にいた場合、呪文を唱えると死神はいなくなって病人は助かるということを教わる。男は医者となって、病人のところに行っては、足元にいたら呪文を唱えて、病人を助け、お金を稼いでいく。ある日、江戸一のお金持ちから、番頭を助けてくれたら、大金をあげるといわれ、そこに行ってみるが、番頭の枕元には死神の姿。がっかりし、助けられないことを伝えるも、さらに大金を提示され、悩んでいるところに、布団を回転させることで死神の位置を変えるということを思いつき、実行して無事成功する。
 その夜、男の家に最初の死神がやってくる。実は今日追い払った死神は自分で、お前はやってはいけないことをしたと言って、男を洞窟へと連れて行く。そこには、大量の火がついているロウソクがあり、死神が言うにはそれは、江戸中の人の命のロウソクで、今日お前が無理やり病人を助けたことで、その病人とお前の命のロウソクが入れ替わってしまったので、お前は死ぬと。男はどうにか助かる方法はないのか教えて欲しいと懇願すると死神はこの消えそうな火を長いロウソクに無事移すことができたら、お前は助かると教えてくれる。手を振るわせながら、火を移そうとする。男は無事に火を移すことが出来るのか。
 伊集院光の「死神」は、不勉強でただ知らないだけだったら恥ずかしいが、全く見たことのないものだった。
 男が死神に出会うまでの冒頭で、男がお調子者であるが、でも憎めない存在として描いてから、この男に観客の感情を移入させる。特筆すべきは、何故男にだけ死神が見えるのかなどの違和感を、縁をキーワードにして、ロジカルにかつ自然な形で潰す。死神がいなくなる呪文は「テケレッツのパァ」など意味の無いものが多いが伊集院が設定したものは、少し特殊なものだった。実はその特殊なものがフリとなっていて後々、効いてくるという構成の妙や、さらに縁とは何なのかというミステリー要素も入っている。もちろん、合間合間に、リスナーが持つ「伊集院さんっぽさ」も出過ぎていない程度にちょこちょこ挟まれ、ニヤリとしたり笑ったりさせられる。そうして突き進んでいく物語は、アクロバティックかつ伊集院光の根の優しさや「人生の肯定」が現れたラストを迎え、ラジオリスナーならさらに楽しいサゲの一言で着地する。
 それは紛うことなきリビルドされた「死神」だった。落語を知っていれば知っているほど、この噺をこう組み変えて、こう演出し、こういう結末にするということに驚くのではないだろうか。
 伊集院光が30年ぶりにした落語という付加価値を抜きにしても凄い「死神」になっていると思う。途中に出てくる与太郎めいたバカ丸出しの小僧もめちゃくちゃ上手くて面白かった。これだけで見たい、やってほしい話がいくつも出てくる。
 この「死神」の良さが分かるだけじゃなく、自分も年齢を重ね、この場にいていいほどにはそれなりに生活を頑張ってきたと言えなくもないことも嬉しかった。ライブを見た後は、急激に陰のゾーンに入ってしまったりするが、その日はずっと何とも形容しがたい気持ちだった。人生でこんなご褒美があっていいよなと素直に思えた。
リスナーとなって20年、漫然とラジオを聴いていただけの日々ではないと少しだけ胸を張っても良いのかもしれない。そうも思えた。
 何より嬉しかったのは、自分がこのチケットを取ったことを、自分のことのように嬉しいと喜んでくれた人たちが少なからずいたことだった。少しだけ運が良かったというわずかな違いだけで見られた今日のこの日のことを忘れないで、何か間違いそうになった時に思い出そうと心に決めた。