石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

正しく擁護するための試論。 

 以前、ブログにて、妻を論破したというくだりを書いたら、たまたまその記事自体が普段より多くに人に読まれたこともあって、軽く批判を受けた。その前後を読めば、その後の展開に行く前に、そもそもどうなのというツッコミを潰すための、いわゆる一つのフリとして書いていたのであり、一般的な読解力をもってすれば、それが分かるはずだと思ったから、あえてバカにしている言葉及び風潮である「論破」という言葉を用いた。
 記事の全体を読まず、なぜそのくだりが敢えて配置されているのかも考えず、「妻を論破した」という文字列のみに反応したのだと思う。そのこと自体は、僕の迂闊さと、もともとブログを更新した直後に読んでくれる人への信頼という名の共犯関係への甘えが引き起こしたミスだ。
 先日、爆笑問題太田光が炎上した。ことの発端は省略するが、ひどいことをした人間を少しでも庇うようなことを言って、彼はあんなひどいことをした人を擁護したと、太田は非難を受けた。もはや同罪であるといわんばかりの反応だ。
 そもそも太田が言ったことは擁護なのだろうか。
 というか、太田はSNSの類をしていないので炎上ではない。ネット野焼きが多発したというのが正しい。
 よしんば、擁護だとして、それの何が悪いのだろうか。
 少しだけ足を止めてみよう、整理しようと主張することは擁護なのだろうか。
 どうしても厳密には擁護だとは思えないのだが、他の人には擁護に見えたのだろう。仮に擁護だとして、庇い守るという擁護の意味を行うことが悪いとは絶対に思えない。
 擁護をするという行為を持ってして、非難が出来る人たちは、おそらくだが、「彼は文化的に素晴らしい才能を持っている」「昔の話だ」などという雑な主張と同じカテゴリーに、太田の言葉を入れているのではないか。これらは目を逸らさせようとしたり、無罪にしようとしたりするものであって、スタートが異なる全くの別物だ。太田の言葉をきちんと聞くと、無罪にしようという意図は感じられない。少なからず、太田の言動を20年以上追ってきたので、補完が出来てしまうということもあるにはあるのだが。
 そして、別の話だが、僕のブログの記事を読んだ人が、とある番組のとある最悪な企画を擁護した記事を見て、最悪だと言っていた。
 厳密には、あの記事は擁護ではなく、笑いの構造の話をしていたのであり、そんな単純な図式で笑わないよ舐めないでくれという主張であったが、どうやら、その人にとって、最悪な企画を擁護する最悪な人間になってしまったようだ。
 僕はこれらの事柄は、同じ枠内に収まる類のものだと思う。
 言葉は、あくまで行為の器でしかない。しかし、安易に言葉を使用する人ほど、大きな器のため、あらゆる行為を同じ器に入れてしまう。言葉に向き合っている人は、その反対に、器は小さくなる。言葉の定義がより厳密になっていくわけだ。
 言葉を聞いて、どの器に入れるか、それを持って敵か味方か判断するのではなく、まずは、何故そう言うことをいっているのかということを考えることこそが、擁護を始め、あらゆるネットミームとして奪われた言葉を取り戻す方法でしかない。

  そう思っちゃったんだからしょうがない。