石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

キングオブコント2023感想と愚痴

キングオブコント2023」、今年も、快活CLUBで観てきました。生活が忙しすぎて、遅くなりましたが、昨年の感想が書けなかった反省もありますので、今年は頑張ります。昨年は、単なる一時的な抑鬱状態で書けなかっただけなのでご心配なく。そもそも今年もこんなに時間かかっているのもそうですし、というか、高校2年生の時に、好きなこと付き合うことになるも、三日で別れることになった時から、強い抑鬱状態にあるので、ご心配なく。あと、快活CLUBの、多分毎年、個室に行こうとして、フラットルームを選んでしまうというミスをしてしまっている気がしますが、受付の写真のUI悪すぎませんか。

 さて、正直な感想といえば、今年の大会は、かねてより危惧していたノイズが重なって、看過できないくらいの不協和音となったのか、自分が耐えられなくなったのか、ネタ自体は面白かったし、ラブレターズの7年ぶりの決勝進出など、個人的に上がるところはあっても、楽しみきれなかったところがあった。強い抑鬱状態のせいなのか、実際に声を出して笑ったのは、や団からだった。あんまり手放しで喜ぶような、魂と脳が涎を垂らして笑うことがなくなっている理由を解いていきたい。 

 

1・カゲヤマ「謝罪」

 取引先との仕事でミスが生じ、その謝罪のために、相手先が待っている料亭に赴き、ミスをした後輩の代わりに先輩が謝るネタ。

 どういった笑いになるのかとワクワクしていたら、襖の向こうで謝罪をしている先輩襖を開けると下半身を丸出しにして土下座しているというのが笑いどころになるわけだが、勿体無いのは、この笑いどころを生み出すシステムの肝が、その数時間前に放送されていた「お笑いの日」の特別企画での、襖を開けたらハナコの菊田と、ナイツの土屋が入れ替わっているというネタと突いていたことだ。このネタを先に見ていなかったら、自分の中で初動は変わっていたのかもしれない。そのこともあって「あ~、はいはい」となり、乗り切れないまま、終わってしまった。このインパクトある初速についていけないと、冷めた目で見てしまう。

 それでも、ワンシーンワンアイディアではあるものの、後半までだれることなく突っ切っていたのは流石だろう。劇場でかなりブラッシュアップしてきたのだろう。

 とはいえ、冷静に考えると、もう現代にそぐわないコントだなと強く思う。本来であれば大きな貸しになるはずなのに、牛丼を奢らせることでチャラにするという小粋でユーモアのある先輩、半裸土下座で許してもらおうとするところ、どこまでもホモソーシャルを前提とした笑いであり、設定ではなく、ベースとしている考えが古い。ホモソーシャルを茶化しているようにも見えなくもないけれど、茶化し切れてはいない。

 謝罪の場がセクハラパワハラなどが生じやすい場となっているという実際の社会における現状が

ある以上、素直に笑える題材ではないような気がする。

 そういうAVばっかり見ているからだと言われかねないので前もって否定しておくと、そういうAVは見ていない。ここ数年は、女性が丁重に扱われるファンものを中心に見ているので、そういうAVは見ていません。

 好きなくだりは「松屋は味噌汁ついてます」

 

2・ニッポンの社長「空港に行け」

 夢を追うために、外国へ行ってしまう女性を、男性が連れ戻すために空港へ向かうというその設定自体は、使い古されたと言っても過言ではないのだけれども、そこから、辻が扮する男Aがケツが扮する男Bにナイフで切りつけるということで「仕返ししすぎだろ」という笑いから、徐々に男Bが不死身だという不条理な笑いに変質していくという、ニッポンの社長の世界が展開する。その中でも、ショットガンをぶっ放すくだりを活かすために、ナイフでもスローモーションのくだりを入れて、唐突なスローモーションへの違和感を最小にするという計算なども垣間見える。

 男Aが出す武器が、ナイフ、銃、ショットガン、手榴弾、地雷と殺傷能力が上がっていくという、日本で一番かっこいい小説であるところの村上龍の「昭和歌謡大全集」を彷彿とさせる展開は、スローモーションの展開が無駄に思えるほどに飽きさせず、面白かったし、まさに原点回帰を感じさせるものだった。キングオブコントアメリカ大会だったら、オチは原子爆弾だっただろう。 

 このコントの肝は、登場人物二人ともボケていないところで、東京03の飯塚の「めちゃくちゃなようでルールがちゃんとしっかりしているというか。ケツ君が不死身なんだということを飲み込んじゃったらあとはこの二人の日常なんだよ」という評は、いわゆるラーメンズ小林賢太郎が言うところの「非日常における日常」で、これについては、観客である自分達とは異なるルールで生活をしていることを描くときにおいての笑いどころの作り方は、小手先の笑いよりも生活やルールの細部を構築した方が、笑いにつながっていく。男Bの「中学」とかがまさにそういう役割を果たす。彼らにとっては日常なのだ。

 しかし、カゲヤマ以上に、昨今の世界情勢においては無邪気に笑えないコントだったことは否めない。

 さらにさらに重箱の隅を突くような意地悪な見方をすると、突き詰めて考えると、その根底にあるのは、うっすらと恋愛至上主義というか、女性は男性の元にいる方が幸せということになってしまう。だからそういう意味でも、古い設定なのかもしれない。

 好きなくだりは「(ショットガンで撃ってからの)やっと本気出したみたいだな」「これ中学ん時よく喰らったよな」

 

3・や団「演出家」

 昨年の2本と比較して、冒頭しばらく、これは面白いコントにならなそうというか、不発に終わりそうな感じで、初速は遅かったものの、灰皿を投げてくる演出家ということがわかってからの、本間キッド扮する劇団員AがマトのデザインのTシャツで推進力を得てからは、緩急織り交ぜたコントでとても良かった。

 令和の今になって蜷川幸雄をいじるという古い設定かと思いきや、蜷川自身にもこういう葛藤からくる喜劇があったのではないかと改めて解釈をし直して、逸脱しきれない人間の弱さというか、空気や役割に支配され縛られている人間の悲しさが存分に描かれていて、お見それ致しましたという感じである。何より、どこまでも理解できていないキャラを演じさせたら今一番面白い、劇団員Bに扮する中島が良すぎる。

 それに加えて、灰皿を回転させるというくだりは秀逸で、緊張と緩和という重要な要素を、不確定性に委ねるという、長い芸歴で培った遊びも入れてくる。殺すための灰皿ということで満足してしまいそうだが、下が丸くなっているものを見つけて回転させるというくだりを追加するのはお見事。

 好きなくだりは「俺めちゃくちゃ狙いやすいんだけど」、灰皿を何度も投げられることになることを想定した「俺の時にはめちゃくちゃ肩あったまってるって」、タウマゼインの説明、中島が灰皿を置いてからの回転と止まるまで

 

4・蛙亭「寿司」

 真っ先に思ったのは、蛙亭のネタがコンビとしてバランスが整っているということだ。今までの蛙亭のネタの多くは、イワクラが、中野の異常なまでの瞬発力と演技力を兼ね備えたその表現力に頼りきっていて、思い返せば、脚本の面白さではなく、中野の表現力のみで笑っていたな、となるところがあった。これは、中野のコントでの立ち振る舞いと絶叫が面白すぎるということの弊害なのだけれど、この「寿司」のコントは、中野でなくてもとりあえず成立する脚本となっていた。友人と、「イワクラが中野を信頼している感が出てきた」という話をして、それもあるだろう。とにかく、コンビとしての強度が増している。狂人のような立ち位置に収められそうになるたびに中野扮する男が正論を言い放ち、常識の範囲内にスッと戻る、でもまた常識の範囲外にいつの間にか立っているというこの反復運動がたまらなすぎる。今大会で一番、展開にワクワクしたコントだった。

 公園のベンチに座っているイワクラ扮する女が、彼氏と電話をしているが振られてしまう。今後の展開的に、このコントにおいて「女が彼氏に一方的に別れを告げられた」という情報だけがあればいいので、この冒頭をサラッと流すように処理しているのも、省略の技法として正しい。

 そんな呆然としている状態に、シブがき隊の「スシ食いねェ!」を口ずさみながら、キックボードに乗って舞台に登場した中野扮する男が、早々にすっ転ぶ。コントが始まったぞ、と嬉しくなった。それをピークとせずに、会話で笑わせていくのだけれど、引っかかったり強引なくだりがなく全て自然なのでコントの流れがスムーズで、脚本のレベルが上がっている。

 たまごの概念コーデを気づかせないためにデカデカと、寿司の対極にある「KARIBU」を配置したのはお見事、というのは考えすぎ褒めすぎだろうか。

 好きなくだりは「慣れない交通手段とったから!」、「たまごの概念コーデ」、「一人で食べるには十分かと」からの「4人で食べるけど」、「あなたに何がわかるんですか」からの「知らないよ~、初対面なんだから」、「ぶつける相手は僕じゃない」

 

5・ジグザグジギー「市長会見」

 元お笑い芸人が、市長になり、記者会見を開くも、マニュフェストの出し方が大喜利っぽいという設定は、漫才の1くだりなどでもやられていてもおかしくなさそうな設定でありつつ、キングオブコントの舞台でやってこそ映える、飛び道具のような、でもしっかりとコントをしているネタ。

 ただ、めちゃくちゃ良い設定だし、初見でゲラゲラ笑うのだけれど、どこか「IPPONあるある」にとどまっていて批評性には欠けること、言っちゃいけないことまでは言っていないことで、親殺しまでには至らなかった印象を受ける。また、何度か見返すと、好きなくだりは無いな、とも思った。

 好きなくだりは設定。

 

6・ゼンモンキー「神社」

 や団の後だと、三人でいる意味やそれぞれの役割を比較してしまうので、減点方式で見てしまっていた。一番気になったのは、コントとしての余白の無さだ。一挙手一投足が計算されているように見えるがゆえに、ネタはよく出来ているんだけど、どこか、なぞっているだけ、繰っているだけのような印象を受け、ユニゾンが練習風景を見せてしまう。いつかのリンゴスターを思い出した。

 一番、引っかかったのが、男子高校生が「そんなに小銭持っていないだろう」というところと、小銭については「するお金がないので」「あっただろ」と矛盾することになるなど、そこは、コントにおけるリアリティのラインを個人的には逸脱していたように感じた。

 むらまつのツッコミが、東京03飯塚すぎることは、微笑ましい部分ではあるのだが。

 好きなくだりは、これでも喰らえとお賽銭を入れるところ、殴るぞからのおさめるぞ

 

7・隣人「小噺」

 上方落語の重鎮の師匠が、チンパンジーに、日本語ではなくチンパン語で小噺を教える。そしてコツを掴んできたところで、厳しさも出しつつ、伝授する。その中で、心が通じ合ったかと思いきや、檻が開いた隙にチンパンジーは脱走する。

 コミュニケーションの本質を描いたコントであり、今大会のネタで一番感動した。コミュニケーション論という意味では、やっていることは韓国映画「パラサイト」だ。

 他者に何かを伝えることは、タウマイゼンみたいな言葉を使うのではなく、少なくとも言語を下方で揃えなければ、伝わることはなく、教育や啓蒙ではなく、一方的な押し付けになってしまうのだけれど、とにかく、そのことを忘れがちだ。それが、伝える側がすべき努力である。そこまでして初めて、厳しくすることが出来る資格を得る。そして、このコントの素晴らしいところは、何より「心が通ったように思えたチンパンジーが、檻が開いて隙ができるや否や、脱走する」というオチ、最高。

 コミュニケーションとは、伝えることとは、相手の言語に寄せ、身振り手振りを使って、時には優しく、時には厳しく、そのトーンを変えるなどまでしなければいけない大変なものであるにも関わらず、そもそも不成立が原則であるという、その無慈悲な本質を描き切っている。

 こう思ったのは、「キングオブコント」が始まる前に「正反対な君と僕」を読んでいたのかもしれない。やっていることは「スキップとローファー」と一緒なんだけれど、こっちの方が可愛くて笑えて、どっちも良いな、というか最近は、恋愛が一番というよりは、恋愛関係もコミュニケーションのグラデーションの濃淡の結果に過ぎないということが根底にあるのがトレンドなのかな、だとしたら恋愛至上主義からの脱却が進んでいるということだな、素晴らしいことだと、恋愛弱者の視点から感心していた次第だ。

 コントの話に戻ると、を持っている。だからこそ、GReeeeNの「キセキ」を流すというくだりは、唾棄すべきですよ。あそこは本当にがっかりしてちょっと冷めてしまった。上方落語では鳴り物があるからと許してはいけない。チンパンが歌っているところはちょっと面白い。

 松本の「落語家がチンパンジーになったことがピーク」という審査コメントのとおりではあるものの、松本が点数を比較的高くしたのもなんとなく分かる。

 好きなくだりは、小噺の絶妙に面白くなさにも関わらず何度聞いても新鮮に面白くないと思えるという無駄な強度、落語家がチンパン語でした落語を聞いてチンパンジーが爆笑したところ、そばをバナナに変えたところ、猿が師匠を迎える時のお辞儀、逃げたーからの暗転の方が気持ちいはずなのに上手いこと言ったオチにしたところ

 しかし、橋本市民劇場は天才のルックをしすぎている。

 

8・ファイヤーサンダー「日本代表」

 楽屋で祈っているユニフォームを着た男と、スーツを着た男が舞台にいて、日本代表となった選手を呼んでいくナレーション。サッカー日本代表の発表かと思わせておいてからの、一人の選手を持ちネタにしているモノマネ芸人の悲哀を描いたものだったというとてもいいコント。「選手本人ではなく、実はモノマネ芸人だった」というバラシで大きな笑いがくるが、そこから先は、一本のネタに賭けているモノマネ芸人の悲哀へとシフトすることで、騙されたという満足感と、コントとしての満足感を得られる。しれっと、「ゼロから生み出せる」みたいな、お笑い芸人から見たモノマネ芸人への悪口もいい。

 既知のネタだったけれども、改めて見ても笑ってしまういいコントだ。ファイヤーサンダーは、ずっとコントの枠の中でコントをしているという印象があったのだけれど、このコントは、明らかに何かが違う感じがする。立体的であり、悲哀があるところだとかは、勝ちに不思議の勝ちあり、みたいな話になるが、一皮剥けたのは間違いない。

 好きなくだりは、日本代表と思いきやモノマネ芸人だったという設定、日本代表のモノマネ芸人をたくさん上げてからの「なんで日本代表より層熱いねん」、「俺らがゼロから何かを産み出せるわけないやろー」

 

9・サルゴリラ「手品」

 手品師のネタ見せ。マジックで使う道具に違和感があるという、そんなに設定が新しいわけではないが、小箱、中箱A、中箱B、カシューナッツやバターピーナッツ、夏の筑波山、夜の松本白など、絶妙なチョイスを出してくるので笑ってしまう。テーブルマジック、カードマジック、オリジナルのテーブルマジックと3つのターンで構成されているので飽きさせないままテンポ良く進むだけじゃなく、演技力や「午前中に区役所行って」という余白で持っていく、まさにコント力でもぎ取った高得点。

 個人的には、ターン3は発想として飛躍しすぎているなと思ったけど。

 好きなくだりは、「こっちも分りやすいけど」という我の強さ、考え事しますねからの「午前中に区役所行って」、靴下にんじんとペンチピーチをテレビ局に用意させるところ

 

10・ラブレターズ「結婚のご挨拶」

 結婚のご挨拶のために彼女の家に行くも、狭い部屋でシベリアンハスキーを飼っているだけでなく、そのことによるご近所トラブルを抱えている家だったことが判明する。

 エネルギッシュがあって、音が大きいコントだからか、良いコントではあるものの、トリには相応しくないようにも思える。審査員がネタがハイレベルといっていたように、疲れたところには合わないコントだったのかもしれない。

 やはり、サンバイザーで母親の狂気を表現しているところは素晴らしい。「人間のエゴで自由を奪えっていうの~」というセリフあたりから、おそらく、動物関連の法律への反対運動とかでデモに参加しているタイプの活動型であることも想定できる。

 コントとして、ここまでうるさくしているのに、そこまでうるさくなっていないのは良いのだけれども、ところどころワードが掻き消えてしまったり、犬へのベロチューがめちゃくちゃ滑ってたりと悔しい部分が多々あり、どうにも爆発ポイントが不発だったことは否定できない。ここでかけるということは、ウケてきたことは間違いないくだりではあるのだが。

 場が混沌のピークを迎えたところに「娘さんを僕にください!」ということで、今ままでボケだった母がツッコミに回るのも良い。「水曜日のダウンタウン」での、「プロポーズした彼女の実家がどんなにヤバくてももう引き返せない説」の検証VTRを想起させるが、むしろこの結論の方が人間のリアルなのかもしれない。

 ラブレターズについてはどうしても肩入れしてしまうが、点数が低いなあという感は否めない。もう少し伸びてもいい気はするのだが、どうにも評価されきらない。特に飯塚悟志は、ゴッドタンでラブレターズの単独ライブに行ったら、蓮見翔が書いたコントが一番面白かったという配慮に欠けるコメントをしていた償いとして、99点にすべきだった気がするが、止むを得ない。

 好きなくだりは「人間のエゴで自由を奪えっていうの~」

 

 ファイナルステージは駆け足で行きます。1組目・ニッポンの社長「手術」。ケツ扮する医者が、辻扮する患者の体にメスを入れていくどんどん臓物を出してくるという、こちらも不条理なコントなのだが、これでファイナルステージには上がれないだろうなというほどにはオフビートなコント。ファイナルステージ2組目・カゲヤマ「オフィス」。仕事が出来る部下が、実は自分のデスクにうんこを仕掛けた真犯人であったという設定。会話がメインなのにミステリー要素が絡むことで動きがあるように見えてくるので飽きさせない。最後の犯人は、後輩なのか、それとも全てを察して自らの責任としようとした彼女なのか。謎は深まるばかりだ。一本目と合わせて思ったのだけれど、カゲヤマは二人ともデカすぎる。このデカさは、ずっと違和感としてあった。コントをするにしては、舞台上に占める人間の圧が強すぎる。だからどうだってことはないのだけれど。あと、社会人としての電話対応とか、微妙な手にをはの間違いが気になった。

 ファイナルステージ3組目・サルゴリラ「高校球児」。甲子園を逃した球児を監督が労い、励ますも、全て魚で例える。 発想としては割とよくある1個のワードで押し進めていくタイプのものであり、そこまで目新しいものではないのだけれど、どうしたって、児玉に笑わされてしまうし、笑いどころも、右肩上がりになっていくので、全体を通して満足度が高くなる。何より、演技力でもぎ取った勝利だった。監督の声がバカすぎて元々、児玉の声がそうなのかと思っていたのだけれど、一本目と合わせて見返してみると、そうではなく、意図してそういう風に発声していることがわかる。

 

 優勝は、サルゴリラサルゴリラさん、おめでとうございます、タイタンライブでお待ちしております。

 さて、以上が、ネタの感想となる。ここから面白くない話をするので、興味のない人は帰ってもらって大丈夫です。

 総評として、極個人的なものとしては「社会性に欠ける」、大会全体としては「大味なネタばかりが目立ち、機微を重視したミニマルなコントが飲み込まれてしまっている」だ。連発されたハイレベルという言葉にあまりピンと来ていない。一回の大会で、腹抱えて笑った回数は明らかに過去の方が多いのに、と思ってしまう。

 明らかに一本目でインパクトを残して、逃げ切るという手法が勝ち筋として確定されているきらいがあるので、ファイナルステージでかけられる最後の3本のネタが弱く、番組の構成としても尻すぼみの印象を与える。

 大会を見終わって、快活CLUBの個室から出て、イートコーナーでソフトクリームを食べて糖分を補給し、レジに行きお金を払い、家に帰ってから眠るまで、コントってもっと豊潤で然るべきじゃないのかというしこりを感じていた。全員が同じ土俵で闘っているようで、元々の「R-1グランプリ」とは異なる「実質的な異種格闘技戦」感が薄れていっている。異種格闘技戦という借りてきた例えを使わないのであれば、M-1憲法で争っていて、キングオブコント民法行政法などといった法律で争っていると思っているが、その感じがなくなり、同じ尺度に収まりつつあるような気がして悲しくなる。

 これは、審査基準が明らかに硬直していることからくるものだと思うし、何より、まだ、客席に女性しか配置しないそのダサさがあまりにノイズすぎる。

 観客に若い女性しかいないということを批判することは、実は難しい。女性であれば、やっかみであるなどと言われかねないし、男性が言えば考えすぎだろと言われてしまう。

 チェックするAV監督はさもありと真咲南朋、昨年のベストは美園和花の7時間ファンと一緒にしたらのやつだったバキバキのヘテロ男性、いわゆるバキヘテだが、女性が若いというだけで陳列されているあの絵面には、おぞましさしか感じない。ただ、チンパンジーに「文七元結」を、上方のチンパンジーには「地獄百景亡者の戯」を教えるかの如く、感情ではなく、考えられうる実害を挙げて検証していきたいと思う。今年の感想は正直、ここからが本文です。申し訳ない。

 まず、男性が決勝を観覧することができない。もう、これだけで、あの構図を批判する理由になる。もちろん、男性差別ではない。なぜなら、男性が女性を差別している結果として、一部の男性が排除されているというものであるからだ。

 観客席にいる若い女性たちのうち、誰一人キングオブコントの予選に行っていないという仮定に立ち、話を進めていく。これが偏見で、一人でも予選を見てる人がいたらすいません。ただ、西村が緊張しすぎて関係ない台本読んでたっていう小峠のジャブで拍手笑いする人たちの笑い声なんて信用できるわけがない。

 彼女たちは、おそらくお笑いは好きだろう。飲み会の席で、もじもじしながら、趣味はお笑いを見ることでと言ったりすると、屈託のない笑顔で、私もお笑い好きですよ、と言ってきて、ドキドキしてしまうに違いない。ただ、彼女たちの「お笑い、好きですよ」は、こっちのそれとは全くの別物だ。そのくらい、「お笑いが好き」ということが人口に膾炙しているということなのだが、その分、好きの深度が幅広くなっている。きっと彼女たちのいう、「お笑いが好き」というのは、テレビやスマホでお笑いを見る程度なのだろう。 

 『M-1グランプリ』の審査で信頼できるところは、ネタを見た後に、審査員が「分からない笑い」であった旨のことをコメントするところだ。自分には笑えなかったが、観客が笑っているということは、新しい感覚の笑いなのだろうと、ある意味で負けを認める言葉ではあるものの、それでもなお、そう発さざるを得ないのは、芸人としては「ウケたもん勝ち」を認めざるを得ないという大前提に立脚しているからである。乱暴に言えば、自らの審査の軸に足りないところがあるということに気付かされるきっかけとなる。これは舞台に立ち続ける芸人にとって、プラスでしかない。

 また、観客には観客の矜持があり、それはなまなかのネタでは笑わない、もっと言えば、審査員に対して、ライブシーンこそが正解だよという態度に表れる。

 そういった演者の芸、審査員の基準、観客の基準が、バランスの良い三角形となり、それぞれが自らを修正し合う。この三すくみの状態が、伝統も、革新も、大衆も取りこぼさない健全な進化を生み出していると思われる。それらの摩擦が、膨大な熱量となる。

 この補完し合う関係性が、少なくとも、今のキングオブコントにはないと思う。 

 有名なプロデューサーが「女性の声がテレビの周波数に合う」という旨の発言をしいたというのを見かけたが、ではなぜ、演者では男性の方が笑っているのか。そんなものは、女性を、陳列としか言いようがない扱いに持っていくための言い訳でしかない。とかく人間も組織も変わりたくないものであり、変わらないためには理由をいくらでもあげられるものなので、そこら辺のもっともらしい言説は、一視聴者として全て一蹴していいと思っている。FUJIWARAの藤本が当て逃げをしたあとに、放送する努力はいくらでもするんだから。

 もう一つは、審査員に女性がいない件について、「女性のコント師がいない」「納得する女性芸人がいない」などの意見が多く見られたが、これも言い訳だろう。

 とにかく、お笑いファンは狭量なところや辺野古の地盤くらい軟弱なところがあり、今でこそ、かもめんたるを持て囃しているが、劇団かもめんたるへの注目度はずっと低く、それはただ劇団とつくからだと睨んでいるくらいには、お笑い以外に興味がないし、そこが、東京03飯塚審査員待望論に隠れているグロテスクな部分につながっていくことは過去に指摘してはいたけれど、女性コント師に適任がいなくても、他のカルチャーの人たちにお願いすれば良い。具体的には、大久明子、本谷有希子、根元宗子、太田光代社長などを挙げたい。児島希奈は意図的に除外してますよ。

 演劇、映画と芝居仕事に繋がりそうだし、お笑い芸人が映画やドラマに出て、はしゃぐなら、審査員としてお笑い芸人以外の女性審査員を受け入れるべきだ。

 いろいろな反論が出てくるかと思うが、まずは、それが、女性を登用しないための理由になっていないか、自己精査はしてほしい。

 審査の硬直の話に戻るが、もはや、お笑い村の外の女性審査員が、その人の分野で笑いで審査が乱数として場をかき乱さない限り、今の審査基準は、変わらないと思う。

 そもそも「コントの怪物になれ」というのは、映画『怪物』にかけているものだと思うが、あの映画は、といった作品に与えられるクィア・パルム賞を受賞しており、単一の凝り固まった価値観を揺さぶってくる作品であり、ただただワードだけを持ってくるのは、結婚式で、宇多田ヒカルの『花束を君へ』を流した同僚みたいな、浅薄の極みであり、滑稽さを感じずにはいられない。

 お笑いファンが三村、日村不要論をぐちぐちと唱えていたことは記録として残しておきたいが、完全に浜田不要論を明確に意思表示をしておきたい。

 最後に、浜田雅功のセクハラがきついし、審査員に厳しく当たるというずっとやっているやつを面白がっている人はいるのだろうか。シンプルに滑っていると思うのだけれど。

 そこらへんのノイズがある以上は面白くはあるけど、楽しくはないもので、だったら『キングオブコント』の視聴は、『M-1グランプリ』の時のホテルじゃなくて、まだまだ快活CLUBでいいや。

 いや、まだチキンライスでいいやみたいに言うな!

 どうも、ありがとうございましたー。

 ニュートン!りんごが落ちたところでお時間です!(松尾アトム前派出所)

 

 

 

 うーん、M-1グランプリ感想頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、怪物の結末についてですが

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死んだとか言われてますけど、あれ、死ぬと同性愛否定になってしまうから生き残っているものとして、そうなると、あまりに晴れやかな世界になっているのは、中村獅童の息子が安藤サクラの息子に手コキとか手淫を教えたっていう精通イベントを経てますよね。