いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』の「第5夜 宮沢章夫」の雑感

 第5夜は宮沢章夫。宮沢と言えば、NHK風間俊介とやっていた『ニッポン戦後サブカルチャー史』。放送当時、熱心に見ていました。
 余談から入らせてもらうけれど、この章で大江健三郎の『河馬に噛まれる』という小説のタイトルを、宮沢が素晴らしいよね、と話していたが、僕のツイッターのアカウント名は、大江健三郎の小説から拝借しているのだけれど、最近、どうせなら「河馬に噛まれる」にすれば良かったな、などと思っていたので何となく嬉しかった。
 河馬に噛まれるというのは恐らく、大事故なのだけれども、カバから連想される、バカという言葉やあの間の抜けたビジュアルなどが、その重要性をかき消していて、そしてそれが生み出すギャップが面白いのではないかと思われる。「河馬に噛まれる」、大喜利の答えとしても有効そうだ。
 話を本題に戻します。
 始まってすぐに、演劇での笑いとコントの笑いの違いにおいて、盲点というか本質を突くような話題に入る。渋谷ユーロライブで行われている「渋谷コントセンター」という、大体四組ほどのお笑いコンビや劇団が出て、30分ほどの時間を貰って、コントをするというライブがあるのだけれど、そのキュレーションを任されているいとうは「驚いたのは、演劇の人は平気で人数を増やすんですよね。」と話す。対して宮沢は爆笑し、「舞台にはそういったワクがないんだな。何かやりたいことがあって、そのために八人必要だったら集めれば良い。演劇の発想だと、そうなるよね。」と返す。
 想像してほしいが、たしかに、コントやりますって来た人が、八人くらいがぞろぞろと来たらそれだけで面白い。倉本美津留の回に話に出てきた「数が多いと笑う」と同じだ。
 いとうは、あくまで一つの定義になるのだが、「笑いを作る側の事情と何を作るかの問題のどっちを優先するかってことじゃないですか」と話し、「演劇の人たちは、最初の十分間、笑わせなくても平気だもんね」と続ける。
 よく、フリを長めにとると、お笑い芸人は演劇っぽいと評されることがあるという話はケラリーノの回でちらっと言及したけれども、この話でよりなるほど、と思わされた。上手く言語化できないので、考えるべきこと、として保留しておきたいと思うのだけど、『HUNTER×HUNTER』にあった「入口が違うから到達できた」みたいなことだと思う。そしてコントの質を一段あげるための大事な何かがあるような気がする。
 ただ、舞台に出て一秒でも早く笑いをとるということこそが、芸人としての業(カルマ)でもあるような気がする(事実、『M-1グランプリ』で審査員を勤めた博多大吉はツカミの速さも評価軸にしたと話している)ので、必ずしもじっくり立ち上がるコントがすべていいのかというと、もちろんそんなことはない。
 演劇と芸人の笑いを話していたが、徐々に素人の笑いの話へと移っていく。素人の笑い、というよりは、素人を使った笑い。話はもちろん、それを作り上げた萩本欽一の話へとなっていく。

 坂上二郎が面白い人と大衆に認知されるようになって、萩本は次の大ボケとして、素人を選んだという流れは
 坂上二郎が普通の人から面白い人へと転換してしまったように、今、天才的なツッコミとまで評されている萩本欽一は大ボケになっている。それがよくわかるのが、『電波少年』シリーズの土屋が萩本を撮ったドキュメンタリー映画『We Love Television?』で、これは萩本が30%の視聴率をとるために奮闘するというものなのだけれど、これがものすごくて、ずっとボケていてツッコミがないドキュメンタリーになっていた。是非見てほしい。僕は、松本人志監督作品の『大日本人』は傑作だと思っているのだけれど、萩本欽一は素でこれをやっている。精神と肉体が乖離した人間のペーソスが存分に描かれているこのドキュメンタリーはそういう意味で一件の価値があると思う。そこにビンビンに勃起出来る人間は、最後に爆笑できると思う。
 当時のコント55号萩本欽一と、坂上二郎のコンビ。今気付いたけど、555になっていますね。)の新しさとして、これはよく言われていることでもあるけれど、宮沢はこう説明する。「それまでの笑いは普通の人がボケの失敗を指摘して笑う。つまり大家と与太郎の構造。コント55号は違ったよね。二郎さんはいたって普通の人物として登場する。そおに得体のしれない世界からやってきた萩本欽一が登場する。」と、つまりは、普通の人を追い込むというものすごく陰湿な笑いで、それはとても新しかったのだという。そして、その陰湿さが、ほぼそのままの形で大衆に受けていくというのは、大衆の本質を穿つような話である。いじめはいけないといっても、人はいじめるものなのだ。だからこそ、よく言われるのは、いじめをなくそう、ではなく、いじめはあるものとした対策をしなければならないといわれるのだけれど、それは別の話なので、置いておくとして、爆笑問題が初期にコントをやっていたのは有名だが、そのネタの「進路指導」と「不動産」は、それをさらに陰湿にしたもので、強い影響下にあるということが想定できる。
 ただ、その萩本にいちゃもんをつけられる坂上という構図が、人気絶頂のころに崩れたという。それは二郎自体が面白いと思われはじめたことに起因する。そこで、萩本は素人いじりに向かっていったというこういう流れがあったわけだ。で、様々なカウンター要素を含みつつも、その素人いじりは「ひょうきん族」を経て「とんねるずのみなさんのおかげです」の内輪ネタに帰結するような気がしないでもない。そして、この内輪ネタ的なSNSで撮影現場の動画をアップしたり、共演者同士で楽しんでお笑いをやっていますというある種のクラスの一軍の学芸会的なノリが、福田雄一監督作品なんじゃないかと睨んでいます。この見立て、盗んだら殺します。見立てら理紗。
 宮沢は「天才的なツッコミとしての萩本欽一を前提としないまま素人を使うことで作り手が満足する。笑いの本質が分かってないんだよね。」と言っている。この笑いの本質が分かっていない作り手というのは、現代でもいる。例えば、サンドウィッチマン冨澤のフレーズに「ちょっと何言ってるか分かんない」というのがあるが、あれは、何を言っているか分かるはずなのにそういうから面白いのだが、よく見るのは、本当にちょっと何を言っているのか分からないときに、それをいう人やCMがあるということだ。これこそ、そのおもしろの構造を理解していない人が作っているからこういうことになる。伊集院光もそんな話をしていたが、「ゼロカロリー理論」は詭弁だから面白いのであって、詭弁を言わせずに「カロリーはゼロ」というオチだけを持ってきているものを見ると、何も分かってねえんだな、と思う。
 少しずれるが、この素人と天才的なツッコミという構図は、現代でも使えると思う。もちろんそのままではないが、というか、そう解体することが出来る人気番組が多い。
最近は素人を出すテレビも多く受けているが、例えば、どういった素人をフィーチャーするのかがあるとして、その受け手(ツッコミ)を誰にするかということで番組は決まっていくと思う。例えば、「家着いてっていいですか」だと、どんなヘビーな話でもやんわりと受け流すおぎやはぎの矢作だったり、たとえば「病院ラジオ」のサンドウィッチマンというのは的確だ。どこかこの器用には説得力がある。だからこそ番組が面白い一因となっている気がしないでもない。関係ないが、バナナマンの「youは何しに日本へ」は、日本人を揶揄する言葉のバナナマンがMCをやっているのは皮肉めいていて良い。
 本に戻ります。これから先は、シティーボーイズとかスネークマンショーの話とかをしてますので、あまり雑感は書けないのではしょりますが、やっぱり面白いこと言っています。
 小林信彦の『日本の喜劇人』という本の話がでてきて、宮沢は「小林信彦の青春と挫折の記録である。乾いた笑いを志向していた小林信彦さんが、日本の湿った風土に絶望する話」と語っているところは、本の内容含めて必読です。そして、ツイッターで調べたら、僕は6年前に図書館で借りて読んでいて、その当時の僕は面白がっていました。全く内容覚えていないですが。で、一万円するので買っていなかった模様。その流れで、伊集院光オススメの『怪物が目覚める夜』も読んで面白がっていた。
 最後に、いとうのこの言葉を引用したい。
 いとう「コントで重要な要素の一つは笑える構造が長続きしてくれるってことじゃないですか。『チャンチャン』ですぐ終わらない。だから、さっき言ったみたいないつまでも果実が採れる状態のシチュエーションを考えなきゃいけない。ウェルメイドのコントは、人間の関係性がよくできているから何度でも笑いが産めるけど、宮沢さんの方はナンセンスですもんね」
 この言葉もものすごく示唆的で、ここ最近の「果実が沢山」の例として、これはあくまでマジで根拠のないゴシップの一つとして受け止めてほしいものがあるのですが、先日、復活した『爆笑オンエアバトル』で空気階段が541KBでオンエアとなった。541KBといえば、玉ひとつだけ転がっていないというほぼ満点で、祝祭のような雰囲気のなかで披露された鉄板ネタといえども、なかなか凄い点数で、空気階段が純粋にコント師として面白いということが証明された結果となった。でも、泥目線で見てみると「じゃあ、誰だよ。玉転がさなかったの」となるが、確かめる術ももたないまま、インターネットを散策していると、「空気階段のネタに唯一玉転がさなかったの、カンカラらしいです。」という文字を見つけた。こんなに心躍る言葉はなかなかない。これが、ここ最近、一番果実が取れた木です。
 まず、「真偽は不明だが、本当っぽい」「『誰も傷つけない笑い』の筆頭ぽいのに、めちゃくちゃ厳しい」「祝祭に近いバトルなのに、玉を転がしていない」「カンカラはゴリゴリの本衣装を着て来ていて笑わせに来ているのに、他人をオフエアにしようとしている」「カンカラは空気階段のネタをお茶の間に届けたいと思っていない」「カンカラは、萩本欽一の笑いは勘からって言葉に由来しているけど、鈍感じゃねえか、てか、萩本にもどってる!」と、いろんな角度から果実がとれる。
 こんな感じで、『激レアさんがやってきた』で特集していた、鉄の棒を叩いて叩いて叩きまくってそれでトライアングルを作る激レアさんがいたが、その人が作るトライアングルは音が共鳴しまってとても不思議な音色を生み出していた。そんなように、お笑いも小さな果実が共鳴すると、不思議な爆笑を生み出す。
 ただ、難しいのは、この果実が採れるというのは、単に大喜利に答えを重ねるようなコントでもそれは出来るがそれだと一本調子になってしまうということが多いというところだろう。どうやって、様々な笑いを共鳴させるかが、肝になるのだろう。
 最後の最後に、この本の中で一番、気になったことを紹介して終りたいと思います。
宮沢「これは僕の意見じゃなくて、人から聞いた話として聞いてもらいたいんですが、蛭子(能収)さんの漫画ってマリファナ吸って読むとめちゃめちゃ面白いんだよ。」
めちゃくちゃ気になりますね。オランダ行ってきまーす。