石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

第42回ABCお笑いグランプリでカベポスターが披露した二本目のコントが凄まじかった件について覚書

 設定は、ワールドカップの決勝を見ている男の家に友人が訪ねてくる。男は今日が誕生日で、友人はその誕生日をお祝いしたい様子だが、男は試合が気になるので、対応はおざなりだ。友人は友人でそんなことを気にせず、男を誕生日へのサプライズの手品を続けて、男を驚かせようとする。
 カベポスターの漫才は、友人を演じるのが永見がボケで、男を演じる浜田がツッコミで、基本的には、永見が独特のロジックを延々と展開させて、浜田が何とかついていこうとするという構図がメインだと認識している。
 漫才では、ボケが話しを展開させつづけ、ツッコミとコミュニケーションをとらずにネタを終えるというつくりのネタはままある。カベポスターの漫才では、永見の目線は観客に向けられ続け、浜田の目線は永見に向けられ続ける。目線がクロスすることなく、垂直であり続ける。今回のコントで衝撃を受けたところは、視線が垂直のままキープされ、基本的にはクロスしないまま終わるところだ。全く関係のないボケの傍観者としてツッコミ続けるのはあるが、このコントはそれらとは何か一線を画している。
 それは、きっと、この二人の関係性があるからだろう。友人同士なのに、視線がクロスしないということがこのコントの凄さを際立たせているのかもしれない。
 明確に仲が良い友人であるということは、ワールドカップの決勝の日に家に来ることを許可している、誕生日のプレゼントを用意するコントの設定で掴める。コントの前日に「明日お前の家に行っていい?」「来ても良いけど、ワールドカップ見るから、かまえないぞ」というやり取りがあったことが容易に想像できるわけだ。
 また、ワールドカップと友人の手品という対比もまた絶妙だ。友人が来ても視線がテレビにくぎ付けになるということに違和感がなく、全くの観客から当事者になってしまうというその悲劇の舞台としても突飛過ぎないし、コントを見ている人間も男に起きていることの壮大さを想像しやすい。その対極にある、友人からの誕生日プレゼントとしての手品というのも、絶妙に聞き流す、興味が無いものとしてリアルで最適解だ。
 手品の規模の大きくなり具合も気持ち良かった。

 一回しか見ていないので、間違えているところあるかもしれませんが、覚書として記録しなければいけないコントだと思いました。

新型コロナ 第一部 完

 住んでいる県の新型コロナの感染者数は増える一方だが、実のところを言うと、慣れてしまったという面も多分にあるかもしれないが、数字だけが上滑りして、あまり実感が無い。というのも、周りではもう長いこと陽性はおろか濃厚接触者判定すらも出ていないからで、みんなちゃんと気をつけているんだなーとぼんやりと思っている。
 先日ワクチンを接種し、一定の期間が経過した。
 ワクチンを接種することに対しての恐怖はもちろんあった。ワクチンに対して知識がないため判断が出来ないということもあるが、もし仮に、ワクチンの接種が原因で死んでしまった場合、現政権が因果関係を認めることはしないだろうという恐怖は思った以上に、ざらついていて、かつ大きくそびえたっていた。
 副反応はそれなりに出たものの、今のところ問題なく生活をしている。
 極私的な新型コロナの第一部完ということで良いのだろうか。
 許されるのであれば、空気階段の単独ライブが中止になったときから始まり、三遊亭圓楽伊集院光二人会を見に行って、ワクチンを打って、一定の期間を経過した今日を持って完結です。
 前首相がただ乗りし、踏みにじり、翻弄してきた文化をすすって潜んで来たが、まだまだそれは続きそうで、いよいよ「生きてまた会おう」が切実な祈りになっている。ラジオと本が無ければ気が狂っていただろう。ここ最近の『100分de名著』と、馬鹿力への投稿がどれだけ心の拠り所になっているか。
 こんな記事を書いても怒られるだけだが、あくまで個人の記録として留めておく。弱さゆえに連帯しようとしてしまうが、そうしてしまうと、考えることを放棄してしまいそうだからだ。
 同人誌3冊目は『まん延元年のギャグボール』というタイトルに決めました。

正しく擁護するための試論。 

 以前、ブログにて、妻を論破したというくだりを書いたら、たまたまその記事自体が普段より多くに人に読まれたこともあって、軽く批判を受けた。その前後を読めば、その後の展開に行く前に、そもそもどうなのというツッコミを潰すための、いわゆる一つのフリとして書いていたのであり、一般的な読解力をもってすれば、それが分かるはずだと思ったから、あえてバカにしている言葉及び風潮である「論破」という言葉を用いた。
 記事の全体を読まず、なぜそのくだりが敢えて配置されているのかも考えず、「妻を論破した」という文字列のみに反応したのだと思う。そのこと自体は、僕の迂闊さと、もともとブログを更新した直後に読んでくれる人への信頼という名の共犯関係への甘えが引き起こしたミスだ。
 先日、爆笑問題太田光が炎上した。ことの発端は省略するが、ひどいことをした人間を少しでも庇うようなことを言って、彼はあんなひどいことをした人を擁護したと、太田は非難を受けた。もはや同罪であるといわんばかりの反応だ。
 そもそも太田が言ったことは擁護なのだろうか。
 というか、太田はSNSの類をしていないので炎上ではない。ネット野焼きが多発したというのが正しい。
 よしんば、擁護だとして、それの何が悪いのだろうか。
 少しだけ足を止めてみよう、整理しようと主張することは擁護なのだろうか。
 どうしても厳密には擁護だとは思えないのだが、他の人には擁護に見えたのだろう。仮に擁護だとして、庇い守るという擁護の意味を行うことが悪いとは絶対に思えない。
 擁護をするという行為を持ってして、非難が出来る人たちは、おそらくだが、「彼は文化的に素晴らしい才能を持っている」「昔の話だ」などという雑な主張と同じカテゴリーに、太田の言葉を入れているのではないか。これらは目を逸らさせようとしたり、無罪にしようとしたりするものであって、スタートが異なる全くの別物だ。太田の言葉をきちんと聞くと、無罪にしようという意図は感じられない。少なからず、太田の言動を20年以上追ってきたので、補完が出来てしまうということもあるにはあるのだが。
 そして、別の話だが、僕のブログの記事を読んだ人が、とある番組のとある最悪な企画を擁護した記事を見て、最悪だと言っていた。
 厳密には、あの記事は擁護ではなく、笑いの構造の話をしていたのであり、そんな単純な図式で笑わないよ舐めないでくれという主張であったが、どうやら、その人にとって、最悪な企画を擁護する最悪な人間になってしまったようだ。
 僕はこれらの事柄は、同じ枠内に収まる類のものだと思う。
 言葉は、あくまで行為の器でしかない。しかし、安易に言葉を使用する人ほど、大きな器のため、あらゆる行為を同じ器に入れてしまう。言葉に向き合っている人は、その反対に、器は小さくなる。言葉の定義がより厳密になっていくわけだ。
 言葉を聞いて、どの器に入れるか、それを持って敵か味方か判断するのではなく、まずは、何故そう言うことをいっているのかということを考えることこそが、擁護を始め、あらゆるネットミームとして奪われた言葉を取り戻す方法でしかない。

  そう思っちゃったんだからしょうがない。

「三遊亭圓楽・伊集院光 二人会(夜の部) ゲスト 爆笑問題」感想

 さて、何から話せば良いだろうか。高校浪人という名の穀潰しをしていた2000年に『爆笑問題カーボーイ』を聞き始めた。ある回で「今週の宝船」という、爆笑問題の二人が、与えられたテーマでトークをし、最後にキーワードを決めるというコーナーで、伊集院光がそのお題となったことがあった。その時に、太田は、伊集院の引き出しの多さを語り、そこからキーワードは「薬局にある棚」になったと記憶している。伊集院光の存在こそ知ってはいたものの、ラジオが面白いという情報は持っていなかったので、それがきっかけで『深夜の馬鹿力』を聞き始めたと思う。恐らくその少し後に、伊集院光が「オールスター感謝祭」で太田光デヴィ夫人のゼッケンをつけて走ってて最高だったというトークをしたと思う。そこらへんは、友人から音源を録音したMDを借りて見ないと分からないが、まだまだこの時は、伊集院光爆笑問題には、それなりの距離があったはずだ。「だめにんげんだもの」が全盛のころで、最初はコーナーのほうが楽しみで、徐々に一人喋りの魅力に気付いていった。「JUNK枠」というブランドが確立する前の話だ。
 それから高校生となり、どっぷりと伊集院光爆笑問題に浸かることになる。多感な時期だ。単純な笑いだけでは無く、落語や小説、映画などの文化だけでなく、世事への見方、茶化し方や、本を読むという習慣が根付いたことなど、この二つの番組から様々なことを教わった。了見の二輪になっている。どちらかが欠けていたら、今この文章を書いている自分は存在しない。もっと上手く自分に向き合って生きて、ライターとかになっている自分は、もっと読みやすくて面白い文章を書いていただろう。
 大学生活が始まり地元を離れるという時に父親から貰った、古今亭志ん生の落語のCDもすんなり入ることが出来たのも、二つの番組で落語に興味を持っていたからだろう。その少し後に、『タイガー&ドラゴン』が始まるという絶妙なタイミングだったのもラッキーだった。どこに載ったのかも分からないが、大学卒業時に、「へっつい幽霊」から見る人間のダメさみたいな小文を買いて提出したのも覚えている。どうにかして今読むことが出来たとしても、ほとんど伊集院光爆笑問題による落語論の流用でしかないが、書きあげた時は、自分はこんな文章を書けるのかと嬉しくなった。それから折に触れて落語を聞いてはいるので、立川談志古今亭志ん生三遊亭圓生などの名人だけでなく、若手の落語家にも好きな人はいるくらいには嗜んでいる。落語を知っているからこそ、サンキュータツオに興味を持って『東京ポッド許可局』を聞くようになったし、神田松之丞改メ六代目・神田伯山への導線はバッチリだったし、全く知らないよりは漫才を始めとしたネタへの理解度も深くはなっているはずと信じたい。
 「三遊亭圓楽伊集院光 二人会」に爆笑問題がゲストとして出演するということそのものが、自分にとっては奇跡のようなものであり、全てが揃った空間だった。ここから始まったことに支えられながら生活し、日銭を稼いで、コスパ悪く生きている。
 チケットを取ってからライブ当日までの約一か月は、生きた心地がしない日々だったが、生きている実感を持てる期間でもあった。まさに電柱理論だ。ライブの前の日には、どんな結果でも受け入れられるような境地になっていた。『深夜の馬鹿力』で、伊集院光が、演者は演者に徹するだけと言っていたが、観客は開演を待つだけである。ただただ楽しむだけだ。全てはオリバーカーンそっくりの落語神次第だ。
 とはいえ、グッズを買うために並んでいるとさすがにまた緊張し始める。つまらなかったらどうしよう、分からなかったらどうしようという負の感情が胸の奥で煮立ってくるのが分かる。  
 そんな瞬間、ふとロビーに飾られている花を見てみると、都立足立新田高校3年7組卒業生一同から届いた花を見つけた。その文字列が目に入った瞬間、ぶわっと込み上げるものがあり、泣きそうになって、しばらく涙を堪えるのに必死だった。30年という時間の重みが一気に脳内に流れ込んでくる。家にある自分が写っている全ての写真をヤギに食べさせていた暗黒の時代だとトークしている高校時代の同級生たちからの花だ。彼ら彼女らは同級生である伊集院光のことを人生の合間で気にかけ、テレビで活躍する同級生のことを誇りに思っていたのだろうかと勝手に考えてしまうと震えるものがあった。
 よくよく考えると伊集院は中退しているという事実も少しおもしろい。このままだと泣き崩れてしまうと思い、隣のブッチャーブラザーズぶっちゃあからの花を見て、「腕折れてもうたやないか」のエピソードを必死で思い出して涙を堪えていた。
 ここで泣きそうになって感情が振り切ったのが良かったのかもしれない。緞帳が上がりきるまでには冷静になることが出来た。
 夜の部は、三遊亭圓楽伊集院光のフリートークから始まった。 拍手を受けながら登場してきた、圓楽と伊集院。初めて見た伊集院光は、二階の奥の方の席から見ても大きい。
伊集院は出てくるなり、昼間大変なことが起こりまして、と話し始め、圓楽が今日が良かったら、秋ごろに第二回をやろうと言い出していると続ける。それに観客は色めきだち拍手を送る。圓楽は『深夜の馬鹿力』がネットしているから、福岡でも札幌でも出来ると言い出し、そんな圓楽に伊集院は、「こんな言い方なんだけど、あんた元気すぎ!」とツッコむ。
 和やかにフリートークが終わり、続いて出てきたのは、三遊亭落大。伊集院光が落語家時代に名乗っていた楽大を現在名乗っている、二代目だ。確かに、体格は昔の伊集院を思わせなくもない。
 落大は師匠である三遊亭圓楽に名前をつけてもらうことになって、三遊亭楽大は出世名だからと言われて貰ったので喜んでみたものの、冷静に考えたら、落語家辞めた後に出世していたという伊集院光にまつわるマクラをしてから、牛ほめに入っていく。
 続く圓楽は、「出たり入ったり」。全く知らない落語だったので、何だこれ!と思いながら前のめりになって聞いていた。その時は、めちゃくちゃ理屈っぽい落語だなぁと、圓楽の新作かと思っていたら、『深夜の馬鹿力』で話して、もともとある噺であり、さらに調べて驚いたのだが、桂枝雀創作落語だという。
 一回聞いただけでは、振り落とされてしまうほどにぐわんぐわん揺さぶられるこの噺は、そのことを知ったうえでもう一度聞いてみたくなった。
 中入りが終り、飛び出してきた爆笑問題は、もちろんワクチンの接種開始、党首討論星野源新垣結衣の結婚から、カトパンの結婚など硬軟織り交ぜた時事ネタ漫才だ。もちろん面白かったけれど、良かったのは圓楽と伊集院をいじりまくった冒頭だった。特に、圓楽が不倫を謎かけ一つで許されたことに対して、「あんなんで許していいんですか」と客席に向かって怒鳴るくだりは、まさに寄席演芸のシャレの世界で最高だった。
 コロナ禍においても、タイタンシネマライブだけは行けていたので、爆笑問題の漫才を見てきてはいたが、やっぱり、生はちょっと別格だった。この落語会に来る観客だけあって笑いどころの感はばっちりで、太田がボケ、田中がツッコむたびに、どっと笑いが起きる。その波が何度も何度も自分の体に収斂していくこの感じも一年三か月ぶりだったので、じんわりとしてしまう。人生において一年や二年は短いが、楽しみを奪われるのには長すぎて、観客が笑いに来ているという当たり前の事実すら遠ざけられてしまっていた。席が満席だったら、うねっていてもおかしくなかっただろう。残念なのは圓楽、伊集院らとのクロストークが無かったことだが、それはタイタンライブに取っておいておこう。そのくらいの期待なら、してもバチは当たらない。
 トリを勤める伊集院の演目は「死神」。
 たっぷりと1時間はやっていただろうか。素晴らしかったです。
 マクラは、落語をするにあたって30年前には無かったスマホで落語に出てくる一両が現代の価値でいくらなのかを調べてみた話から、走馬灯や死ぬ間際に見るお花畑の映像は、今は脳科学で少しずつその仕組みが解き明かされているという話をして、生き死にまつわる噺として「死神」に入っていく。
 「死神」に入ってしばらくは、普段のラジオと比べるとやや丁寧な喋りであったが、男が死神に会ったあたりからギアが上がり始める。
 「死神」は男が死神と出会ったことから、寝込んでいる病人の側には死神がいる、その時、死神が枕元にいたら病人は助からずに死んでしまうが、足元にいた場合、呪文を唱えると死神はいなくなって病人は助かるということを教わる。男は医者となって、病人のところに行っては、足元にいたら呪文を唱えて、病人を助け、お金を稼いでいく。ある日、江戸一のお金持ちから、番頭を助けてくれたら、大金をあげるといわれ、そこに行ってみるが、番頭の枕元には死神の姿。がっかりし、助けられないことを伝えるも、さらに大金を提示され、悩んでいるところに、布団を回転させることで死神の位置を変えるということを思いつき、実行して無事成功する。
 その夜、男の家に最初の死神がやってくる。実は今日追い払った死神は自分で、お前はやってはいけないことをしたと言って、男を洞窟へと連れて行く。そこには、大量の火がついているロウソクがあり、死神が言うにはそれは、江戸中の人の命のロウソクで、今日お前が無理やり病人を助けたことで、その病人とお前の命のロウソクが入れ替わってしまったので、お前は死ぬと。男はどうにか助かる方法はないのか教えて欲しいと懇願すると死神はこの消えそうな火を長いロウソクに無事移すことができたら、お前は助かると教えてくれる。手を振るわせながら、火を移そうとする。男は無事に火を移すことが出来るのか。
 伊集院光の「死神」は、不勉強でただ知らないだけだったら恥ずかしいが、全く見たことのないものだった。
 男が死神に出会うまでの冒頭で、男がお調子者であるが、でも憎めない存在として描いてから、この男に観客の感情を移入させる。特筆すべきは、何故男にだけ死神が見えるのかなどの違和感を、縁をキーワードにして、ロジカルにかつ自然な形で潰す。死神がいなくなる呪文は「テケレッツのパァ」など意味の無いものが多いが伊集院が設定したものは、少し特殊なものだった。実はその特殊なものがフリとなっていて後々、効いてくるという構成の妙や、さらに縁とは何なのかというミステリー要素も入っている。もちろん、合間合間に、リスナーが持つ「伊集院さんっぽさ」も出過ぎていない程度にちょこちょこ挟まれ、ニヤリとしたり笑ったりさせられる。そうして突き進んでいく物語は、アクロバティックかつ伊集院光の根の優しさや「人生の肯定」が現れたラストを迎え、ラジオリスナーならさらに楽しいサゲの一言で着地する。
 それは紛うことなきリビルドされた「死神」だった。落語を知っていれば知っているほど、この噺をこう組み変えて、こう演出し、こういう結末にするということに驚くのではないだろうか。
 伊集院光が30年ぶりにした落語という付加価値を抜きにしても凄い「死神」になっていると思う。途中に出てくる与太郎めいたバカ丸出しの小僧もめちゃくちゃ上手くて面白かった。これだけで見たい、やってほしい話がいくつも出てくる。
 この「死神」の良さが分かるだけじゃなく、自分も年齢を重ね、この場にいていいほどにはそれなりに生活を頑張ってきたと言えなくもないことも嬉しかった。ライブを見た後は、急激に陰のゾーンに入ってしまったりするが、その日はずっと何とも形容しがたい気持ちだった。人生でこんなご褒美があっていいよなと素直に思えた。
リスナーとなって20年、漫然とラジオを聴いていただけの日々ではないと少しだけ胸を張っても良いのかもしれない。そうも思えた。
 何より嬉しかったのは、自分がこのチケットを取ったことを、自分のことのように嬉しいと喜んでくれた人たちが少なからずいたことだった。少しだけ運が良かったというわずかな違いだけで見られた今日のこの日のことを忘れないで、何か間違いそうになった時に思い出そうと心に決めた。

最悪な遠征

 『三遊亭圓楽伊集院光 二人会』の夜の部を見てきました。
 二人会が開かれることが決定してからの『深夜の馬鹿力』では、流しの着物屋に着物を仕立ててもらう話から落語の練習をしている話までといった二人会にまつわるトークに加えて落語家時代の思い出話をする時間が増えていき、それらを聞けているだけでも幸せだった。
 伊集院が圓楽への思いや落語について話すのを聞いている間、リスナーは少なからず伊集院と自分、自分とラジオと、その関係性を投影させていたことだろう。だから幸せだったのだ。その幸せは「フワ事変」の回でピークに達する。
 チケットの発売日が決まると、取れても取れなくても仕事になんないだろうということで休みを取った。新型コロナの影響の中で、会自体が開かれるのかも分からないし、そもそも行けるのかも不明な中ではあったが、取れたら腹括って行けるように頑張ろうという気持ちでチャレンジすることにした。
 その日はいつも通り起床、子供の世話をして、9時40分ごろからパソコンを起動して、販売サイトにログインし待機する。しばらくしてふと、コンビニの端末に行けば、スマホと一緒に操作できるなと思いたち、ローソンへと出かけることにした。ローソンに着き、チケットを呼びだすための番号をローソンの端末に入力するも、見つかりません、の文字。不思議に思ったけれど、あ、そうかセブンイレブン専用の端末の番号かと気づき、慌ててセブンイレブンへと向かう。セブンイレブンに販売開始時刻の10分前に到達、端末の前に陣取り、番号を入力して、正しいかを確認し、待機をしていた。
 すると9時57分頃に、端末の機能の一つであるコピー機を使いたいという老人が近寄ってきたので、丁重に断ったが、老人が、使っていないんだったら少しだけ先に使わせても良いだろ的なことをグチグチと言い始めてごね始めるというクソイベントが発生してしまった。改めて丁重な断りを装ったトゲのある口調で追い払い、無事、販売1分前には改めて端末に向き合うことが出来た。この老人が手にしていたのは、蝶々の写真とその横に何かが殴り書きされた紙をコピーしようとしていて、一分一秒を争うものじゃねえだろと言いかけたが、飛沫感染を避けるために大声は出さなかった。SDGsについてのウィキペディアを読んで、価値観をアップデートしておいてよかった。
 10時になるや否や、操作に取りかかる。チケット取りも久々だし、焦りもあって指先が覚束ないなか、操作を続けていき、購入の最後の手続きまで、到達する。取れた!のか?心臓の鼓動は早いままで現実感もない。そんな浮遊した気持ちのまま、レジで支払いをして、発券をしてもらってもまだ実感が湧かない。帰宅し、子供の手が届かない本棚の高いところにチケットを置いて、一息ついてから、やっと、チケットが取れたんだと嬉しくなってきて、熱いコーヒーを飲んでから、飛行機のチケットを予約した。行けることになってしまったのだ。
 帰宅して調べたら普通にローソンにはローソンの番号もあって、よく仕事で起こすタイプのミスをこんな大事な時にもしてしまった自分に少しだけげんなりしてしまったけれども、もしかしたらローソンだと取れなかったと思うと良しとした。コンビニに行こうという閃きと、ミスによるラッキーでのゲットというのが何とも自分らしい。
 そして迎えた当日、ライブの開場時間の少し前に東京に着き、翌日に帰るというコロナ禍でなければ考えられないスケジュールの遠征。遠征という観点からいうと最悪だった。
 人はパンのみにて生くるものに非ず。遠征はライブのみにて行くものに非ず。たまの東京のために、SNSで美味しそうなお店を見つけたらメモをする癖がいつからか付いているが、行けていないお店がどんどん溜まっていっている。ただでさえ、一度行ってリピートしたいお店も大量にあるというのに、今回の遠征で食べたのは、チェーン店のテイクアウトと、コンビニの弁当。
 赤坂の「かおたん」から始まり、新宿のりんご飴専門店「ポンパドール」、友人と新宿の「四文屋」で飲みながら、見てきたばかりのライブの話とSNSでは話さないような芸人の悪口を言いたい。赤坂のレモンサワー専門店「瀬戸内レモンサワー専門店 go-go」、東京駅の「メルヘン」、新宿の「いわもとQ」、高円寺の「まら」、祐天寺の「ばん」、三軒茶屋のかき氷「バンパク」、少し遠出して、埼玉県の「正直もん」からの所沢航空公園で「エミール」のシュークリームを頬張る。下北沢のエビ専門店「シモキタシュリンプ」、神保町の「ボンディ」と「さぼうる」。「TSUBASA COFFEE」「飴のち珈琲、ところにより果実」というめちゃくちゃ美味しそうなパフェを食べたいし、新宿の「焼きあご塩らー麺 たかはし」にもまた行きたい。下北沢の「Rojiura Curry SAMURAI」のスープカレーを食べて腹パンパンになりたいし、阿佐ヶ谷の「シンチェリータ」で最高に美味いアイスクリームも食べたい。猿田彦珈琲店でコーヒーを飲んで一息ついて格好付けたいし、ルノアールナポリタンを食べながら、ブログの下書きをダラダラとしたい。下北沢の古着屋の「ニューヨーク」に行って、アロハシャツとか探して、そこから下北沢の眠亭で、ご飯が炊かれ 麺が茹でられる永遠を感じたい。ビールが苦手と思っていたけれど、麦で作られた麺が好きでコーヒー飲むくらい苦味が好きなんだからビール絶対好きじゃないとおかしいだろという理論を唱え始めたから新宿のクラフトビールの「BEER BOMB」にも行かないとだし、代々木の「Bistro ひつじや」で、焼きバナナの上にアイスクリームが乗ったデザートも食べたいし、寄席に行ってから上野の「みはし」の白玉クリームあんみつを食べながら、「問わず語りの神田伯山」の駄目なところと良いところを語り合いたい。
 それらが出来ない遠征には何の意味もなく、感染拡大防止対策を徹底したうえで、東京に行っても楽しくなかった。感染拡大防止対策を徹底して旅行に行ってきましたとSNSに載せていても、嘘つけ!路上飲みしてるだろ!と言われるのがいやなので、どういうことをしたのかというと、KF94という高性能とされているマスクの上からさらにマスクをし、医療用のゴーグルをし、お店での食事を避け、ホテルもカプセルホテルを辞め、その都度うがい手洗いを行い、極力何も触らず、手すりなどに触れば持っていったアルコールで消毒、ライブ前にライブ会場の近くの公園で1時間近くぼーっと座って、伊集院光爆笑問題田中裕二のピンチヒッターを務めた「爆笑問題の日曜サンデー」を聞くという、自分で考えられる徹底を遂行しました。これで感染したら已む無しというレベルまで持っていったつもりだ。こんなもの何も楽しくない。良いことと言えば、会場であるよみうりホールから少し歩いたところにある数寄屋橋公園岡本太郎が作った、太陽の塔の赤ちゃんみたいなオブジェを見つけたことくらいと、遠征に役立つはずと思って購入してから半年経過したapplewatchが役に立ったくらいだ。
 公園のベンチに座っていてもすることが無いので、Twitterを眺めていると、グッズはかなり売り切れていたという情報を見かけた。そうか、と思い早めに行くことに。そう決めたところから、耳元から聞こえるラジオの内容が入って来なくなるくらいにはまた胸の鼓動が早くなりだしていた。
 開場20分前。太陽の塔の赤ちゃんに別れを告げ、よみうりホールへと向かうことにした。
 さて、良いところですが、お時間となりました。

 続きはclubhouseでの朗読を予定していますのでそちらでお楽しみください。


 バンバン!!(張扇で豚の背中を叩く音)

『怒り新党』の「臨時党大会」から考える有吉弘行のバランス感覚

 有吉弘行夏目三久が結婚したことも驚きだったが、それよりもその二人が出会ったきっかけである『怒り新党』の「臨時党大会」という名の、一夜限りの復活のほうが衝撃的だった。有吉の芸風的に、二度と共演することはないという思い込みは、軽々と裏切られた。

 『かりそめ天国』でのもう中学生の築地ロケに笑いながら、『怒り新党』のパートを待つ。番組が始まると、懐かしいセットをバックに、有吉と夏目が所在なさげに立ってマツコ・デラックスをスタジオに入るのを待っているという画には、やはり興奮してしまった。

 三人が揃い、マツコが芸能リポーターばりに二人のことを聞いている中で、夏目の今後の進退の話になると、二人で相談した結果、夏目が全ての仕事を辞めるといことが発表される。

 そこで有吉は「まあほら、何か、みんなの話を聞くと、離婚の理由ってすれ違いか、価値観の違いじゃない。ダブル違いでしょ。価値観のほうは、まあ、無理だとしても、すれ違いだけ潰しとくかみたいな。」と二人が出した答えに至ったロジックを説明する。これだけでも名フレーズであるものの、名著『お前はもうすでに死んでいる』で感じられた、リアリストの徹底したリスクヘッジでしかないが、もう一つのやり取りがあったことで、今回の放送がさらに意義のあるものたらしめた。 

 それは視聴者からの、昨年から凝った料理を自炊をしたり、椎茸やサボテンを育てるようになったのは、夏目の影響だったのかと思ったという内容の手紙が読まれると、有吉は「これはちょっと僕の名誉のために言わしてほしいんですけど、まったくそういう影響は無いです。僕個人の、僕個人の成長です。」ときっぱりと明言する。その後に、マツコに圧をかけられる形で、「結婚の影響です」と半ば言わされてはいたものの、やはり、ギラギラした芸人が自分のことを気遣った行動の数々は、自分自身の成長の賜物であると有吉が発言したことには大きい。

 「すれ違いだけ潰しとくか」「僕個人の成長です」というこの二つの言葉が揃うことで、有吉と夏目の選択は、互いを尊重した結果であるということが際立った。

 これを成立させる、有吉のバランス感覚たるや。

 この番組のなかで繊細なポイントは二つ。性的マイノリティに属するマツコがウェディングドレスを着るという演出と、夏目が仕事を辞めるという報告だ。

 いずれも扱いを誤ると大きなミスにつながりそうなセンシティブな題材だが、有吉は、軽やかに処理していた。これは、キツイことを言った後に、笑い顔を見せて、ジョークですよとエクスキューズを見せるというような小手先の技術だけの話ではない。

 有吉がマツコへの結婚報告を直接出来なかった顛末を、笑いを交えてトークすることで、マツコが有吉に攻撃する流れが生まれる。この導線がスムーズに機能したことで、有吉がいじられる側に立てた。この場面で、いじられる側に立つこと決められることも凄い。そして、この角度でいじられるなら、やはり、マツコしかいない。

 今回の「臨時党大会」が無ければ、夏目が半年後に引退した時に受ける印象はまた違ったものではなかったのではないか。そのことを考えると、おしゃクソ事変に匹敵する名勝負だったと思う。この放送に対して議論を仕掛けてくるなら、それなりの覚悟を持ってこいよという凄みもあった。

 そんなことを、打ちっぱなしのコンクリートの壁に向かってブツブツと喋りかけていたら、知人から今週とその発端となった前々週の有吉のラジオ『SUNDAY NIGHT DREAMER』を聞くように勧められ、音源が入ったMDを譲り受けた。まず、2021年4月11日の放送のオープニングで、拘置所から送られたリスナーからの手紙が読まれる。検閲され黒塗りになっていたことをいじりつつ読み上げて笑わせる。

 それから二週間後の2021年4月28日の放送で、先の手紙を送った人から、放送内で読んだことに対するリアクションとして再度手紙が届く。そこには、常識に沿って考えたら、いわゆる他者の合理性のサンプルのような行動が詰まっていて、もう笑うしかなくなってくる内容だった。

 手紙を送った人は、同じラジオを聴いているということだけが唯一の接点だが、それには、ある種の許容を生み出す力がある。しょうがねぇなあ、に持っていく推進力だ。

 有吉は自らが産んだ流れが、メディアに与えられるギャラクシー賞をもらえるんじゃないかと期待し始め、全く関係無い話から刑務所に話を繋げたり、良い話を引き出そうと、アシスタントの二人にカツアゲまがいのことをする。そして、番組のラストで、有吉はこう叫ぶ。

 「私は、あなたたちを許します!」

 黒塗りの手紙から始まった物語がいつのまにか、有吉弘行に回収されるというオチのコントになっていて、きっかけそのものはきっかけでしか無くなっていた。このバランス感覚たるや、である。

 さて、当たり前のように、「バランスが良い」と有吉のことを2回も評した。読んでいる人にも、そのニュアンスは伝わり、確かになあと思ってくれた人もいることだろう。この当たり前に使われる、バランスが良いという言葉について具体的な指標はもちろんない。基本的に、芸人に対して主に使われるが、ただ単にミスをしないだけではあまり使われない。例えば、麒麟の川島であれば、いわゆる、まわしの旨さであったり、その場その場での緩急の付け方など、安心感があるとは言えるだろうが、バランス感覚が良いというのは、ややしっくり来ない。少なくともその芸風も関わってくる。危ないと思わせるギリギリのところまで踏み込むと思われている芸風であることが必須条件である気がしてくる。

 そうして考えてみると、バランス感覚を持っていると思わされる何人かの芸人の言動がいくつか思い浮かんでくる。それを一つ一つ挙げても良いが、バランス感覚を理解できない人達から、遡って袋叩きにあいそうなので、それは辞めておくが、「バランスが良い」人たちは、全員売れっ子ではないだろうか。これはメンタリズムでも何でもなく、きっと現在売れているという事実も重要な要素だからだ。

 売れていることで、視聴者は勝手にその芸人やタレントの言動には多くの制約が設けられると思い込む。ましてや、今の場面は炎上しちゃうんじゃないかと勝手に心配してしまうようなご時世であれば尚更だ。

 バランスが良いとされる人たちは、そこのラインを見極める。社会的なアウトと、点を線で見てくれるファンだからこそ踏み込んでほしいところのキワキワのラインを見極め、あえてそこまで踏み込み、いや、少しだけ飛び超え、疑念を持たれる前に元の位置に戻り、話の方向を変える。この場合は危機に限らず、名誉すらも避けられる。

 言ってみれば、バランス感覚があるというのは幻想でしかない。しかし、視聴者側の勝手な線引きと、演者の嗅覚と場の舵取りという確かな技術に裏打ちされた位置取り。それらが揃って初めて、バランス感覚すげぇなあとなるのではないか。

『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む』感想。

 『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズムジェンダーから読む』を読みました。

 この本の情報を見つけた瞬間、即予約。別に早く読みたいということではなく、読みたくねえ〜と思ったからだ。だからこそ、読まなければならないとも思ったためである。

 テレビについて語るということは、物凄く簡単だ。書き起こしにエモや肯定だけを散りばめるか、この本のように、フェミニズムなどの理論をもって、引っかかった点を議論の俎上にあげる。このいずれかをすれば、それなりに読まれるという現状は少なからずある。ただし、この二つの読者は基本的には交わらない。ここが一番にして最大の問題点だ。

 テレビラジオを楽しんでいる人たちからすれば、前者は読んでいて楽しいが後者は叱られているようで楽しくない。フェミニストから見たら、テレビラジオなどは、まだまだ差別が横行する場所であり、そこが批判されているのを見るのはやはり気持ちが良い。だからそれぞれが自分たちの好きな文章を読んで終わる。あくまで、一般的な印象ではあるものの、概ね間違っていないと思う。

 この本は、西森路代が主となって、清田隆之、松岡宗嗣、武田砂鉄、前川直哉、佐藤結、岩根彰子、鈴木みのりが、主に国内のバラエティやドラマが寄稿している。テレビラジオ好きが、Twitterをやっていても、西森と武田くらいしか知らないのではないか、この二人を知っていても、基本的には、テレビバラエティをチェックするような視線をもっている二人なので、特に男性はあまり良い印象を持っていないのではないかとも推測している。このメンバーに、テレビ等を好意的な視点で描く、てれびのスキマや飲用テレビ、ドラマで言えば青春ゾンビなどが入っていないということは、双方にとっての限界にある本だと深読みすることが出来る。本来であれば、この二人が入り、横断されることで、前進しなければならないはずだ。そしてそれが出来ているのは現状、渋谷知美くらいしかいない。

 もちろん、本の性質上、勉強になりこそすれ、バラエティについては楽しいことは書かれていない。槍玉に挙げられているという嫌な気持ちになる可能性の方が高い。だから、この本自体は読みやすくはあるものの、フェミニズムの勉強の入門ということでこの本を手に取ることはあまりお勧めできない。ある程度、考え方としてのフェミニズムにまつわる本を読んでからのほうが望ましい。この本は、フェミニズム批評を用いてエンタメコンテンツを語っているものなので、まずは、フェミニズムがどういうものなのかということを、それなりに理解し、どういった考えがフェミニズム批評のベースとなっているのかということを踏まえないと、いちゃもんをつけられているとなってしまうからである。批評というのは、見たい読みたいというとこにまで持っていかなければならないし、視点を多角的にさせなければならないと思うが、第七世代を傷つけない笑いという視点で見ようとは思わないだろう。

 読んでて全然楽しくなかったわけだけれども、読んで良かったとも思う。

 西森は、バラエティ番組については、「第七世代が浮き彫りにするテレビの問題点」「テレビ史から見える女性芸人というロールモデルと可能性」「わきまえない女たち 女性芸人とフェミニズムとエンパワーメント」、テレビドラマについては、「フェミニズの視点を取り入れた日本のドラマの変遷 二〇一四年から現在まで」、「坂元裕二宮藤官九郎野木亜紀子 三人の作家とフェミニズム」をこの本で書いている。ちなみに、この本では、西森に限らずエンパワーメントという言葉が頻繁に出てくる。権限委譲という意味とのことだが、もしかしたらフェミニズムの文脈ではもう少し違った意味になるのかもしれない。

 これらの文章の判断は、実際に読んでもらってしてもらうものとして、個人的な印象でいえば、バラエテイの章については、ちょっと自らの結論に必要なところだけを拾っていないかなといった感じなど、色々と思うところはあるが、何より、気になっているのはバラエティについて書いているのに、見て楽しんでいるというのが全く伝わってこないということだ。ここが、どうしても個人的には引っかかってしまう。笑いについて書いているのだから、どこで笑ったかということも加えなければ失礼な気がするが、それもある意味でのトーンポリシングになってしまうのだろうか。そこも含めて、自らの差別意識を顕在化させる意味もあるのだろう。

 ドラマの章は、割合、楽しく読めた。坂元裕二の「問題のあるレストラン」は他の人の文章にも取り上げられていたように、おそらく近年のフェミニズム批評的にも、重要な作品であるということが窺えるが、特に、宮藤官九郎の「監獄のお姫さま」が、宮藤官九郎が最近の作品で、女性の叫びを描く契機となっているという旨の指摘などは、あまりこの作品を楽しめなかった者としては膝を打つ指摘であった。

 基本的に、Twitterという文字数が限られた媒体であれば、どうしたって、必要な結論に至るまでの論理や思考が削られてしまうので、殴り合いになってしまうし、印象は悪くなる。ただ、本になることで、西森の考えなどを認識、理解することがそれなりに出来た。全てに同意することは出来ないが、今後、西森の文章を読む素養は出来た気がする。そういう意味でも、バラエティの章も含めて、読んでよかったと思っている。西森のことを好きになることはないが、指摘の必要性ということをより分かった。

 その他にも、岩根彰子の「画面の向こうとこちらをつなぐシスターフッド」は、読み応えがあった。本当にドラマが好きな人であるということが伝わってくるだけでなく、なるほどそういう見方があるのかなと気づきもあった。

 さて、問題は、清田隆之が書いた「人気バラエティー番組でのジェンダーの描かれ方」という文章である。バラエティを語ることは、簡単であるという見本のようなものだった。一見すると、正当な主張のように読めるが、よくよく読むと、疑問点が浮かび上がってくる。

 フェミニズム批評というのは、あくまで批評をフェミニズムの観点からやるものであると認識している。そのため、批評のルールやマナーに則られなければならないものであるが、そういったものが蔑ろになっていたり、意図的かそうで無いか不明だけれども誤読や誤解、自説ありきの切り取りといった、テレビは簡単に批評出来ることの弊害が、清田の「人気バラエティー番組でのジェンダーの描かれ方」という文章は、それらに満ちていて、ちょっとひどいなと思わずにはいられなかった。

 清田は、冒頭から「本書の書名ではないが、筆者自身もほとんどテレビを見ない」と書いているが、その後に、「欠かさず見ている番組は特になく、寝しなにぼんやりバラエティーを眺めるか、SNS(会員制交流サイト)で話題になっているドラマやドキュメンタリー「TVer」「paravi」「Hulu」といった動画配信サービスで後追いするのがもっぱらの視聴スタイルだ。」と続く。

 見てんじゃん。

 その視聴時間は書いていないが少なくとも、ほとんど見ないとは言ってはいけないだろう。テレビで放映されることを前提として作成された番組を、動画配信サービスを通して見た場合、テレビを見たとカウントしないというのは詭弁だ。清田は、テレビの現状にうんざりして見ていないというポジションと、現在のバラエティ番組を批評できる資格を有する程度にはテレビを見ているというポジションの両方を獲得しようとして、こういった矛盾が生じている。このような、意図的な誘導や、誤読が少なくない。リアルタイムで見なくなったが、や、毎週欠かさず見ている番組は無くなったが、で済む話だ。

 ここから、「ロンドンハーツ」「しゃべくり007」「水曜日のダウンタウン」「全力!脱力タイムズ」「月曜から夜更かし」「激レアさんを連れてきた。」を取り上げ、「本章の執筆期間に放送されて回のなかからジェンダー的な視点で違和感を抱いたシーンにフォーカスしながら、そこで描いている構図や提示しているメッセージなどについて考察」していく。

 もう一点、考察として不十分だなと思ったのは、ここで「水曜日のダウンタウン」で取り上げたパートだ。

 「ネタ番組でつけられたキャッチフレーズ、どんなにしんどいものでも渋々受け入れちゃう説」での、3時のヒロインに提案された「男社会に喝!女性差別差別絶対反対!超濃厚フェミニズムトリオ!3時のヒロイン!」「ズバッと鋭く論破論破論破!男社会にタックルだ!令和のトリプル田嶋陽子!3時のひろいん!」の二つだ。

 見た時は、腹を抱えて笑ったが、一緒に見ていた妻は椅子から転げ落ちるくらい笑っていたが、もちろん、そういう指摘はあるだろうなともチラついたことは確かだ。

 清田の主張はこうだ。

 「バラエティー番組のなかでイジられるということは、視聴者にとって「からかっていい対象ですよ」というサインになりかねない。例えば『水曜日のダウンタウン』で3時のヒロインにつけられた「男社会に喝!女性差別差別絶対反対!超濃厚フェミニズムトリオ!3時のヒロイン!」というキャッチフレーズは、明確にフェミニズムをちゃかしている。二つ目の「ズバッと鋭く論破論破論破!男社会にタックルだ!令和のトリプル田嶋陽子3時のヒロイン!」にいたっては、「フェミニズムの直接表現に配慮」という注釈をつけたうえで提示されていた。おちょくるようなコピーを勝手に作っておきながら、「フェミニストに怒られちゃうかも(笑)」と言わんばかりの注釈をつけ、さらに田嶋陽子の名前まで持ち出してイジり倒している、誰がどのような意図でやったことかは説明していないが、フェミニズムを「からかっていいもの」として扱っていることは間違いなく、そこに根深いミソジニー女性嫌悪)を感じざるをえない。」

 清田の指摘は一理あるが、一理しかない。すでに書いたように、少なくとも僕は、このくだりを見て腹を抱えて笑った。少なくとも僕は、この清田が指摘しただけの一つの構造でしかなかったら、鼻で笑うくらいだっただろう。能動的に配信でお笑いライブを買って、ほぼ声を出して笑わないまま見終わって、あーあのネタ良かったなと思うくらい、笑うという行為のネジがバカになってる自分が腹抱えて笑うということは、単純な笑いではないということは自分が一番知っている。

 ここには、3時のヒロインのネタが全くそうではないこと、それなのに、大きなものを背負わされそうになって困惑している様、そして、そういったものを背負わせるだけ背負わせて後々勝手に失望していく人たちなど多くのことを連想させるから、爆笑できるのである。たしかにここを考えた作家の人は、めちゃくちゃ筆は乗ったとは否定できないが、やはり単純なものではない。

 繰り返すが清田の指摘は正しいが、それらを踏まえないとフェアな批評とは言えないんじゃないかなと思う。問題は、そんな端々で危うさが見つかってしまうこの章だが、全体を通して見ると、かなりの説得力を持っているように読める。しかし、フェミニズム批評は、批評全体の内側にあるものだ。だから、批評のルールは誠実さを持って守らなければならない。フェミニズムの視点から論じているから多少の乱暴は許されるということは決してない。

 改めていうが、この本は、フェミニズムに興味がある人だけでなく、マスコミ関係に就職したい人、今も働いている人、フェミニズム批評がただ単にバラエティにいちゃもんをつけているようにしか思えない人などなど、あらゆる人が必読な本だろう。

 この本を読むことで、テレビ等がどういう視点でチェックされている時代なのかを把握するという意味でも重要だ。もちろん、ただ単に、炎上防止のためのチェック項目を知ることが出来るということも出来るが、それでは本当の意味での、差別をなくすということには繋がらないので、ここに出た作品をチェックする等をしなければならないし、他のフェミニズムの本も読むなどをしなければならないということは言っておきたい。

 アップデートアップデートと言われるが、アップデートは1から2になるものではない。1.1や1.03のように刻まれていくものだ。人によってその数字は違うが、そのくらい読んで損はないと思う。いやマジでね。

 以上!(厚切りジェイソン