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『THESECOND2023』感想「来るべき漫才100年時代に向けて」

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 『THE SECOND2023』の当日は、空気階段の単独公演「無修正」と、ダウ90000の第5回演劇公演「また点滅に戻るだけ」を観るために在京していて、番組の放送時間と、帰りのフライトの時間がどんかぶりだった以外は、とてつもなく良い大会でした。

 何より、大会として、『M-1グランプリ』との差別化が出来ていたという事が、第一回から出来ていたということが、とてつもなく大きな意味を持つ。『M-1グランプリ』が、コンビとして15年以上の活動歴を持つことで出場資格を失うのであれば、『THE SECOND』は、それとは異なる基準で、評価されなければならない。例えば、『M-1グランプリ』がその歴史の中で、漫才の競技化を推し進めたという批判を受けるのであれば、競技化していない漫才が、目立たなければならない。その観点から言えば、今大会において導入された観客を審査員とするという制度は、上手く機能していた。そして、その結果、漫才という演芸が持つ自由さが存分に発揮されていたように思える。

 舞台に複数人で立って、中央に38マイクを置く。あとは与えられた時間をどうにかする。それをクリアしただけの闊達な漫才が観られた。それだけで、大会として、大成功だと言っていい。『M-1グランプリ』が抑圧として存在するのであれば、『THE SECOND』は、そこからの解放であり、もはや一つの「自由論」だろう。

 トーナメント制度の導入からも、思わぬ果実も収穫できた。それは、その日、一番つまらなかった人が存在しないということである。『M-1グランプリ』だと、どうしても、その日、その大会での最下位が生じてしまう。決勝の舞台にに立っているだけで、何千というエントリーの中でのトップ中のトップにも関わらず、つまらない漫才師という印象を一部の視聴者に与えてしまう。その数は多くはないが、大抵そういうすり替えをしてしまう人は、大きな声でワケ知り顔でほざき散らすので、害が生じる。トーナメント制度であれば、優勝者以外のファイナリストは、ひと組にしか負けていない。これはとてつもなく大きい。特に、今後も漫才を続ける人たちのとっては、ほぼ、無傷で終わっていた。とにかく最下位がいない大会だったということの美しさに気づいた時、いたく感動してしまった。ただ、流れ星改め流れ星☆の瀧上伸一郎改めTAKIUE改めたきうえが最下位なんじゃないかについては議論の余地がある。

 また、本大会の良かったところの一つに、戦いと戦いの間に、時間的な余裕があったということも挙げたい。審査してからの結果発表までの時間が長く、このことで、審査員は次の戦いをフラットに見ることが出来たのはないだろうか。

 テンポよく戦いが続いた場合、前の試合の漫才が頭に残ってしまい、絶対評価が揺らいでしまう可能性がある。例えば、本来だったら、二組とも3点を付けていた人が、前の戦いの漫才と比べて先攻に2点、後攻に3点を入れるということが、自分の経験から言って考えられる。また、『M-1グランプリ』でいうと、後半に行けば行くほど、観客も審査員も流石に疲れてくるので、理屈っぽい漫才がウケにくいということがあった。理屈っぽいおれでなきゃ見逃しちゃう案件だが、後半に理屈っぽい漫才が出てきたのだが、きちんとウケていたので、もしかしたら、これもリセットの効果なのかもしれない。

 一部は孫引きになってしまうが、『批評理論を学ぶ人のために』という本によると、レヴィ=ストロースは『構造主義再考』において、「「構造」とは、要素と要素間の関係からなる全体であって、この関係は一連の変形過程をつうじて、普遍の特性を保持する」という定義を提示し、それを証明するために、ドイツの画家のアルブレヒト・デューラーの、方眼紙に描かれた人の顔の素描を用いたという。

 デューラーのそれらの素描は、「方眼紙に描かれた人の顔は、目や鼻や耳や口といった「要素」の集合とそれらの相互的な位置の「関係」から、一人ずつ顔としての「全体」を構成」し、それらの「配置を「変形」」することによって、多様な風貌を産み出すものとなっている。

 それでもなお、「解剖学的な「構造」は一貫して保たれている」ことになる。だから、「「構造」は単独の「顔」の内部に見出されるのではなく、多数の「顔」と「顔」の「間に」こそあるのだ」と述べる。

 この文章は、漫才のことを言っているように読むのは、おかしいだろうか。

 誤読、拡大解釈を続けると、言うなれば、『M-1グランプリ』は、既存のカッコいい顔、可愛い顔を革新及び攪拌する大会になっており、対する『THE SECOND』は、老け顔のにらめっことでも言おうか。皮膚のたるみや太々しさ、狡さ、だらしなさといった、人生が滲み出ている顔だらけだった。それも、一人のおじさんとして、年齢を重ねることへの肯定をもらった気がした。 

 構造といえば、ダウ90000の『また点滅に戻るだけ』がとてつもなかった。これまでの公演は、もちろん普通に楽しんでいたが、個人的に、批評の言葉が見つからなかった。それ自体は、全くもって悪いことでもないし、蓮見翔は、まだまだ若く、おじさんとしての圧を消すためにしのごの言わずに、批評性を持った作品がドロップされるのをひっそりと待っていようと思っていた。しかし、今回の公演は、明らかに構造があり、そのことで、笑いとは別の強度も獲得していた。むしろ、もうちょっと待てたよ全然という気持ちになったし、観劇直後の友達から「蓮見、こっわ…」とだけLINEが来たし、誰かと話したくてしたDMを誤爆してしまったりした。それだけでなく、固有名詞の使い方が抜群で、そこから産まれる笑いの精度も上がっているし、メタファーも駆使しているし、メンバーの活用の仕方も絶妙に変えてきて、それが、どういうことかというと、あ、すいません、興奮してきて、感想を書き切るところでした。そっちは、また追って。ハスミン、待っててねー。

 フライトまでの待ち時間、羽田空港Wi-Fiを使って、大江健三郎の『万延元年のフットボール』を読むときの顔で観ていたのは令和ロマンがアップした『世界一「THE SECOND」を愛する”セカおじ”くるまが徹底考察!』という動画だった。この動画は、後ろにうっすらと流れている木漏れ日みたいなBGMとは裏腹に、高比良くるまが早口で捲し立てた解説は、大会に向けた最高の視点の提示になっていた。

 「M-1は4分ですよね。どう違うかと言いますと、M-1の4分というのはぁ、丸々4分のネタが与えられている意味での4分なんですよ。ただこの6という数字。これがねぇ、使い方が色々あるのよねぇ!基本、これよしもとの原則で言いますと、ネタ出番というものがありまして。5分出番と、10分出番というのがあるんですよね。となると、みんな持ってるのは5分のネタか10分のネタなワケですよね。6分というのはプラス1分のいわゆるツカミみたいな時間を入れて良いですよという意図なんですよこれは。それによって、要はただのガチガチの賞レースじゃないですよ。ネタのフォーマットの鎬の削りあいじゃなくって、明るく楽しい寄席みたいな、割とふんわりした出来るような1分間を設けてくれる」

 この、くるまの言葉を踏まえた上で、この大会を観ていて気付いたことは、自分がいかに4分程度のネタ尺に慣れきっていたのか、ということだった。ネタ中、まだ終わらないのか、と不意に思ってしまう瞬間がいくつもあったからであるが、だからこそ、6分というのが搦め手のように油断出来ない設定だということが実感できた。きちんと組み立てないと逃げきれない時間であり、観客が慣れていない時間でもある。

 アンバサダーを務めたダウンタウン松本人志は、番組の冒頭でこの6分という設定についてこう述べていた。

 「M-1でいうとね、まぁまぁ4分ですよ。で、それより2分多い。単純にプラス2って考える人もいると思いますけど、僕、どっちかというと、この4分の中に2分間で、どう遊びを入れていくかっていう6分になってくると思うんです。で要するに、間とかテンポとか、緩急をつけることができるから、2分以上の、なんかこう、素晴らしいものが産まれるんじゃないかなと」

 さて、今回は、このことを踏まえつつ、『M-1グランプリ』への視点からちょっとずらして、その6分をどう使ったかというその構成を中心に考えていきたいと思います。

 

・Aブロック 一回戦 一試合目 金属バット(結成16年)vsマシンガンズ(結成25年)

 

 大会の初戦を彩ったのは、タバコやコンビニで買ったチキンの骨などをノールックでポイ捨てしそうな方と大阪の山奥に冷蔵庫などの白モノ家電を積んではボロボロの軽トラックを走らせて不法投棄していそうな方のコンビと、ゴミ収集車で働いている方と気のいいリサイクルショップの店長みたいな方のコンビ対決。

 「諺を知らん」という小林に、「ようけ意味知ってる」友保が、諺の意味を教えていくネタ。諺の意味を、現代的、金属バットの半径5メートル以内で説明していく。キャラが浸透しているからか、価値あるものでも価値が分からない者に渡しても意味がないという意味の「豚に真珠」「猫に小判」について、「デブやのにニューバランス」「偏見やわそれは。かまへんねんあれは。豚履いてもかまへんねんから」、「グリーン車乗ってるガキ」「口悪いなお前。ガキ見てんねんからやめろや」と、悪いボケと、ツッコミのあとで悪さが漏れてしまうくだりが、きちんとウケる。

 どんな人でもきちんとした格好にしたらそれなりに見えるという意味の「馬子にも衣装」について、小林は「うまくもないくせにさぁ、レアチャーシューとか乗っけてさあ、で、見た目気にしてさ、合うんやったらいいよ。合いもせんのにさぁ、なーんか紫玉ねぎとか乗っけてさぁ。普通に、Tシャツ着たらいいのにさ、コック服着てシェフ帽かぶってる大阪のお前んちの近くのラーメン屋か。」というボケは、「しゃらくさいラーメン屋あるある」と見せかけてからの最後に急カーブで友保の生活圏域の中に入り込む。このことで、テクニカルなボケが、リアリティのあるボケと変質する。さらに、友保の返しでの「あっこようチャリ停めんねん」について、友保は常連客とかではないという可能性が残るという、徹底して友保の悪さも残しているのは上手い。

 この漫才自体は、珍しくはないフォーマットであり、このネタで6分作るのは難しくないと思割れる。同じお題で解き続けて、ウケたところを残していけば良いし、順番をそれなりに変えても融通が効く。ビュッフェと言っても良いだろう。この漫才の弱点は、全体を通して、リズムが平坦な印象に終始してしまう。金属バットみたいなオフビートな漫才だと、よりそう見えてしまう中で、仏シリーズとして布石を置いたり、言い間違いがネタふりになっていたりするなど構成はきちんと練られていたと思うが、ずっとドタドタしているマシンガンズに、音として飲まれてしまった感は否めなかった。ところで、ビュフェといえば、ビュッフェで、お腹に溜まるカレーを食べるのは悪手という風潮がありますけど、一周回って、ホテルのカレーは美味しいに決まっているから、ミニカレーを作って食べるようにしています。

 これまでの金属バットの漫才においての「思想つよっ」は、ものすごくワードとして不適格だった。例えば、共産主義のことをアカということに対して、そう返しているのを見たことあるけれど、その呼称は一般常識の範囲であって、思想の強さは関係ない。金属バットのニンに合っているといえばそれまでなのだけれども、いや、だからこそ、その前の言葉は重視して、本当に思想を強くしなければならない。例えば、同性婚に賛成というフリに対して、思想つよっという返しが、もはや成立しないと言ったら、伝わるだろうか。金属バットが使っているからとかではなく、この言葉がお笑いとして斬新なワードだったのは、もう10年以上前の話で、このワードそのものが、他者の大事にしている部分を自らの暴力性に無自覚な人間が、嘲笑いながら踏み躙るものになっているというニュアンスが付与されてしまっている。

 この問題については、ヒラギノ游ゴさんの『自分のスタンスが定められるほど世の中のことを調べも考えもしてない人の言う「思想強い」、白状でしかない』というツイートが、的確だろう。ヒラギノさんといえば、「自撮りおじさん」の発生と、有害な男らしさと訳されたトキシックマスキュリニティ(Toxic Masculinity)について語ってほしいです。

 そういう意味で、軽々しいノリで使うには、別の文脈からの意味が大きくなりすぎているが、今回はというと、「飛んで火にいる夏の虫」の説明を受けた小林が「ワクチンね」と返したところで、出た。ワクチン接種を拒否するというデリケートな話題からマイクロチップを使って、ICOCAを入れた方がいい、一万円入れたら重くなったなど、小学生的なノリが展開されることで、その危うさを絶妙に回避し、きちんと自分達の漫才らしさを損なわずに笑いにしていた

のは、ものすごく良かった。

 ここ最近の金属バットは、自分達のやりたいことを残しつつ、大衆とのバランスがうまく取れ始めているようで、とても良いですね。

 好きなくだりは、「馬子にも衣装」とその中での「紫玉ねぎあたりから友保が自分の家の近くのラーメン屋のことかと考え始めて、虚空を見る小芝居」と、「飛んで火にいる夏の虫」からの「嘘も方便」、ラストの、カウントダウンしてからの撤退。

 対するはマシンガンズ

 結論から言うと、ファイナリストの中で、一番、寄席の風が吹いている漫才だった。寄席と言っても、吉本の芸人が最近言い出した感がある、吉本興業の常設の劇場でやっているものではなく、落語家がメインの末廣亭などの狭義の寄席。マシンガンズの漫才は、イロモノとしてのそれだった。

 往年のフォーマットはそのままで、脳みそをひっくり返すようなボケもない、初動からドタドタとしたリズムで右上がりに上げていくとかそういうことを全く考えていないような、既知のマシンガンズなんだけれど、ただただ二人で掛け合っている合間合間に、ふっと、昭和のいるこいるのような間での相槌を打って話の流れを進めたり、古今亭志ん生志ん朝立川志の輔の「落語 DEデート」で放送される何十年も前の落語家が言いそうなことを、特に西堀が言っていて、びっくりした。マシンガンズだけ、靴を脱いで漫才していた気がしてきた。

 例えば、開口一番、西堀がテレビに出れて嬉しいと叫んだ後に、「テレビ出たくてやってんだからさあ」や、滝沢の「ひどい仕事みたいのいっぱいやってきたなあ、なんか」に対して、西堀が「まあ、あんま言えないけど地獄みたいな仕事が多いね。」が返してから、追加で言った西堀の「皆さんは良いね、地獄じゃなくてね、うんうん、大変だよねぇ、うん」、滝沢のゴミ清掃員をやっているという自己紹介に対しての西堀の「ね、やってんだよ。拾ってんだよ」。

 全部、言わないでいいというか、全く無の言葉で、おそらく間を埋めるためだけに脳直で発せられている言葉なんですけど、だから良い。この枯れ木の山の賑わいのような言葉が、寄席演芸の肝だと思っているので、良いね良いねとなり姿勢を正した。

 ツカミをたっぷりした後、「ひどい営業」「居酒屋でのバイト」と、自分達がムカついたことをただただ喋っていく漫才。実体験ということなので、ベタに寄ってもゲラゲラ笑って、確かに、マシンガンズの円熟を感じました。

 好きなくだりは、しれっと差し込むToshlのアゴいじり、小声の「ね、やってんだよ。拾ってんだよ」、伸び伸びやる滝沢をたしなめる西堀。

 審査の結果、金属バット269点、マシンガンズは271点と、マシンガンズが金属バットを燃えないゴミに分別し、勝利。金属バットは、1点が2人、マシンガンズは1点が1人という差が勝敗を分けた。

 今後も続くであろう大会の初戦として、新しさや若さ、勢いだけでは勝てない、漫才師として能力が球体に近い方が勝つ可能性が高いという、一個の方向性を示した良い試合だったと思います。

 

・Aブロック一回戦 二試合目 スピードワゴン(結成24年)vs三四郎(結成18年)

 

 スピードワゴンは、「春には春の、夏には夏の恋、季節に合った恋愛をしてこそ一人前の男」ということに気がついた小沢が、バーで出会った女性との一年の恋を描いた「四季折々の恋」。

 小沢がボケを繰り出してどんどん世界観を構築する中で、それに負けじと我を出して悪目立ちしようと、まともなツッコミをあんまりしてない、これぞスピードワゴンの漫才という感じだった。6分を、ワンシチュエーションコメディの舞台として使い切る。漫才と違ってコントは冒頭で外すと取り戻せないとよく言われるが、このネタを賞レースでかけるということは、相当、このネタへの自信と、きちんと舞台に立ってきたという自負がないと、このネタをかけるのは無理だ。

 構成も見事で、恋愛ドラマとしての盛り上がりと、漫才としての一個の理想の形である後半に向かって右肩上がりで盛り上がっていく形が、うまくシンクロしていく。冒頭で、もう少しハメられていたら、更なる相乗効果が生じていたとんだろうなと思うと少し残念ではある。

 好きなくだりは、「女優だから好きになったわけじゃねぇだろ、好きになった女がたまたま女優だった」。

 マシンガンズ浅草東洋館の風をまとっていたなら、三四郎は、まごうことなく、新宿バティオスの風を吹かせていた。賞レースという舞台に寄せていることなく、一回戦の漫才の中で、一番笑いました。

 「二人とも片親です」という哀しきツカミ、10年以上前からツイッターで文字だけ見ていて無茶苦茶やなと笑っていたが、お茶の間に届けられるまでにこんなに時間がかかったのは、ネタ番組製作スタッフの怠慢だろう。

 ネタは「占い」。あって無いようなものの本筋の中で、「新宿カーボーイ」「HEY!たくちゃんの牛すじ煮込み騒動」「三四郎は歯が欠けて売れた」「ダウ90000」「佐久間宣行」など、お笑いにまつわる、固有名詞をガンガン出してくる漫才だけれども、その素材に頼らず、きちんと使い方を捻っているので、必ずしもお笑いファンだけに向けた漫才とはいえない。梅水晶というワードは、東京の安い居酒屋ユーザーにだけ向けられている気がしたが。

 マキタスポーツいうところの、ツッコミ高ボケ低の漫才で、相田が放つボケ自体は全体的にくだらないけれども、小宮の独特なツッコミで大きく笑いを産み出す。最初からそれが上手くハマって、後半のグルーヴがきちんと産まれて、とても気持ちよくゲラゲラ笑いました。

 好きなくだりは、未来の大会『THE THIRD』のゾーンに入ってからの、「出川さんが社長になってた。不安すぎるよ、出川さんが社長。やばいよやばいよ。リアルガチで。ほわーい」からの、「審査員の皆さんにハマったんですね、ダウ90000の皆さんにハマったんですね」からの「せめて蓮見だけだろ」からの、佐久間宣行が3位になって「しゃしゃり出てくんなぁ」からの、キングオブコメディの「『警察に捕まり終えている』の!?」までの後半の畳み掛け。

 審査の結果、スピードワゴン257点、三四郎は278点で、勝者は三四郎

 

・Bブロック 一回戦 一試合目 ギャロップ(結成19年)vsテンダラー(結成28年目)

 

 関西対決が、一回戦で行われるという、こちらもトーナメント制ならではのドラマ。先攻はギャロップで、ネタは、林にそろそろカツラをかぶったらどうかと勧める毛利と、今さらかぶりたくない林との攻防戦。

 初見時は、導入部分の、毛利が林にカツラをかぶせるという理由を、「そろそろ、いけると踏んでんねや」で処理していて、少し無理があり、あんまり入ってこなかった。ここは、「みんなハゲすぎちゃう?」があんまりウケなくなってきたから髪生やしてほしいとか、なんでも良いから、この最初の理屈の筋が通して、毛利の動機づけをきちんとして欲しかった。二回目見るときに、一旦そこを気にせずに観たら、あまりに巧みな漫才だった。オチも見事。

 元々、カツラをかぶる必要がない林が、カツラを「毛量の違うカツラを何個か作って、良いタイミングでかぶっていく」という毛利からの提案を聞いていく。カツラを三つ作ることから始まって、三つは少ないから、100個、100個を年3回、年6回とシミュレーションを重ねていく。その中で二人の会話の論点が、「カツラの数を決める」、「カツラの管理」、「カツラであることがバレるリスク」、「どうやって生やしたのと聞かれた時どうするか」

とどんどん展開していく。脳内に投影される場所も葬式や、研究所など、パンパンパンパンと変わり、飽きさせない。

 『M-1グランプリ』出場時には、立川志らくにハゲかたが面白くない、松本人志にはハゲてないと言われた林だったが、そのハゲかたで笑いをバンバン取ってて、胸が熱くありました。どこで熱くなってんだって話ですけど。

 好きなくだりは「死んだときどうする。志なかば。ほんまに志半ばやわ」からの棺桶にみっちり詰められたナンバー1から100までのカツラ、毛利の「ほならカツラかぶんなや」と言ってからの林の「お、おう」というオチ。 

 テンダラーのネタは、ざっくり分けると「スカウト」「野球」「ビールかけ」「酔っぱらいの介抱」「駅伝」。

 自分が審査員だった場合、良くも悪くも、これに3点を入れるのは自分なら躊躇ったろうなと思った。おそらく、劇場で絶対ウケるくだりを6分間繋いでいる、ある意味で、この大会でかけるネタの組み立てかたとして、一番ズルいじゃないですか。まずやろうと思わない。でもその理由は、ずっちーなもあるけれども、絶対に受ける別々の漫才のくだりを六つも集められないからの方が大きい。続けているだけの漫才師にはこれは無理でしょう。そして、テンダラーが決勝まで勝ち残り、この作りのネタを3本するという戦略だったと仮定した場合、単純計算で、絶対に受けるくだりがある漫才が18本あるということになる。そういう意味では、とてつもなくコスパが悪いとも言える。

 吐瀉物、排泄物などをネタにしても引かれなかったり、今もうビールかけやってないだろみたいなツッコミを指摘させないほどの間の詰めかたなのだけれど、きちんと聞き取れるという技術面でのカバーのおかげで、ギッチギチ感がない。

 浜本の「漫才やってる自負は、二人ともあるんで」という発言は伊達じゃないし、闘ってきた相手が口を揃えて「強い」というのは、そりゃそうだろう。一番相手にしたくないし、そう思っていたのは、当のギャロップではないだろうか。そう考えると、ギャロップは初戦でテンダラーを制したからこそ、弾みをつけたとも考えられなくない。

 好きなくだりは、戦術。

 審査の結果、ギャロップは277点、テンダラーは272点で、ギャロップの勝利。

 ダイジェスト漫才を通り越して、走馬灯漫才になっていたテンダラーの、伸縮自在の漫才の唯一の弱点といえば、ストーリー性が希薄になってしまうということで、ウェルメイドな展開を持った漫才と比べると、笑い以外の満足度で後塵を拝してしまう。強いて言うなれば、ここが分かれ目になった気がします。

 

・一回戦 二試合目 超新塾(結成21年目)vs囲碁将棋(結成19年目)

 

 一回戦最後は、松本人志言うところの「他流試合」。この言葉を聞いた「ラップスタァ誕生」を応募動画から観るという、序二段から大相撲見てる奴みたいな妻が「スタイルウォーズね」と言ってきましたが、HIPHOPカルチャーが好きではないので、はい、とだけ答えました。

 先攻の超新塾は「飲み会の盛り上げ」と「映画の予告」と、3分ネタを2本。さすがに21年も複数人での漫才をやっているので、五人である意味がない漫才なんてしない。かつ、6分間、ずーっと楽しい漫才。

 イーグル溝上の笑ってしまうツッコミ、『爆笑オンエアバトル』の頃からとても好きでした。

 好きなくだりは、超新塾のネタが、サンキュー安富が嘆いてから入るということをすっかり忘れていた自分、アイクぬわらの「アメリカ人のタクシーの呼び方」、映画のタイトルを言われたアイクぬわらサンキュー安富が睨み合うところ。

 後攻の囲碁将棋のネタは「モノマネ」。

 二人ともモノマネに挑戦したことがなく、もしかしたら、やってみたら上手いかもしれないので、そしたら勿体無いので、試しにやってみたいと言い出し、文田がこれから披露しようとするモノマネのお題は「街で買い物する様子が、とても毎日がスペシャルとは思えない竹内まりや」で、根建が「ちょっと生意気だわ」と止める。

 そこから、ちょっと生意気なモノマネのタイトルを、文田がどんどん出していくが、そこに根建も対抗し、二人でかぶせていく。

 モノマネを題材としたネタなんだけれどもモノマネをしないという、押井守ゴジラ映画を撮るならどう撮りますかと質問されて、ゴジラ出さなくてもいいですよねと答えたエピソードや『ゴドーを待ちながら』を彷彿とさせる、ありそうでなかった漫才。始まりから、こう展開していくのかと、すごくワクワクした。これは好みなのだけれど、もうどうせなら、モノマネしない方向で突っ切ってほしかったので、個人的には、ラスト1分あたりから、失速したように感じられてしまったのが、勝ったから言える本音のところ。

 こちらもある種のビュッフェ漫才。Wボケの笑い飯が、互いに競い合うように別々のベクトルのボケを重ねていくのに比べると、囲碁将棋が仲良すぎてゲラゲラ笑いながらネタ作りをしているせいか、傾向が似た回答になっているのはご愛嬌。そんな大喜利の答えで殴り合う中でも、根建の方がツッコミであり続けて、きちんとツッコミが機能して強い笑いどころを産み出しているのが漫才を観ているなとなって、気持ちいい。

 根建の目がずっとバキバキだったこの漫才は、何より一番、大喜利が強かった漫才だろう。「うるさいお題のモノマネは?」という大喜利があって、それに対してめちゃくちゃ面白い大喜利の答えを出し、なおかつ、きちんと漫才というフォーマットに落とし込んでいる。近年は、大喜利そのものがフィーチャーされて久しいのだけれど、個人的には、大喜利そのものは空手の型化して欲しくないというか、あくまで野球でいう素振りであってほしいというのがある。羅列して漫才にするのではなく、きちんと構成を考えて配置し、矛盾や破綻のないストーリーを紡ぎ出してほしい。大喜利漫才をするなら、ここを目指してほしい。

 好きなくだりは、漫才前のモーフィングで時間が経過してもほぼ変わらなかった根建、ギニューゆずるからの「何もプラン決まってねえのかよ。掲げるだけ掲げて、中身決まってないって、選挙公約かてめえ」からの「そんなスカスカじゃねえよ」、「一人ワハハ本舗」からの「努力の割に報われねえよ」という何となく分かる感じ。

 審査の結果、超新塾は255点、囲碁将棋は276点で、囲碁将棋の勝利。

 とてつもなく、良い勝負だったんじゃないでしょうか。大会の報せを聞いた瞬間から、囲碁将棋の大会だろうという空気はあって、あらゆる意味で、機運が高まっていた点は否めないけれども、そこに奇面組の没キャラみたいなイロモノの中でも1番のイロモノの、超新塾が絡みついていく戦いをしたことは、ちょっと胸が熱くならざるを得ない。 

 『ONE PIECE』の「頂上決戦編」で、ルフィたちのことを苦しめた、これどうするんだよってなったマゼランのドクドクの実の能力に対して、対して強くないMr.3ことギャルディーノのドルドルの実の能力が、一矢を報いることに役立った時のような興奮。漫才の相性っていうのはわからねェものです。

 最後に、超新塾が、人文字で「正」の字を作り、「囲碁将棋のやってきたことは正しい。」にはシンプルに震えました。これまでの道のりを含めて、超新塾のやったことは美しいですね。まあ、一人なんで複雑骨折か、脇腹を突き破って左右3本ずつの腕が出てこない限り、「美」は出来ないんですけど。

 

・準決勝第一試合 マシンガンズvs三四郎

 

 マシンガンズは、飛び出してきて、松本に金属バットに間違えられたこと、三四郎と闘いたくないこと、待っている間エゴサーチをしていたことなど即時性のあるやりとりを、たっぷり2分弱繰り広げる。こうなると「エスパーかよ」「かぶせで滑んなよ」まで楽しい。

 本ネタは「文化祭の営業の愚痴」「Yahoo!知恵袋」と、明らかに10年以上前からあるものだと思われるが、あまり気にならない。

 好きなくだりは、「かぶせですべるなよ」までの2分。

 好きな西堀から吹いた寄席の風は、「ひどい仕事の話を聞いてほしいねえ」と言った後の「こんだけ人いるしねぇ」、「イルカのDVD」、「みんなだったら死んでるぜ」、「どんな嫌いでも死ぬこたないんだよ」。

 三四郎は「弟子入り志願」。

 「小宮、くら寿司の醤油差し、金輪際ぺろぺろしないでよ」と相田がボケ、小宮が「言うとしたらお前だろ」と、真空ジェシカの「言うとしたら僕~」のサンプリングに、「松っちゃんも怒ってるよ、あれ。くら寿司だから」と別の角度から付け足す、見事なツカミ。

 一本目より、さらに、小宮のツッコミが冴え渡る漫才だった。持ってくるネタは、お笑いファンでないと分からないところが多くもなっていたけれども、きちんとウケていて、マシンガンズの「ゴミと発明」までは許容範囲だと言うことが分かる。

 「たわけが」「丹田から何言ってんだよ」「与太並べてんじゃねえよ」「奇天烈ばっかじゃねえかよ」と、やっぱりワードセンスというか、漫才どころか地上会話でも使わないんだけど、意味としては理解しているというギリギリのラインのものを持ってくる才能、改めて大好き。

 「THE SECOND」について、「審査員は一般のお客さん」「ネタ尺6分」「放送尺4時間」と、大会そのものをいじるくだりがエアポケットになってしまった問題について、このメタはダメなんだと笑ってしまったんだけど、もしかして、観客が完全に「THESECOND」の大会側の意向を組んで、その存在意義を理解していることで、従来の賞レースとの違いを芸人サイドだけがいじっていい齟齬だと思っているからだとしたら、とんでもない皮肉な結果である。

 好きなくだりは、「こちとら芸人だよ馬鹿野郎」への「こちとら一般人だよアホンダラ」、「こうもとー、タトゥー入ってても大好きだよーじゃないんだよ」。

 結果は、マシンガンズ284点、三四郎256点と、マシンガンズ、売れっ子への大金星。

 つい最近、タイタンライブに出ていた三四郎の漫才でめちゃくちゃ笑ってからというもの、優勝候補の囲碁将棋の漫才を掻き乱して捲るなら、三四郎しかないと思っていただけに、この結果は悔しくはあるものの、めちゃくちゃ格好良かったですね。三四郎の、どがちゃかな漫才の見方が、日本列島に響き渡ったのではないでしょうか。

 これでネタ番組の出演が増えないの、本当に怠慢ですよ。

 

・準決勝第二試合 囲碁将棋VSギャロップ

 

 根建がややリラックスしているように見えた囲碁将棋の2本目は、「副業」。テイストもきちんと1本目と変えてきている。今大会で、一番か二番かってくらい好きなネタで、何度見ても笑える強度がある。

 文田が「副業をやりたい」と言い出し、根建が「はっきり言って、お前に副業なんて10年早いわ」と突っかかると、文田が「『はっきり言って、お前に副業なんて10年早いわ』って言われると思ってぇ、僕あの10年前からあっためてるんすよ」と返す。単なる、やりたいことがあるのでやってみる系の漫才の導入として、新しいことに加えて、この「10年早えって」が、漫才が進むにつれ、20年、100年と増えていくのが、舐めている度になっているので、「その日の温度や湿度によって若干スープの味を変えるラーメン屋」、「一種類のフランスパンしか作ってないけど行列ができるパン屋」などの大喜利の回答を数値化しているという良い効果を生み出している。そして、根建も「ライス無料駐車場激広ラーメン屋やれ」、「惣菜パン屋さんやれ、強豪校の隣で」と応酬し、そこで笑いを掻っ攫うのも良い。

 文田の「舐めている」パートから、根建の「努力がいらない」パートへの転調もシームレス。「大学病院の売店」、「学校指定の制服屋」と、何も知らない他人から見たら努力がいらないと思われているお店として、良いところを突いてくる。汗水垂らして努力したお金でホンダのシビックを買おうとしている根建だからこそ、体重が乗っかっていた。

 好きなくだりは、シミュレーションに入ろうとした文田が根建に止められた時に「え、終わった?終わった?」と言う斬新なところと、パン屋さんは幼稚園児でもやれると思われる仕事からの舐めているという理屈、「何も見ずに鶴折れます」からの「鶴も空気入れるからな」を経ての根建が鶴に空気入れた人に対してキレるところ、アパレルの集いでの「BEAMSで店員やってます」「あ、学校指定の制服屋です」「ウケるかも」という街のユーモアbot(@cityhumor_bot)みたいなところ、生意気な漫才師オチ。

 ギャロップの2本目は「電車でのストレス」。

 電車での「座れない」、「日差しが強い」、「席をうまく譲れない」などの電車でのストレスを上げていき、一つ一つクリアしていく。電車の中での話に終始するのとテンポも速くないので、しゃべくり漫才を聞いたという満足度が高い。

 好きなくだりは、ドア側の良い立ち位置を乗っていた人に取られての「それはルール違反やわ」、たまにしか電車に乗らない人にとってめちゃくちゃ共感する「なんで駅名どこも書いてないの」というあるある。

 審査の結果は、囲碁将棋、ギャロップともに284点。そこで、大会規定の「同点の場合、3点が多い方が勝ち」により、ギャロップの勝利。

 囲碁将棋は負けてしまったが、1点=面白くなかったと評価を下したのが0人というのは、震えるほどにゾクゾクした。『HUNTER×HUNTER』の「会長総選挙編」での会長選挙投票のルールくらい縛りが効いて、囲碁将棋が敗退するという、とんでもないドラマを生み出していた。悪意を排除するためのシステムが、残酷さを持った瞬間であった。この一点においても、どれだけ大会側が、トルコアイスくらいシステムを練ってきたかということが分かるし、これだけで「如何にして、『THE SECOND』は炎上しない大会を開催できたか」という新書が書ける。とにかく、冨樫義博展と同じ規模で、議事録を見せてくれ。

 Bブロックから決勝戦に進出したのは、ギャロップに決定。にしても、二回戦に勝ち上がった全組、ほぼ6分にアジャストしていて、一回で観客の感じと、時間感覚を掴んでくるの、やっぱベテランってとんでもねえ。

 

・決勝戦 マシンガンズvsギャロップ

 

 先攻のマシンガンズは、腹立つこと。3本目で一番、即興性を強めたネタ。

 本当に恥ずかしいんですけど、西堀のボインのマイムで、今大会一番笑ってしまいましたことをご報告いたします。

 好きなくだりは、「ネタがないのにここに立ってるメンタルすごくないか」、「イオンに営業来てんじゃねえんだぞ」からの「みなさん、どっから来ましたか?」、西堀の「俺は、絶対俺たちがこの大会の趣旨に合ってると思ったんだよ。まさかのギャロップで、あいつらも趣旨に合ってんだよ」というまさかの気付き。

 後攻のギャロップは「フランス料理」。

 掛け合いで行くのではなく、林の一人喋りを真ん中に鎮座させるという、これまでの2本から、さらにテイストを変えてくる。ツカミも、「みんな、生えすぎちゃう?」からの「やっぱり、みんな生えすぎちゃう?」を経ての、「お先ハゲさせてもろてます」と完璧な組み立て。

 林がひとりで喋る中でも、ソースを舐める林の面白い顔のくだりなど一連の流れが楽しすぎるので、そもそも「おっちゃんおばちゃんはフランス料理を食べてもパンが一番美味しいと言う」という話だったことを観客は忘れてしまう。だから、「パンー!」で、ドカンとくる。6分という長さを活用した例だろう。

 ボケが目立ち、ツッコミでドカンと笑いを産む、ここに来て原点に回帰した漫才で優勝す流のは、単純に美しいですね。

 好きなくだりは、林の下ネタスレスレの舐めダルマ、パーン!。

 文句なしの結末。気になったのは、ギャロップの毛利が「mission complete」と、サイボーグ高校生の戒堂晃みたいなことを言ってたくらいです。 

 総エントリー数133組の頂点に立ったのは、ギャロップ。お見事でした。

 まず、『M-1グランプリ2022』のエントリー数7261と比べると、その数の少なさに驚いた。にも関わらず、ファイナリスト全組の漫才の向いている方向、登っている山がバラバラで、

そこには、とてつもなく豊かな景色が広がっていた。

 『M-1グランプリ』は、構成作家などのお笑いで生計を立てている人々が審査をしてる以上、少なからず、ある一個の方向性に向かうようにお膳立てが整えられてしまう可能性を孕んでいる。これは、やらせとかという意味ではなく、その年の漫才群から抜きん出たものを拾い上げる中で、どうしたって、何らかの意味が見えるような道筋や傾向が生まれるという話である。そんな難しいことを抜きにして言えば、似たような漫才であれば、相対評価になるので、何かが欠けている方が落とされるという生存競争が、決勝戦に向かうまでに行われると言った方が誤解は少ないかも知れない。

 対して、『THE SECOND』は、ディレクターらによる選考会は最初にあるものの、その後の、ノックアウトステージ、グランプリファイナルと、半分以上の審査が、観客に委ねられるので、大会で同じような漫才師が出てくきたら、番組として盛り下がるよな、ということまでは考えないはずなので、先述した『M-1グランプリ』で生じうる淘汰の可能性は少なくなる。にも関わらず、ファイナリストが多種多様だったのは、すでに16年以上、芸人にしがみつく中で、自ずと他の芸人とやっていないことをやってきたからに他ならない。金属バットの友保が「負け癖がついている」と述べていたが、この舞台に立てただけで大儲けであり、全然勝っている、ということは、最大限のリスペクトを持って、伝えたい。

 『M-1グランプリ』の役割が、既存の漫才の革新及び攪拌にある以上、そこでかけられるネタは、現代の日本に住んでいるなかで抑圧されていること、価値観の変化、大衆の美しさとグロテスクさ、病理などの歪な部分が、強く反映され、時には上手く忍ばせられたりする。これらを社会性というのであれば、『THE SECOND』のネタには、社会性をあまり感じなかった。寄席で、都内のライブハウスで、常設の劇場での、日常からの離脱としてのささやかなハレの延長線上にあった。寄席は悪所だという言葉があるが、社会から隔絶された自由な漫才がそこにはあった。もちろん全くないとは言えないが、ちょろっといじるだけで、おおむね、そうだった。あくまで、その場でウケるだけに特化したからだろうか、ずっと演芸だった。それが嬉しかった。

 例えば、マシンガンズでの「ブス」という発言であったり、紙を出したりする行為だったり、テンダラーの走馬灯みたいなあまりに鉄板すぎるくだりをくっつけていく構成、超新塾のワクワクさんなど、異常に多かった「死」というワード。若手の大会で同じようなことがネタの中に存在したら、それこそ論争が産まれたり、審査員からのご指摘対象になってしまうのではと勝手に思ってしまうようなノイズに繋がるような引っ掛かりが、少なくとも個人的には、ほとんど無かった。悪所としての寄席であるならば、それもありだからだ。

 それは、彼らが芸歴を重ねていて、今も客前で漫才をしているという厳然たる事実があるからである。それらのくだりなどが残っているということは、同じことを舞台でかけ続けてウケてきたからということに他ならない。ウケないのであれば削られるわけで、残っているのは一番の観客たちが許容しているからであり、そのことを外野が今さら是非を論ずる余地など皆無だからだ。すんません、その話、終わってんす、だ。

 ただ一点だけ、一点だけ、本気で怒っていることがあります。誰も損しなかった大会に水を差す話題。もちろん、お分かりですね。

 そう、今田耕司の鼻うがいのCMについてです。

 東野幸治の「今田さんどうもありがとうございました」という下品ないじりに加えて、松本アンバサダーの「鼻うがいのCM、ウケてましたねー」という一言。このやり取りのせいで、鼻うがいを馬鹿にしていいみたいな空気が一部で醸成しつつあるということが本当に許せない。松本は、無自覚であることにも暴力性は存在する以上、自らが権威であることをもっと自覚すべきであって、こんな状態は健全ではない。トキシック・松キュリニティですよ。

 幼少期からの慢性鼻炎であり、ナザールを手放せないほどだったのが、食塩水での鼻うがいでを一日二回することで、ナザールを使う回数が激減するほどに鼻詰まりがかなり改善された身からすると、この風潮が出来上がることを絶対に止めなければならない。600mlに、小さじ二杯程度の食塩を入れて混ぜるだけで、全く痛くないですからね。おそらく花粉症にも効果はあるはずで、正式に耳鼻咽喉科の医者が勧めている行為なので、絶対に茶化してはいけないことだってことを強く釘を刺しておきます。

 素晴らしい大会に水を差すな、鼻に管を挿せ。ホコリの除去を目指して塩水を注入しろ。百万円目指して笑いを取れみたいに言うな。

 アンバサダーがダウンタウン松本人志になったことは、10年以上も爆笑問題ネタ番組でトリをとらせてきたフジテレビにしては、あまりに権威のつけ方が一辺倒すぎるな、としか思っていないので、全然怒ってないです。その話、終わってんす。

 『M-1グランプリ』がホテルに泊まって、一人で観たいなら、こっちは、ライブビューイングが出来る個室を借りて、みんなと観たい。是非、実現させましょう。事務調整、めちゃくちゃ得意です。ただ、僕は最速感想を書かないといけないので、23時5分には解散となりますが。

 ニュートン

 りんごが落ちたところでお時間です!(松尾アトム前派出所)

 

 

 ツイッターが終わるらしいので、公式LINEやっています。

lin.ee

 

 

スカート×街裏ぴんくツーマンライブ「VALE TUDO QUATRO」(配信)感想

 大阪・梅田CLUB QUATTROで開催された、スカートと街裏ぴんくのツーマンライブ「VALE TUDO QUATRO」を配信で視聴しました。

 単なる、交互に歌とネタを披露するのではなく、二人が喫茶店に集まり、このライブの打ち合わせをして、そうなるならこうなるよね、それって最高だよね、と話し合うという、ある意味では「有り得たかもしれない未来」問題を孕んでいるような、練られた構造になっているライブだった。

 元々、街裏ぴんくの漫談は、存在しない話を延々としていくなかで、その嘘が一縷の現実を宿すという、虚実の皮膜を突き破るカタルシスを楽しむという、言ってみれば脳への負荷が少なくないネタなのだが、スカートのナイスなポップソングが、何故なのか、本当にそうなのか分からないが、その嘘と本当の境目が、薄皮あんぱんの皮ぐらい薄くなったような気にさせられて、わかりやすく揺さぶられる。これは、仮に同じネタを同じ順番でぶっ通しで観ても、この感触にはなっていなかっただろう。スカートの澤部のセリフの「サウナと水風呂」というのは言い得て妙だったが、ポップソングの、カルチャーと接続せんという本能の強さを垣間見れた気がした。

 この、街裏ぴんくの、嘘なのに本当に聞こえるけれど笑いが生じるということは嘘だと認識しているという入れ子構造というか、メビウスの輪のような構造が、いつもよりもくっきりと見えて、脳が悦んでいるのが分かり、街裏ぴんくの藝における、有り得たかもしれない完成形の萌芽を感じていた。

 スカートの演奏で、街裏ぴんく真心ブラザーズの「サマーヌード」を熱唱するという、街裏ぴんくのネタのような本当に見た、多分、それは本当にあったと思うパートで、一つの山場を迎えたが、そこから、澤部がトイレに行き、街裏ぴんくが「このライブ、見えてきたな」というフってからの、スカートの「視界良好」、そこから街裏ぴんくのショートネタと、スカートの短い楽曲を3つずつ、交互にかけ合い、続いて街裏ぴんくが金属音を作っている工場に行く「カンカン音」からの、スカートの「ODDTAXI」という、13ターン目以降の後半はずっと、うねっていた。スカートひとりでの「ODD TAXI」は、PUNPEEパートのラップが超良かったが、一番は、街裏ぴんくのネタの後に、スカートが、はははっ笑いながら、名曲「Aを弾け」に入ったところは、抑圧からの解放であり、このツーマンは、これを観れただけでも最高のものだった。

 巨躯の才能がぶつかり合いスパークしているのを目の当たりにして、早く観ないとと思っていた「聖域サンクチュアリ」欲が霧散してしまったので、宮藤官九郎の「離婚しようよ」が始まってから一緒に観ようと思います。

 というメールを京都αステーションで放送されている「スカート澤部弥のNICEPOP RADIO」のメール投稿フォームに送ろうと思っているんですけど、迷惑ですかね。

第一回 THE SECOND世界最速感想、或いは叩き台

THE SECOND、第一回が無事終わりましたね。僕はというと、空気階段の単独公演、ダウ90000の本公演を観に東京行ってきて、ちょうど放送時間が帰りの飛行機のフライトにかぶるっているので、やっと見終わりました。帰宅の道中は、情報を遮断するために、ラジオを聴きつつ、帰宅すると、お風呂に入る間に、テレビを点けて再生する間に結果を見せられることのないように、お風呂に入っている間に、妻に再生画面を設定してもらって無事観終わりました。シャットアウトはともかく、この叩き台ブログ、そこまでしてやる必要あるのか、もう自分でも分かりません。自縄自縛が過ぎる。助けてくれ。強いて言うなら、相互フォローの人で、ウケてくれる人が1人は確定でいるから。いや、コスパ悪すぎるな。

 


さて、まず、この大会が、既存の賞レースを踏まえたうえでの大会であり、そのシステムが、芸人ファーストにて成り立っていることは、番組側からの取材記事で分かるが、個人的に、1番凄いところは、トーナメント制度で行こうと決めたことだろう。

トーナメント制の良いところは、一位以外の敗者は、最後に闘った相手にしか負けていないというところにある。

どういうことかというと、例えば、mー1グランプリについて、今や4000組ほどがエントリーする。その決勝戦に上がった10組は、少なくとも、現在の若手漫才師のなかで、ある程度の誤差はあるにしても、革新的で面白い漫才師ということになるのだが、本番で、最下位になったら、何だったら一番つまらない漫才師になってしまう。最近は、そういうことは少なくなっているかもしれないが、mー1の黎明期には割とそういう風潮はあった。

ただ、トーナメント制であれば、あくまで、負けた相手にしか負けていない。つまり、ビリが存在しない。これは大きいし、とてつもなく、救いがある結果となる。

これだけで、「とはいえ、ネタをし続ける」という芸人の人生にさらなる日の目を与えること以外のことは極力避けるという気概を感じる。

ただし、アンバサダーを10年以上、フジテレビのネタ番組でトリを張らせ続けてきた爆笑問題を差し置いて、ダウンタウン松本人志に勤めさせたのは、文句を言い続けようとは思っています。

さて、スタートです。

 


1回戦

 


1 金属バット vs マシンガンズ

 

 

 

小さなゴミをポイ捨てしてそうな方と大きなゴミを不法投棄してそうなコンビと、ゴミを拾ってる方とリサイクルショップのお客みたいな方のコンビの、リサイクルの輪が完結している2組の戦い。

滑ったり何を言っているのか聞き取れないことがあってもその都度、逃げ切ったマシンガンズの勝利。比べて、テンポが遅い分、外したくだりがあると思われたのが敗因か。

基準ではないけど、6分の漫才の感覚がなんとなく掴みました。

真逆の使い方のような気がします。

 


誰か、ストリートファイターのファイト後の画面のように、ボコボコにされた金属バットと、喜んでいるマシンガンズを書いて、下のセリフは「金属バット………燃えないごみだ!!!」みたいなファンアート描いてください。

 


2スピードワゴンvs三四郎

 


スピードワゴン、構成はお見事

スピードワゴンの漫才は、イトリがボケに回ることも出来るスイッチヒッター漫才師なのだけれど、そこがちょっと遅かった気がします、あと、もうイトリが安達祐実と結婚してたことみんな忘れているようなリアクションだった

ここにきて、舞台に立つ前にゴッドタンに初めてでた時の目つきをしていた小宮

相田のボケでも笑えるので、小宮の崩したツッコミでもジャンプできる

一回戦だからか抑えているのかなと思いました、3回戦でぐっちゃぐちゃにする勝ちに行き方をしているのかな

 


ところで夏にキンコメの話して良いんでしたっけ

 


少し前にタイタンライブに出演した三四郎。これが、ぐわんぐわんとうねっていた。

三四郎がmー1グランプリの決勝戦の舞台に上がれなかったのは、ネタのなかでのパワーバランスとバラエティなどでの立ち振る舞いに齟齬が生じたことで、その漫才のフィクショナルな部分が現れたことによるものだと思うが、タイタンライブの時は、そのノイズの部分を感じることがなかった。加えて、もともと三四郎の漫才のいいところは、オルタナティブロックのインディーズデモ音源のようなうるさくてごちゃついているところだと思うが、今は、うるさいのに聞こえてくる、ごちゃついているのに見やすいという、矛盾を超越していて、一個一個のくだりが入ってくるという状態になっていた。これまでに見ていたネタとやっていることはほとんど変わらないのに、である。

 


3ギャロップvsテンダラー

 

 

 

毛利が林にカツラをかぶせたい理由が欲しい。多分なんでもよくて、ハゲネタがウケ悪くなってきたとかでも、コンプラで薄毛の人に気を使わないといけないとか。

テンダラー、寄席の匂いが凄い!

こういう大会で、このタイプのネタを評価するのはとても抵抗がありますね

でもギャロップが勝利したのはびっくりした

 


4 超新塾vs囲碁将棋

寝る前にInstagramで小ネタを見ることが日々の生活の癒しになっているでお馴染みの超新塾と、あらゆる方向から優勝候補といっても良いほどに、機運が高まっている囲碁将棋の対決。

いや、ネタ2本やってるんですけど、かっこよかったなー超新塾

溝上はほんと、オンバトのころから楽しそうにツッコむなぁ

囲碁将棋は、超新塾の手数の多さを上回るネタでしたね。

 

 

 

2回戦

 


1 マシンガンズ vs三四郎

マシンガンズ、たまに昭和のいるこいるの風が吹くし、なんだったら「聞いてほしいよなあこんだけ人がいるし」はもう古今亭志ん生なんだよな

三四郎負けたー!!エアポケット、作戦じゃなかったー!!ここで笑い疲れを一旦休ませて、後半畳み掛けるためのロイター板としてのエアーポケットじゃなかったー!

 

 

 

 


2 囲碁将棋vsギャロップ

 


まじで〜!?

一点が0人なのに囲碁将棋が負けたのか。

 


勝戦

マシンガンズvsギャロップ

 


いや、この戦いになるとは誰も予想していなかったんじゃないだろうか。

マシンガンズの漫才を3回も見てきて、もう観客は完全に共犯者になっていた。

ネタがないといいつつ、ネタに入ったり、かというと、本当にネタがないのかと思わせるようなくだりや間があったりと、ライブ感がすごかった。なんだかんだで逃げ切った気はしますが、逃げ切れませんでした!!!!

 

新社会人の皆様にオススメしたいラジオベスト20!!

 新社会人の皆さま、こんにちは。

 新生活には慣れましたか。

もしかしたら新しい土地での生活が始まったり、クレジットカードを取得したりしていませんか。これはもう新しいラジオ開拓のチャンスです。

ということで、今日は、新社会人の皆さまに聞いてみてほしいラジオをご紹介いたします。

いや、ベストラジオ2022じゃねえか!

いくらなんでも完成が遅すぎるけど、やりきらないと後悔するけど、このタイミングで2022年のラジオを振り返る記事なんてアップしても大して読まれないし、羊頭狗肉な方法で照れを隠してこっそりあげとくかという作戦でした。すいません。

新社会人のみなさんにお伝えしたいのは、こういうことを言って誤魔化す先輩の言うことは聞かないほうがいいですし、こういうことを言ってでもやるべきことをやる先輩のいうことは聞いたほうがいいです。

 そう、お察しのとおり、最近、竹原ピストルのライブに行ってきたので、感化されてしまいました。

 あと、言いたいことは、エナジードリンクはまじで飲まないで良いです。あれを飲むことで仕事出来る感が何故か出ますが、肝臓を酷使するだけなので、まじで常飲しないでください。本当にしんどいときに飲む分には否定できませんが、あれと同じ効能を求めるのであれば、昼休みの20分程度の昼寝と、コーヒーとブドウ糖で事足ります。そもそも、あれはドーピングなので、ほぼ毎日これ見よがしに飲んでいる人は、それを使用しないとついていけてない奴ってことなので、アメリカでは太っている人は自己管理が出来ないから出世しないみたいに、エナドリ常飲しているやつは自己管理が出来ないみたいになってほしい。というか、ベスト20って、10でよくない!?ツイッター、もうインプレッションも少なくなってて、ほぼ読まれていないのに!

 さて、ベストラジオ2022、スタートです!

 

 

第20位『爆笑問題カーボーイ(2022.7.13)』「2回目の選挙特番直後の放送」

「どうも皆さん、こんばんは。爆笑問題田中裕二です」

「お前、先週はのんきに過ごしたんだ。のんきに。」

 

 2021年に、稀代の大炎上の火種となった選挙特番に、再度登板した爆笑問題太田光。元首相が狙撃された事件も直前に起きて、言葉も見つからないまま放送に向けなければならない人々の混乱と迷いを話しつつ、自らも大変だった太田の一日を50分近く使ってトークした回。濃密でした。

 

 

第19位 『桑田佳祐やさしい夜遊び(2022.09.03)』「ひとりROCK IN JAPAN Fes.

 諸般の事情により、参加できなかったROCK IN JAPAN Fes.のリベンジとして、ライブをラジオでやった回。この情報を聞きつけて、慌てて聞いたけど、とても良く、スマホに入れて、繰り返し聞いていました。なんだかんだでポップソングは強い。

 

第18位『AuDee CONNECT(2022.09.15)』「スカート澤部ゲスト」

 今年一番、毎週の楽しみとしていたラジオに、ずっと聞いているラジオのパーソナリティがゲストに来るという夢のクロスオーバーラジオ。そして、その実態は、ツイッターの相互フォロワーが初めて会ったときに、あのツイート良かったですねと褒め合うみたいなファミレスおしゃべりのマックスのやつで、何ともニヨニヨという吉岡里帆が『僕の人生には事件が起きない』の帯にしか存在しない感情になってしまった放送でした。

 

第17位『NICEPOPRADIO(2022.09.30放送)』「涙のNICEPOPRADIO」

 柴田聡子の『あなたはあなた』を、澤部は読み解く。「歌詞を読んでいくと、こうなんかこう自分の例えば、この歌の主人公は男性だと思うんですけど、男性であることに居心地が悪いような人だと思うんですよね。でなんかそれに、それをね、こー、こういうポップスで包んでくれるっていうのがね、俺にとってはもー、何ていうべきか、僕にとってはねぇ、とてもー、心強い音楽なんですよね。そういうなんかこう、んー、男性として産まれて、なんとか男性として認識もあるんですけど、やっぱりどこかでね、このぉ、俺とも言えないし、僕でもないし、わたしでもわたくしでもない時がどうしてもあって、なんかそういう気持ちになる時がやっぱ必ずあるんですよね。で、そういう時に、この柴田さんの歌った『あなたはあなた』とか聞いて、何かを肯定するような気がするんですよね。そういう自分にとっては心強い一曲です。」

 この言葉が意味することとは異なるかもしれないが、出来る限り、僕や私、俺という言葉を使わないようにしている。そのワードで産まれるニュアンスを徹底的に排除したいからである。それが何を意味するのかはもちろん分からないのだが、なるべく、文章から性別や個を剥ぎとりたいという意思がどこかにあるのかもしれない。

 そして、PIZZICATO FIVE『陽の当たる大通り』をかける。

 「まあ、これは柴田さんの『あなたはあなた』に近いんですけど、アメリカのツアーでこう、ゲイの方が熱心に受け入れてくれて、それがとても嬉しかったって話を小西さんがされて、で、それに対して、えー、のアンサーていう感じの曲だっていうのを、何年か前にツイッターで見て、ほんとかどうか分かんないんだけどぉ、本当だったら何て完璧な歌詞なんだっていって、それでまあ泣きますよね。何て素晴らしい歌なんだろうって。そういう目線をもって今もう一度みんなで聞いてみようじゃないか。」

 もちろん、この歌のことは知っていたが、この底抜けに明るい曲調が、とてつもなく悲しく思えてきたと同時に、ポップスの強度というのを改めて感じることが出来た。それと同時に、はたして、こういったことで、虐げられてきた歴史に組みこまれざるを得ない人たちに安易に寄り添った気になってもよいのかとも逡巡もしたりする。例えば、マイノリティの描き方を極力適切に描ききろうとする作品とその裏側が話題になるが、個人的には、明確に、この下駄は脱げないからなるべく腰を低くはするけれども、分かりきれないものは分かりきれないものであるという諦めも無くさないでいようと思う。

 何となく、最近自らの男性としての暴力性を削ぎ落すために結婚指輪を外して生活している。痩せたことでブカブカになっていたし。そっちがメインじゃねえかとなりつつも、それならそれで、一歩ずつ、良き方向を目指せればと思う日々だ。

 

第16位 『エレ片のケツビ!(2022.03.13放送)』「片桐仁バナナマンとの思い出」

 エレキコミックの二人が休みとなったために、片桐仁ひとりでの放送となって、お笑いを始めたばかりのころのエピソードがいくつも聞けた回であり、2021年の12月に刊行されたことで、ベストお笑い本としてあまり語られていない名著こと、オークラの『自意識とコメディの日々』にも登場していたラーメンズだが、そのラーメンズ視点によるサブテキストのようなトークだった。

 エレ片の収録と、『バナナマンバナナムーンGOLD』の放送の曜日が重なっているので、片桐は、その時によく挨拶するという。

「普通に挨拶しますよ。おつかれさまですって。だって嬉しいじゃん。なんか、設楽さんに会えると、あぁしたらさんだ~って思っちゃう。憧れの人だから」と未だに設楽に挨拶出来るのが嬉しいという片桐に対して、未だに『落下女』の話をしたがるお笑いファンのこちらも嬉しくなってしまう。

 そこから、バナナマンとの出会いの話、そのことをきっかけに、ラーメンズバナナマンに影響を受けて変わり始めた話は良かった。

「97年の12月に、バナナマンライブ、ラーメンズで観に行って、こんぅなおもしろいんだっていって、もうちょっと続けようって言って、ラーメンズ続けようって言って、ラーメンズ続けることになったっていう。辞めようとしてたの。なんか、俺もあまりにもやる気が無かったし、演技も出来ないしぃ、堅太郎は堅太郎で作家の誘いを受けたりしてて、悩んでて、ボケとツッコミ入れ替えたりしててもなんかボケもツッコミも、俺はツッコミが、三村さんに憧れて始めたから。バカルディさんが好きだったから。もちろんダウンタウンさんがいて。それで渋谷の『ジァン・ジァン』っていう、今無くなっちゃたけどそれこそ一週前に、イッセー尾形見に行って、そんときはもう、オークラといっしょに観に行って、こんどオークラはバナナマンの作家に入っているからって言って、オークラに席取ってもらって、ジァン・ジァンの階段の行列に並んで、見たの。日本人は、人に謝罪をする時、土下座をすると聞いたのだがってね。あってるかな(※正しくは「日本人は人に物を頼む時、土下座すると聞いたのだが。」)。それが、初めて観た生で観た芸人の単独ライブでぇ、当時芸人て単独ライブやんないからぁ。単独ライブ自体、すごい珍しかったのよ。で、なおかつ、こう、演じ分けみたいのが出来てぇ、あの面白い顔の日村さんが純粋にツッコミになるネタがあったりとか、両方ボケなったりとか、あと結構下ネタがあったりとか、そういうの自由自在にこう行ったり来たりして、しかもコントが繋がってたのよ。こぉーれはもうほんとに、球が速すぎて見えないみたいな。だけど、この方向だなつって、そっから、コントをボケボケにして、だけど俺は出来ないから、だから俺が何にもしなくていい立ってるだけのネタで、片桐の授業とか入口であって(※「現代片桐学概論」)、あと日本語学校も覚えなくて良いから、俺のゆったあともういっかい言うだけでいいみたいな。とにかく俺という重荷をどうやって活かすかみたいな方向で、なんかコントが回っていって、オーディションに受かるようになっていったんですね。」

 まじで、2ちゃんねるで、「いや、コバケンと設楽は演出方法が違うから、仲悪くなった」みたいなことを訳知り顔で吹聴していたやつに、「普通に先輩後輩の間柄じゃねえか」と20年ぶりにムカつきもしたりした。

 

第15位『SUBARU Wonderful Journey 土曜日のエウレカ(2022.08.13)』「伊集院光ゲスト回」

 2022年は配信のトークライブを始め、伊集院の過去を聞けた年だった。そこに、何らかの意図を感じ過ぎるのは怖いので、まあ、そういう年齢なんだろうで留めるとして、その中でも一番良かったのが、『土曜日のエウレカ』での麒麟の川島とのトークだった。基本的にここで話されているトークは、「高校に行かずふらふらしている時に三遊亭楽太郎の弟子になったあと、ラジオにも出るようになる二重生活が始まる」というほぼ知っている話なのだけれど、川島の合いの手も良かった。だからこそ、こう例えられるのは初めてだとか、そういう物語の進み方は、まるで古典落語だ。

 そんな中、飛び出た一個だけ知らなかった話がとても良かった。

 「最終的には、ぼく落語の才能無いんで、辞めますって辞めるんですけど、最後までうちの師匠は二重生活を許してくれるんです。これがすっごいあとになってわかるんですけど、師匠が初めて、師匠の師匠に弟子入りしたときに、落語界がとても大きな波で揺れてるときでちょっと弟子が多すぎるから新しい弟子をとるのは禁止だっていう令が流れてた時に、うちの師匠は学生アルバイトだっていうことにして、ずっと内弟子をやってるんです。自分も一度、二重生活をしてて、他の師匠には、えーっと自分はただのやすみちという、やすみちくんですってやってるんだけど、弟子じゃないって言ってるけど、大師匠のお世話をしながら、落語を教わっているっていう弟子の状態があった。それは俺がもう45とか50になってから知るんですけど。それであんとき、師匠は何故かあんなに寛大だったのは、おまえ隠し通すの大変だろっていうのが分かってたんだなぁみたいな。」

 他にも、「自分がすごい好きで楽しいことに社会性を少しでも持たせられるとそれで食ってける」という師匠からの教えの話をしていた。

 「それは、えーっとギャグを入れて喋れるが落語家としては分かりやすい。自分はアニメがアニメが好きです、で、そのアニメの説明をするのに、ギャグを入れて喋れれば、それで食えます。」

 2022年は、この「好きなことに社会性を足す」という言葉をどう受け止め、どう咀嚼するか、そしてどう実践するかを考えていた。このブログは、基本的に「太田はこう思う」を目指し、きちんとそれが出来ているのかということを課しているところがあり、飯を食うか食わないかはさておき、実はずっと「好きなことに社会性を足す」ということをしているのかもしれない、あながちこの方向は間違っていないのかもしれないと後ろ盾を拾ったような気持ちになることが出来た。昨年のブログは、笑いをまぶす気力も無くて、ずっと鬱蒼とした森みたいで、自分でもげんなりしていたんですけど、やっと抜け出せた気はしました。この社会性ちょい足しという概念については、今後も出てきますので、各自、忘れないでいただきたい。

 あと、ラジオネームではない方の電柱理論の話も出たし、川島のアシストも見事すぎて、ベストゲスト伊集院光でした。 

なお、2022年のベストいじゅさんは、鬼越トマホークへのYoutubeへの殴りこみとする。

 

第14位『東京ポッド許可局(2022.06.19)』「快適論」

 もはや批評が求められなくなり、他者の意見が快適かそうでないかでしか判断できなくなっており、まるで脳に雑誌『小学三年生』のおまけの電極プラグをぶっ刺された猿のように、快適な方へ快適な方へ流れていく力が大きくなっているという話をしていた。

 許可局のメンバーは、それぞれ批評について語っていたが、このなかで述べていたことのうち、引っかかったことをメモしておく。

 プチ鹿島は、「プロレスライターに聞いたのは、結局ファンに求められてない、だから良い話を求められる。一方で、批評みたいなのは、こういう見方を提示すると、当のレスラーからぁ、『いや、これ違いますよ。ちゃんと取材してください。』みたいな。なんかそれ、本人登場みたいなこともある。でも、本人登場で、自分はこういう風にやったからって言うんだけど、観客席や記者席でどう見えたかっつうのは、その人の見方じゃないですか。それはコントロールしようとしたって無理だし、ねぇ、違うじゃないですか。でもそこは、やっぱりファンは、そうだそうだ、だって本人が言ってんだからそうじゃねぇか、はい、おしまいっていう。やっぱ批評産まれないよね」と話す。これは、賞レースひとつ取っても、放送後すぐに、いっせいにプレイヤーたちが語り出したそれが、見方の一つとして受け取られるのではなく、絶対的な正解になってしまうことへの警鐘でもあるし、ひいては社会性が欠如した内輪の技術論に収斂してしまうことで、自分の思考を捨ててしまうことになる。 

 マキタスポーツは、「笑いか笑いじゃないかみたいなことで、笑いってけっこう最大の批評だとも思うけど、だけど、自分にとって笑いじゃないものに行く、行こうとすると、なに、もうめんどくせみたいな線引くのでやると、全然つまらなくなる。で、一方で笑いによる均質化っていうか、で、何でもかんでも笑いにならないと、凄い速度があってちゃんとオチにいって、あぁー、みんなが笑いましたっていうのが正しいものであって、それ以外は、もうめんどくさいっていうものにいれちゃうって態度が許せない。」とういう部分は、突き詰めていくと、どこかで、社会性ちょい足しの話とはベン図のような関係に思えてくる。ここを読み解くと、社会から生まれた笑いという現象を、また社会に還元していくという行為が出来そうな気がする。

 サンキュータツオは「アイディアや意見と、人は、イコールじゃないっていう前提に立ててない」「例えばさ、真理の前で人は平等だし、なんか別にここではぁ、個人の勝ち負けとか、その、論破とかではなくて、何が知りたくて、どういうアプローチをして、どういうデータが得られたかみたいな話をすべきだし、このアプローチだと、あのー、知りたいことが知れないから、こういうやりかたはどうなんだとか、はっきり言うことも全然オッケーなわけよ。ていうか、ま、それ国際基準だと思うんだけど。このやり方だと限界があるっていうのが人格批判だと、まぁ、とられてしまうし、そう思っちゃう人がかなり多いのよ」と話す。

 個人的には、批評は快適な言葉だけで構成されるものではなく、嫌な言葉も入ってこそだと思っていて、だからこそ、言語化してくれたと全信頼されても困る。嫌な言葉にこそ、本質が見える時もあるし、嫌な言葉によってこそ思考が深まることもある。

 ひいては快適な人間として見られること、ふるまうことへの危うさについても考えさせられてしまう回だった。

 

第13位『TOKYO SPEAKEASY(2022.02.24)』「真空ジェシカ、ぼく脳」

 冒頭から放送禁止用語をまとめたサイトで見つけた言葉を読み上げるという、とにかく、ざらついたお笑いが充満していた放送だった。特にぼく脳と川北が初対面とは思えないほどにガッチリ噛み合って、その分、ガクの負担が異常に大きかったのも聞きどころだった。

 真空ジェシカの持ちネタの「逆ニッチェ」に、ぼく脳が「それはやるよな」「凄い分かるというか」「江上さんが逆逆ニッチェなんじゃないかなって思うくらい、完璧、スッて入ってくる」くらいに共感していると話し出す。

 真空ジェシカの二人が、「他には、もじゃもじゃだけの無ッチェ。無いにニッチェで、無ッチェ。無ッチェは、インフィニッチェっていうのになりたかったんですよ。ニッチェさんの顔がいっぱいついた、もじゃもじゃと顔が交互についた。無限のニッチェになりたくてなれなかった、哀れな無ッチェは、舌をもたないんで、何も喋れない。その代わり無ッチェは、小ッチェっていう、小さいニッチェを持って、小ッチェが喋ってくれる。二ニッチェは、そんな無ッチェでも、二人集まったら、江上さんの二つの髪が出来るわけじゃないですか。二人集まると、すぽんと江上さんの顔が出来て、自然と出てきて、胴体が二つに江上さんの顔が一つの二ニッチェ。あと、デジタルニッチェあるよね。」

 ここはほぼ神話だったし、ぼく脳は「分かるわぁ~」と共感していた。

 このトークの書き起こしを読んで、脳が痺れた人は今すぐ、ラジオ好きの友達からこの放送を録音したMDを借りて聞いてほしい。ガクが「アラビア直人」というタトゥーをいれることになりそうになったくだりも普段使わない脳の部分を使っているような感じになるが、一番凄いのは、「ガチャピンの中の人」の話だった。

 ぼく脳が「俺、ガチャピンの外の人」と言い出すと、川北が「ガチャピンを内側に向かって勝手に俺らが外の人だから見てるだけで、ガチャピンの中の人は、自分以外がみんなガチャピンなわけでしょ。」と返し、ガクが「そっちを中だと思ってるかもしれないってことでしょ。」「僕らがガチャピンの中だと思われてる」というくだり。最後にぼく脳が「裏返したガチャピンを着れば、俺らがガチャピン、みんなが。中の人だけがガチャピンの外になるわけで」と加える。

 これは凄すぎる。

 他にも徐々に、会話が逸脱して、意味が剥奪されていく様子がとてつもなく、脳がぐらんぐらんしてくる。

 

第12位 『蓮見翔(ダウ90000)、紗倉まなのAuDeesCONNECT(2022.09.01)』「ダウ90000、タイタンライブに出演」

 

 ダウ90000がタイタンライブに出演し、その裏側を蓮見がトークしていた回。

スケジュールの都合で、タイタンライブの直後にラジオの収録したこともあって、アツアツの感想をトークしてくれた。

 楽屋挨拶に行ったら、「多いなお前ら」とか「男女混合のユニットであること」といろいろといじられたという話を嬉しそうに話す、蓮見のトークを聞いているとこちらまで嬉しくなってくる。

「結構喋らせてもらって、あんまやっぱりぃ、あれぐらいのキャリアの人とあんまり喋らないんですよね、挨拶いっても、あい、お願いしますっていうその、まぁ丁寧に挨拶してくださってもう終わるっていうだけなんで、いつも。あ、これ、こんな喋ってくれるんだっていうので、おねがいしまーすって言って、じゃよろしくねーって言ってくれて、いやぁ楽しみだわぁって言ってくれたんですよ。ネタを見てぇ、くれるんだっていう、ネタ見てくれるんだっていう。本人が、もう最後にネタやるからぁ、別になんか見ない理由もいっぱいあるじゃないですか。あー、見てくれるんだ、みたいな。みんなで、もう大好きですよ」

 蓮見は、BOOMER&プリンプリンの、ネタ中に客に話しかけるスタイルに衝撃を受けた後に見た舞台袖の爆笑問題のネタ前も目撃することが出来た。

 「僕は下手袖で見てたんですけど、下手袖から上手袖が見えるんですよ。上手袖にパッと、爆笑さんがパッと来て、その、太田さんがアップしてんのが見えたんですよ。肩を回してんのが見えて。こんなもん見れんのかと思って、むぅちゃくちゃ、まぁまぁまぁ、芸人さんに使う言葉じゃないですけど、ちょーかっこよかったっす。」

 蓮見は、爆笑問題と30年以上芸歴が離れているわけだが、それでも面白くてカッコ良いという視線で見てくれていることが聞けて、嬉しかった。

 

【タイタンシネマライブ エピグラフ

ダウ90000「得体の知れない大勢の男女が、変な稽古をやっている。これが彼には面白かった。」・・・国枝史郎『あさひの鎧』

 

第11位『バナナムーンGOLD』『ハライチのターン』「100万円クイズ」

 きっかけは、2022年6月4日放送の『バナナマンバナナムーンGOLD』に設楽統が体調不良のために欠席し、一人で放送することになった日村勇紀の助っ人として、ハライチの岩井勇気が駆けつけたことによる。ダブルゆうきラジオとして和気あいあいとした放送だったが、番組も後半にさしかかったころ、サウナの話題になり、日村から、自分がサウナで偶然に出会った有名人は誰かというクイズを出題される。

 話の流れで、正解したら百万円あげると言っていたら、岩井が見事に正解を叩きだす。

 さて、ここから、設楽統と同じく、逃がさない精神の持ち主の岩井の百万円取り立て劇場が始まる。

 その翌週の2022年6月10日放送の『ハライチのターン!』では、その緊急出演の裏側を話しつつ、「うやむやにしようとしてたけど、俺は。これはうやむやにさせない。これは取りたてようと思ってる。だって、自分がピンチな時に来てもらったわけじゃないんだから。俺行った立場で、日村さんが出したクイズ、正当にあてて百万もらえることになったんだから。」「これは確実に百万頂きますんで」と、闘っていくことを宣言する。

 その後、数週間にわたって、どうにか支払いを回避しようとする日村と、権利が正当なものであることを主張し請求する岩井との攻防が繰り広げられた。

 この結末がどうなったのかは、友人からMDを借りてチェックしてみよう。

 

第10位『伊集院光 深夜の馬鹿力(2022.06.14)』「キンタマカメラ」

 現在、妻が実家のある和歌山に一カ月行って、また東京に一カ月戻ってくるという生活になっている伊集院光家。伊集院光妻が、前々からお世話をしていた地域猫への餌やりを継続するために設置した餌やりマシーンがきちんと稼働しているかをチェックするために、伊集院がカメラで監視できるシステムを構築したという。

 そのカメラは、前で何かが動くとセンサーで録画を開始、アプリを通せば遠隔地からでも動画を見られるというもの。そしてもともとは、全くなついていなかった猫が、餌やりマシーンの管理をする中で、猫にどうやら、餌をあげる人間と認識されたようで、手からにぼしをあげられるまでにはなったという。

 「猫が近付けるようになってきたの。で、近付けるようになってくると、ちょっとかわいいもんで。カミさんに言われなくても、朝こう新聞取りに行くついでに、いちおう猫どうしてっかなみたいなやつを、餌あるかなっていうのをするようになって、でまあ、わざわざそいつのために起きて、えーっとスウェット着てとかはしないけど、家の車庫だから、ま、パンツのまま、新聞取りいったついでに、餌だけ見てやろうとか。で、いて、どうしても食いが悪い時に、あげる用のなんかこうえーっと、にぼしなやつをあげたりとかすんだけど、とうとうそのにぼしを、手から食べるようになってきて、で、そうなるとちょっと面白いじゃん。毎朝こうやって座ってしゃがんで、機嫌によってこなかったりするんだけど、えーっと猫ににぼしをやるようになっていたら、カミさんからlineが届いて、えーっといつもそのポジションであげてるけど、そういうあげかたをして、いつも朝の何時頃に新聞を取りに行った帰りに、あげてくれるのはかまわないんだけど、その角度で、柄パン履いてると、キンタマがずっと映ってると。毎朝キンタマの映像で起こされると。朝何か動いた後、センサーでキロンってやると、寝ボケて見るとぉ、関係性として、えっ、キンタマの奥に猫がいる、キンタマにぼし猫になるからぁ、あげてくれるのは嬉しいし、猫がなついたのは凄くいいことだけれども、あげる場所を考えるか、キンタマを考える貸してくれっていう、それが今、キンタマカメラです」

 2022年のベストトークだってくらい、凄く好きなトークでした。善意から生まれたマヌケさって、面白いだけじゃない、心に残るものがあります。

 

第9位 『ハライチのターン!(2023.11.11)』「岩井のラジオ観」

 伊集院光からオススメのアニメを聞かれては、レコメンドするというソムリエになっているハライチの岩井。

 その流れで、とある賛否が分かれる映画の話を伊集院光として、その後に見に行ってから、また感想を伝えに行ったという話をしてから、岩井はこう話す。

「で、これが先週の月曜の話。で、このラジオの収録って火曜の夜にやってんじゃん。なんで先週ここまでの話を、先週話さなかったのか。っていうのも色々何か、考えて。伊集院さんに感想を言いに行くまでのこの流れを、先週の火曜日のタイミングでラジオで話すと、あれって思って、これなんかぁ、ラジオで話すために逆算で映画見て感想を言いに行ったみたいな感じになんないかって思って、おれん中で。そんなこと思ってないんだけど。その感じになっちゃわねえかなーって思って。そう、そうなると、最初に言ってたラジオのネタ作るために出かけることに当たらないかこれって。うん、なったの。だから先週話せなかったんだけど、そっと心の奥にしまってたの先週。でも、じゃあ今週ラジオで何でこの件を話しているのか。でもそれは、ここまで言うんだったら、ありなんじゃないかと。これがね、伊集院さんに教えてもらった映画を観に行って、感想を言いに行ったのは、とらえようによっては、ラジオのネタを作りに行った感じに、あのー、なるかもしれないけど、それに気付いて、ラジオで話しにくくなった話は、俺のこの意図とは全く別のー、ところで起こったことで、偶然話しにくくなっちゃってるわけだから、これって。これは話せるわぁって思ってね。で今思ってるのは何で、めんどくさいやつになっちゃったんだろう」

 ものすごく、ラジオパーソナリティーとして信頼出来る感覚だと思ったので、ものすごく印象深いトークだった。

 ラジオって、これくらいねじれているメディアなんだから好きなんだと思う。

 

第8位『脳盗(2022.10.16)』「爆笑問題脳」

 後進の者が、大っぴらにリスペクトの意を唱えることが難しい時代は、今はもう遠くなったと懐かしがると同時に、やはり、そのような時代があったと述べ続けることで歴史修正主義に抗う。でも、歴史修正主義って言葉、なんかおかしくないですかね。往々にして、歴史修正主義者と批判されるものは、見たいものしか見ていないが故に実施される自説の補強であって、問題でありタチが悪いのは、そこに主義などなく、ナチュラルにやっているからではないだろうか。主義が無い分、事実を受け入れることが出来ない。だから、歴史修正願望が強い人と呼ぶべきだと強く主張したい。こんな屁理屈を言うことが好きになったのは、伊集院光太田光の影響を下地としながら、東京ポッド許可局の影響も加わったためだ。だから、ずっと「論」に変わる、語りの枠組みに用いるワードをずっと探していた。TBSラジオで始まった「脳盗」は、そこに「脳」を出してきて、うわー、やられたーと悔しくなった。

 DosMonosのラッパーのTaiTan、MONO NO AWAREの玉置周啓による可処分時間猫糞ラジオにて、TaiTanが爆笑問題の『日曜サンデー』にゲスト出演したこととそれに思ったことのトークをしていた。そもそも、爆笑問題の事務所名そのものが芸名の由来になっているTaiTanだけあって、憧れの人物に会ったというトークになるが、そこは爆笑問題太田光に影響を受けたことを公言しているだけあって、さらに、「そこでどう考えたのか」までトークしていた。

 TaiTanにとって、太田光は「大衆の人」であり、「あらゆるメディアを通して、自分は常に大衆の側に立つっていう矜持を絶対にぶれない、人だなって印象」「ずーっと大衆に立つって俺からしたらカッコいいわけ」と話す。

 そうそうそうだよ、と、ニコニコしながらトークを聞いていた。とりわけ、2022年は、爆笑問題にとってはTaiTanも話すように、大衆からの跳ね返りを受けたような日々が続く激動の年であって、ファンとしても心が痛む時があったので、なおのこと嬉しかった。

 この数年、爆笑問題が好きだと公言できる土壌が出来上がり、お笑いだけに留まらない、様々なカルチャーで活躍している若い世代から、憧れているというという声が聞こえるようになった。むしろ純粋な賛辞は、その世代が無邪気にしてくれるという印象がある。爆笑問題という遺伝子は、様々な要因によって、隔世遺伝によって花開くものであったと実感している。

 爆笑問題の漫才は即効性の毒だが、爆笑問題は遅行性の毒だったのだ。てーつがくてき~。

 

第7位『蓮見翔(ダウ90000)、紗倉まなのAuDee CONNECT(20022.6.16)』

 ダウ90000の蓮見翔と、紗倉まなという二人が面識のないまま始まったラジオだが、二ヶ月ほど経ち、なんか会話の息があってきたなと何となく思っちゃった回がランクイン。便宜上、この回をベストラジオにランクインさせているが、ハスマナは今年一番、楽しく聴いたラジオだった。蓮見のパートナーが、紗倉まなであることが発表された時、とてもガッカリしてしまったことを心から見る目、聴く耳がなく、恥ずかしいことだったと思う。と同時に、なぜ、AV女優がパーソナリティーになることに嫌悪感を抱いたのかを考えると、これまで聴いてきた深夜ラジオがためだと気付いた。AV女優が深夜ラジオにゲスト出演する時は、原則として、喘ぎ声などを叫ばされたり、露骨な下ネタを言わされるなど、ホモソーシャルの中でのみ機能する記号のようにしか扱われておらず、そう言うことを意識する前から、ゲストとして登場することに飽きていたのだが、ハスマナを聴いて、つまりはそれが、AV女優を記号として扱うことのダサさへの忌避感だったということに気付かされた。もちろん、ハスマナでは「都立しゃぶりながら学園」の話なども出るのだが、そのAVがめちゃくちゃ売れなかった話などといった感じで、紗倉まな個人としてのエピソードとなっているところや、AV女優という職業に就いている人の話になっているのがいいのだろう。

 あと、蓮見の案出しの凄さも、聴いていて実感する。具体例は出せないけど。その角度の見方提示するんだと驚き、そりゃ「夜衝」書けるわとなるかと思えば、かなりの偏食と食材に関する偏見が強すぎるという舌雑魚っぷりに笑って、だせぇなとなったりする。

紗倉も、意外と抜けている人で、セクシー女優に抜けているっていうと意味が渋滞してしまうけれども、そういう意味ではなく、隙がある人なので、蓮見にツッコまれ、セクシー女優にツッコまれっていうとややこしいんだけど、もういいや、とにかく、良い塩梅で楽しいトークややりとりが聞ける。また、流れてくる音楽も、良い感じのものばっかりで、その空気はゼロ年代の伝説枠『WANTED』を思い出させる。何より、蓮見は東京60WATSをかけてくれるので、それに関しては本当にありがとう、となってしまった。

 付属して嬉しかったのは、八ヶ月、蓮見から出るメンバーのトークを聴いて、いつの間にか、ダウ90000のメンバーの名前と顔を覚えることが出来たことだ。未だに男性ブランコはどっちが浦井なのか平井なのか、阿佐ヶ谷姉妹どっちがどっちなのかも覚えられていないのはもちろんのこと、ずっと子供が見ていたパウパトロールの犬連中なんて、全く名前を覚えられない。それなのに、ダウ90000のメンバーの顔と名前が一致するということは、とんでもないことだ。だから、ケントはもうちょっと、メンバーの特色を織り交ぜたトーク、例えば「こないだ、ラブルと銭湯行ってたら、ロッキーとバッタリ会って、でもロッキーってお風呂嫌いじゃないですか。で、ロッキーに、今からサウナ行くから、じゃあ、明日ねみたいに言ったら、『サウナ好きであります~』って言ってきて、いや、サウナは風呂やろ~ってラブルが即ツッコんでて笑っちゃいました」みたいなトークしてみたり、ケント、スカイ、エレベスト、グッドウェイ市長、ケイティでM-1グランプリに出場して、動画で爪痕残して、視聴者にメンバーの顔と名前と犬種を覚えさせる努力をすべきだ。ただ、ケントはパウパトロールのメンバーを鼓舞し、的確な指示をし、時に一緒に泣き笑う理想の上司であることは、間違いない。 

 皆さんもぜひ、『パウパトロール』を見てみてください。

『パウパトロール』の好きなくだりは、「ケントが部屋でくつろいでいる時に、犬のぬいぐるみがついた靴下を履いていて、真の犬キチだとなったところ」

 

第6位『デドコロ(2022.6.5~7.27)』「永野担当」

 とにかくどうにかしてチェックしてください。芯を喰っていないただの悪辣さと、痛快さを行ったり来たりしています。

 

第5位『バナナマンバナナムーンGOLD(2022.04.09)』「設楽統はPKを知らない」

 設楽統は少し前の放送でのとあるやり取りが気になっていたという。

「日村さんが話の流れで、PKさんがどーたらって話をしたことがあったわけ。か、PKみたいかみたいな。俺がそん時に、え、何、わかんなくて。え、知らないの?みたいになって。で、オークラに確認したらオークラも、はぁい知ってますみたいなってノリがあったわけ。」

 このくだりは、すぐに流れてしまったこともあって、設楽はPKが誰なのかを知ることが出来なかった。その後、日村とオークラにPKが誰なのかを聞きそびれてしまっていたので、自分で調べるも、サッカーのPKしかでなかったり、マネージャーに聞いても「モノマネのJPさんじゃないですか」と言われたりと答えが見つからない。それから「設楽、PK、知らない」で検索をして初めて、リスナーであろう人の「設楽さん、PK知らないんだ」という書き込みをいくつも見かけて、やはり、JPではなく、PKであることを知る。それでも、答えには辿りつけないので、放送中に、二人に改めてPKとは誰なのかを問うてみたということである。

 このトークの面白いところは、当の日村とオークラがこのくだりを忘れていたが故に、二人からもすっとPKが誰なのかが出てこないところだった。特に日村が完全に忘れていて、何でよ!ともなった。

種明かしをすると、PKとは、東京ポッド許可局でお馴染のプチ鹿島に対しての基本的にマキタスポーツや許可局リスナーしか使っていない呼称のことなのだが、この答えを知っていると、サッカーのPKやJP、パンサーの管などを経由してもなお答えになかなか辿りつかないバナナマンとオークラのトークが、めちゃくちゃ面白く聞こえてくる。誰も嘘を吐いていないというか、リアルな会話だった。

 てか、TBSラジオを消すことないんじゃなかったのかよ!

 

第4位『マヂカルラブリーオールナイトニッポン0(2022.05.27)』「冨樫義博twitter開設」

 オープニングトークも早々にすませた後に、村上が「さぁ、野田さん」と仕切り直して始まった、冨樫義博twitter開設の話題から始まった、冨樫回。

 「凝で、凝したってことでいいすか」「凝しましたね。」「凝で視たわけですねぇ」「目のまわりにオーラを集めたわけですね」「でもなんかねぇ、正直言うとぉ、その、王が、『HUNTER×HUNTER』に出てくる王が、『凝をせずとも、分かってしもうたわ』みたいなことを言うのね。念能力使いはじめ、全く同じ感覚あって」「王と」「その、あのtwitterを見て、その凝を使わずとも、これ冨樫先生なんじゃないかって思ってしまう感じなんすよ」と、このやりとりだけで、熱心な冨樫読者は、分かっている者同士のトークだと判断し、傾聴せざるを得ないだろう。

 ただただ、冨樫先生がtwitterを開設したということ以外は、情報がないので、しばらく、連載が再開されるまで一日千回の感謝の正拳突きをしているyoutuber、作中の軍儀が本当に発売していること、同様に長く休載している『バガボンド』のDASH島のような農作業の話をするなど、うろうろしていたが、リスナーのメールにより、『HUNTER×HUNTER』が徐々に『馬鹿ボンド』の農業編に侵食されていってしまう。

 「冨樫先生がtwitterにあげた、製作中のネームはまるで林の中でした。これは、畑の線、あると思います。」というメールに、「困るのよ、その線があっちゃうと」「あんのかなーは畑も」「念能力で畑耕す。凝で育つ土か見分けるってこと?」「大丈夫ですか、これ。暗黒大陸向かってますか?DASH島行ってません?DASH大陸」

 『バガボンド』は『バガボンド』で、「バガボンドという言葉には、放浪者、土地から土地へと流れ歩く人という意味があります。バガボンド、ソーラーカーでの旅編の伏線です。」と、『鉄腕DASH』に侵食されていく。

 番組ラスト一分前、冨樫義博先生の本人のtwitterであることを確認した村田雄介先生当人が作画を担当する『ワンパンマン』が休載していることを思い出し、野田が「原作の方の休載も続いてる、村田さぁん、村田先生、原作のONE先生の、止まってるんすよ、結構止まってるんすよ、そぉっちのほうもお願いできますかね、村田先生。冨樫先生のことを気にしているよりも前に、ちょっとね。お願いします、ちょっと」と、冒頭に戻るという円環構造のようなオチも見事で美しかった。 

 なかなか、冨樫ファンのトークというのは聞けないので、とてつもなく楽しかったので、10ランクくらいアップしてます。

 そして、これ以降、twitterに関する良いニュースは一切、金輪際、何もありませんでしたとさ。

 

第3位『ナインティナインのオールナイトニッポン(2022.12.23)』「2022年の最強芸人は俺が決める!審査員岡村隆史!岡―1グランプリ!」

 下北沢の路上で笑い転げてしまいそうになった本放送。これまでの経緯や文脈を把握していないので、何故、ミキの昴生が一人でミキの本ネタを一人で演じるのか、牛乳とインパルス堤下の因縁、東京ホテイソンの漫才中に女性の叫び声やカラスの鳴き声と言った不穏なSEが流されるのかは全く分からないが、笑いの量だけで言えば、ベストラジオです。山田邦子を呼び捨てにしたミキの昴生に対して、岡村が「そんなことするから、たけしさんに嫌われんねん」とゴシップを暴露した瞬間に、ぐっとアクセルが踏みこまれた。

 『THEMANZAI』で、ミキがネタを披露した後、ビートたけしが「うるさいだけで面白くない」と言われたという。そのことに加えて、昴生は、同じスタジオで、たけしの隣にいたナインティンナインが助けてくれなかったことに大荒れする。それから後に、登場したランジャタイの国崎が、いじくりこかす。

「あんちゃんよぉ、うるせえだけでつまんねぇな」「おもしろくなかったら使ってくれよな」「うるせえだけでつまんねえな」「弟はおもしろいのか、あんちゃんだけか」「うるさくてつまんねぇな、くーっ」「静かになって、面白くなったら使ってくれよな。」「くじら屋、行かせねぇぞ。お代はおいてかねえぞ」「お前らには煮込みもねぇぞ」

 どう考えても、ランジャタイの方がうるさいが、あまりにもうるさいのに面白すぎて、旧ヤム邸でカレーを食べながら聞いていたのだがこれはヤバいと判断し、途中で再生を止め、店を出てから再開したために、下北沢の路上で笑い転げそうになった。

 その後の東京ホテイソンも面白すぎました。

 

第2位『とらじおと(2022.3.24)』「最終回」

 白状すると、朝の番組は一時期、ニュースコーナーを聞いていたくらいで、コアなリスナーでない。まあ、いつかもうちょっと余裕が出来たら、聞くぞと思っていたので、収量が発表された時は、そういう意味でがっくり来てしまった。月曜日の朝とか仕事に行きたくない日も、伊集院さんだって朝から働いているんだから頑張らないと思って出勤することもあり、聞いていなくても支えになっていた番組ではあった。何とも勝手な話だ。

 それだけではなく、朝の番組での出来事や、出会った人、出会ったアレコード、出会った自由律俳句など『深夜の馬鹿力』にもフィードバックされていて、何より、師匠との二人会に繋がったこともこの番組が縁なので、放送期間は長くはなかったものの、伊集院光史において重要なタームになっているのは間違いない。アレコードは、ほんと、腹抱えて笑ったのが何枚もあった。

 後半は、ゲストに伊集院光を迎えての「伊集院光とらじおとゲストと」というていの、伊集院光の現時点でのラジオへのスタンスなども聞けて、垂涎ものであったが、特にニュースについては、ラジオに対しての誠実さが表れていたので書き起こしておく。

「ニュースのつらいのは、よくいう言い方で、雑な言い方で申し訳ないけど、右左っていう言い方あるじゃないですか。自分はなるべく寄りたくないと思うんです。自分の素直な意見、寄りたくないとも思わないくらいです。素直にいろんなこと言いたいと思うんですけど。かならずっ、両方の人から怒られます。必ず両方の人から抗議されます。正直に言います。みなさんもリスナーとして分かっててほしいのはぁ、寄った方が、ラジオみたいに小さい数字で勝負しているものは、簡単に数字を上げることが出来ます。あの、要するに、政治って大事なことだからぁ、あなたの皆さんの思想と違うことを言った時に、二度と聞かないってなりやすいです。楽だし、ラジオとしては聞いてもらえる人の人数が増えることもあるんですけど、おれはそれはやっちゃ駄目だっていう風に多分、うちの父親から教わった。父親はなぜかぁ、新聞を8紙取るっていう、そういう人だったから。」

 最後に今後の夢や野望を尋ねられて「僕はまた朝の番組やりますよ。やります、絶対やりますよ」と答えていて、これからの伊集院光が楽しみになった。これからも伊集院光の良いお客さんであろう。

 

第1位『伊集院光 深夜の馬鹿力(2022.03.15)』「ピンチをカオスに変えてやる。スタッフ総出でやってやっからなSP」

 

 「いない」ということについて考える。先日、祖母が亡くなった。僥倖にして、亡くなる2時間ほど前に、入院先を尋ねることが出来たのだが、実際は、この数年、認知症対応型共同生活介護事業所に入居していると何となく聞いてはいたものの、どこのグループホームなのかも教えてもらうことも自分から積極的に聞くこともなく、会うことも出来なかった。それは実母の嫌いなところであり、病院に行く車中で、怒りを露わにしてしまったのだが、それは話す必要のない話なのでさておくが、自分にとって、祖母は少なくとも、この数年は、祖母宅を訪ねてもいない人であり、いまさら明確な、死を持っての別離を言い渡されたところで、あまり実感はなく、法要の場では、親戚が集まる場が嫌いだということを差し引いても、ある種の居心地の悪さを拭うことは出来なかった。晩年は鶏ガラのように痩せていた祖母は、すでにいなくなっていた、といえば、すでにいなくなっていたし、まだ、祖母宅に行けば、いるような気がしないでもない。死や不在をもってのみ、いないとすることは難しい。これで父方、母方の祖父母全員が、鬼籍に入ってしまったわけだが、この祖母だけに対して、そういう浮遊した感覚がある。また祖母の夫の祖父については、30年以上前に他界しているが、この間、ずっと祖母にとって祖父は、いたのだろうか。あと、祖母には、中学生の頃に、一万円を盗んだことがバレて謝まって許してもらったことがあるのだが、本当は三万円だし、そのくすねたお金で買ったラジカセでラジオを聴くようになって、今に至るわけだから、武田鉄矢の盗みは悪いとは言い切れない云々という発言を糾弾できなかったりする。沖縄県は、電車が無く、戦前には存在した以上、それは明らかに、敗戦後の街の再建政策のミスではあると思うのだが、車社会になったことで、一部ではラジオ天国とも言われるほどに、ラジオが定着する要因であり、そのことでかなり早くからTBSラジオがネットし、高校生になる前から『深夜の馬鹿力』や『爆笑問題カーボーイ』、『中川家のネコ電』、『スピードワゴンのキャラメルontheビーチ』「たんぽぽ編集部おそろ」を聴けるようになったということもある。

 あの日の放送において、本当に、伊集院光はいなかったのか、と未だに考える。あの日の放送というのは、2時間ずっと、奇声をあげながら、ポルノDVDを手裏剣のように投げて、それで障子が破れる音が流れていたとしても、なんとなく、伊集院、コロナで休むって言っていたけど、いたよな、となりそうな気がする。

伊集院光が新型コロナに罹患してしまったことにより、生放送が出来なくなってしまったので、かねてよりこういった緊急事態のために用意していた備蓄素材を放送することで乗り切った回。このような放送をベストラジオにすることは、突き詰めると、不幸を喜ぶことに繋がってしまうので、心情として、ランクインさせたくないのだけれども、どう考えても、2022年のベストラジオだった。

オープニング早々に始まった4歳児による「人生4年」は5分と持たず爆発、伊集院光が原作と演出を担当し、伊集院光役を声優の小野大輔が演じた「ラジオアニメ版」も脚本に卑猥な言葉が羅列し始めたことにより、爆発してしまう。この時点で、老害リスナーさんは、ここから、及川奈央の『及川奈央の深夜にシェイシェイシェイク』や、伊集院光入院時の小島慶子の手紙朗読を思い出すが、今回は、笑い屋をやっている埼京パンダースの河野和夫の娘、伊集院光の番組のヘビーリスナーである小野といった、関係性が強いところからの助っ人による登板であることで、より面白くリビルドされている。

 他にも、『とらじおと』にも出演していたTBSの喜入友浩アナが進行役を勤め、宮嵜プロデューサーや若手構成作家の大矢くん、瓶ちゃんなどのスタッフも出演、そしてコーナーの振り返りが入ることで、構成作家Uberの労組的な事をやっているでお馴染の渡辺くんの声も聞こえてくる。本当にスタッフ総出じゃないか。

 放送された備蓄素材としては、療養中に伊集院光が聞きたいアレコードをかけ、カルタのコーナーで「わ行」まで到達した「試してガセテンカルタ」「ネオ地獄カルタ」の振り返り、最後に「空脳」と来て、もうスタッフ総出というか、ストップって言うまでかけるのが止まらないイクラ丼だった。

 それでもやっぱり、2022年のベストいじゅさんは、鬼越トマホークへのYoutubeへの殴りこみですかね。

 

 昨年は、ダチョウ倶楽部の上島が逝去し、そのことでぐっと落ち込んで、必要最低限のラジオ番組しか聞けなかった。ベストラジオのドロップに時間がかかったのは、ただの怠慢でした。

 ニュートン!りんごが落ちたところでお時間です!(マツオアトム前派出所)

絶対的フリオチ主義者バカリズムの最高傑作『ブラッシュアップライフ』がブラッシュアップした二つのフォーマットと、描いた4つの人生の真理

 「太鼓持ちの忍者が先輩忍者に言ったこと」という大喜利のお題に対し、「先輩って、着忍びするタイプですよね」「ピンク着てても、全然黒いっすね」「こないだ先輩だと思って、丸太に話しかけちゃいましたよ」「先輩だと思って、丸太にお酌しちゃいましたよ」「先輩の変わり身の術、丸太じゃなくて、マッチ棒でよくないすか」「なんかぁ、こないだクノイチたちが、先輩が巻いたマキビシ、キャーキャー言いながら拾ってましたよ」「先輩って、どんだけ分身しても本体にオーラあるから、バレちゃいますね」と答える。「忍者」と「太鼓持ち」のイメージを箇条書きにして洗い出し、組み合わせる。二つの数字を因数分解し、その解を組み合わせて、元の二つの数字を超えるというイメージだろうか。解き方は分かるが、やはり難しい。ちなみにバカリズムが出した答えは「あれ?センパイ?どこすか?センパイ?」「センパイの巻きビシ、分かってても踏んじゃいますわー。」「(イラストあり)(ノロシで)昨日はごちそうさまでしたー」痺れるね。脳にダイレクトに回答の真意を理解させる速度がある組み合わせとでも言うべきだろうか。何にせよ、一つだけ言えるのは、最初に思いついたものをいかに消していくかということである。忍者に対して、手裏剣を最初に思いつき、その先輩の手裏剣に対して、どうすることで太鼓持ちが出来るかを考えてみると、「懐に入れて温める」、「投げる速さやコントロールを褒める」が出てくるので、最初に思いつく答えとしては「先輩がさっき投げた手裏剣、あっためておきました」「先輩の手裏剣って、大谷より速いっすよね」当たりになるが、もちろん面白くはない。なのでここを掘ってもあまり太鼓持ち感が出ないなと、手裏剣と組み合わせることを、早々に捨てた。それから、他に何があったっけ、と考えて、巻きビシや、丸太を使った変わり身の術などを題材にしたら、太鼓持ちの特徴と接続できた、という思考の流れが、先述した解答となる。バカリズムの解答には、そこに、太鼓持ちへのうっすらとした軽蔑が見え隠れしている。最初に思いついたものを消すことで、他と違った角度での回答となるが、考えすぎてしまって、マイナーな五色米を出すと、どんなに太鼓持ちの要素を絡めても、伝わらないというノイズが生じて、ウケないので、「先輩が作ったチャーハンってパラパラだし、五色っすね」と答えたところで、聞いた人の脳に瞬間的に絵としてイメージさせることが笑いにつながる大喜利に関していえば、題材をいじりすぎるのも良くないということも何となく分かってくる。いかにみんなが思いつくことを避け、新たなイメージを作り出すかということが大喜利の入り口となる。

 バカリズム脚本の『ブラッシュアップライフ』が完結した。全十話を通して、生きていくことへの賛辞を描いたこのドラマは、現時点のバカリズムの集大成でもあり、最高傑作でもあった。そしてそこには、バカリズムがブラッシュアップした二つの既存のフォーマットと、四つの人生の真理もあった。

 まず、フォーマットのブラッシュアップについての話から始めよう。

 地方公務員として市役所で勤めている、親友二人からあーちんと呼ばれている近藤麻美は、その親友の、なっちとみーぽんと食事をしてラウンドワンで遊んだ日の夜、不慮の事故で死んでしまう。死後に辿り着いたのは、背景が真っ白の空間。直感で死んだことを悟ったあーちんは困惑しながらも、空間の先へ進むと、一人の受付係がいる。受付係から、33歳の生涯が幕を閉じたこと、来世がグァテマラ南東部のオオアリクイであることを知らされる。オオアリクイであることに難色を示していると、受付係が「生前の内容に基づいて」「必要な徳が不足」しているからでしょうということと、次いで、今世をやり直すことが出来ることを教えてきて、あーちんは今世をやり直す。

 この「来世を提示されるも、人間ではないので、腑に落ちないでいる」という展開は、バカリズムのドラマ脚本デビュー作『来世不動産』を思い出すが、そこからさらに、今世をやり直す道が開ける設定が追加されることで、20分ほどのドラマが、450分の連続ドラマにリビルドされた。「来世不動産」自体が、ゼロからイチのフォーマットを構築する、いわゆるゼロイチなのに、さらにそのイチをジュウにする作業を本人にやられてしまうと、こっちとしてはお手上げだ。

 まずバカリズがブラッシュアップした一つ目のフォーマットは、会話劇としての強さである。

 一話にて、妹の遙が運転する車に姉が同乗しているあーちんが、ふと道に目をやると、保育園の先生たちが、子どもたちと散歩をしている。子ども達のうち数人は、カートに乗せられている。

「うちらの時、あのカート無かったよね。」

「あぁー、無かったねぇ」

「いいなぁ、運んでもらえて」

「今も運ばれてるけどね」

 ここ数年で一番の寒波が続いていたこともあって、寝っ転がりながらダラダラと視聴していたわけだが、ここで姿勢を正し、背筋を伸ばしてこのドラマを見ることに決めた。

 短いものでこのくらいピリッとしたものは他のドラマにも全くないわけではない。だが、同じく一話の「サービスのフライドポテト問題」は長尺で強すぎる会話劇は、今のところ『ブラッシュアップライフ』くらいでしかお目にかかれないものだった。

 仲良し三人組で、夕食を食べた後に、カラオケに行くと、そこで働いている幼馴染のふくちゃんにばったり約10年ぶりに出会い、その幼馴染から、フライドポテトをサービスしてもらう。すでに満腹状態の三人は、フライドポテトに手を伸ばそうとしないまま、会話を続ける。「食べてよ」と、互いに探りあう時間が続き、しばらくした後、あーちんが「もう言っちゃうけどさぁ。入んないよね」が切り出したことを皮切りに、三人は「サービスしてくれるならドリンクをタダにして欲しかった」「ご飯を食べたことを言ったよね」「誰が悪いか決めるとなると、ハナ差でフクちゃん」など言いたい放題かます

 バカリズムの脚本で笑いを産む場面では、よく言えば、バカリズム作ということが分かる、悪く言えば、役者が演じていてもバカリズムがチラついてしまっていたが、このくだりは、そう感じさせない。サービスのフライドポテト問題だけだと、バカリズムになってしまうが、ふくちゃんにまつわる雑談と成人式の思い出話が、合間合間に挟まれることで、会話としてとっ散らかると、それは、あーちんとなっちとみーぽんによるバカリズムっぽい会話となる。バカリズムの匂いを消して、エッセンスだけを残している。バニラエッセンスは舐めると苦いみたいな話だ。いや、違うな。この例えは無し。

 かつ、このやり取りが、この三人の関係性が掛け替えのないものであるということのフリとなっているので、その日、あーちんが交通事故で死んでしまうことが、悲劇として際立つ。あーちんの三周目の人生では、なっちとみーぽんが二週間も空けずに、東京のあーちんの家に入り浸ってダラダラするようになるが、その後の四周目での三人が仲良くならない人生の切なさへのフリとなっている。

 『ブラッシュアップライフ』は完全に、フってオトすといういわゆる、フリオチをベースとしたお笑いのネタの作りとなっていて、立て付けこそ基本に忠実な単純なものではあるものの、幾重にも張り巡らされていることで、とても綺麗で、かつ、連続ドラマという媒体でなされることによって、これらが生み出す反復と逸脱、対比のエネルギーがコントの何倍にも増幅されている。そして、このバカリズムの絶対ともいえるフリオチ主義は、最終回の最後の最後まで貫かれている。

 具体例を挙げると、同級生のれなちゃんに、彼氏が既婚者であることを、あーちん達が、レナちゃんに教えるシーンだ。あーちん達がシミュレーションしていたように、自らが不倫をさせられていたことを知らされた相手からは、一般的には「さめざめと泣く」「取り乱す」などの反応が返ってくることを想定するので、このイメージの共有はフリとなるので、れなちゃんの、彼氏が既婚者であることを知った即座にかつ粛々と相手に電話をかけ、別れを切り出すこともなく、連絡先を消せとだけ告げるという行為がオチとなり、笑いを誘い、喝采が起こる。そして、同様に、彼氏のふくちゃんが浮気をしていることを教えられたまりりんは、ふくちゃんをボコし、浮気した相手のしーちゃんには怒号を飛ばすくだりは、れなちゃんの冷静沈着な行動がフリになっているというわけだ。

 また、最終話直前に、空港であーちんとまりりんを見る謎の男性もそうだ。浅野忠信演じるこの男は、9話のラストにチラッと画面に登場し、一週間、視聴者をヤキモキさせ続けたものの、蓋を開けると、何十年も猶予があったのに、暴力で解決しようとするどころか離婚すら回避出来ない雑魚だった。この謎の男の存在が面白いのは、人生の目的を成就させるための苦労と孤独が並大抵なものではないことを、あーちんとまりりんによって知っているからで、ドラマの構造そのものがフリになっている。

 一般的な描かれ方をフリにして落とした後は、そのオチからずらして、違う角度の別のオチにする。一話のサービスのフライドポテト問題は、最終話に、サービスのフライドポテトの辞め時失っている問題へと繋がっている。このように、フリがオとされ、そのオチがまた新たなフリになるという、フリオチが幾重にも連なってるシークエンスを持って、円環構造を完成させる。サツマイモを海で洗うと塩味がついて美味しくなることを覚えた猿のように、大喜利の問いと答えを重ねてきたバカリズムの実績の賜物であり、それがラジオ挫折、トツギーノ都道府県の持ち方から連なる物語であるというその事実はあまりにも美しい。本作は、考察するものではなく、このフリとオチの配置を把握し、ペルシャ絨毯のような緻密さにうっとりするドラマだ。だから、このドラマに対して、伏線が回収されたというのはものすごく失礼な話で、フったものを全てオトしたというべきだ。

 二つ目のバカリズムがブラッシュアップしたフォーマットは女性同士の描き方である。会話劇が強すぎるが故に見落とされてしまうが、本作において、裏で悪口を言い合う女性はいない。このことに気づいたタイミングで、あれは手垢がついた表現であり、じんわりと女性を貶めたり、型にはめ込むものだったんだと知る。

 ラジオをやっていた頃、投稿されてきたメールがあんまり面白くなかったことを理由として、コーナーをやらなかったことでハガキ職人を戦慄させたこともあるほどの、おもしろの鬼であり、おもしろを食うサルトゥヌスであり、おもしろのセーラーマーキュリーこと水野亜美のIQであり、おもしろの週刊少年ジャンプ「1995年3・4合併号」であるバカリズムに、女性同士の会話を面白く描かれてしまったら、表面上は仲がいいように装ってはいるものの裏では悪口を言いまくっているという女性の描き方を見かけたら、安易でスベっているとみなしていいという免罪符を渡されたようなものだ。

 ここで出てくる疑問は、バカリズムジェンダー問題などに配慮して『ブラッシュアップライフ』を書き上げたのだろうかというものだ。個人的には、そう決めつけるのは尚早であると考える。それよりも、あくまで芸人として、手垢がついた表現を避けて避けて避けまくったことに加えて、その上でウケる方へと進んでいった結果であるというほうが幻想がある。その場合、本来の、ジェンダー問題の描き方として正しいのかどうかは分からないが、芸人のネタ作りとして絶対的に正しい行為であるということも主張しておく。良い悪いではない、芸人のネタの作り方として、圧倒的に正しいという話だ。恐らく、今後、バカリズムはアップデートしているのに、という言葉が過剰に意味を持たせたい奴らによる誰かを叩くための棍棒やスタンガンとされることが出てくると思うが、三谷幸喜宮藤官九郎なども含め、他人を笑わせるために作品を作っている喜劇作家、とりわけ芸人の、ウケるためならなんでもするという習性のえげつなさを舐めてはいけないと、今後産まれるであろう陳腐な紋切り型に対して今のうちから、釘を刺しておく。彼ら彼女らのモノづくりは、そんな綺麗なもんじゃない。以前、とある芸人が「舞台で女性のことを女と言うと、笑いが一気に引くのがわかるから言わないようになった」と言う発言がSNS上で拡散され、賞賛を始めとした様々な反応が巻き起こったのを見たが、これは単に、笑いを取るための最短コースを走るためのノイズを取り除いただけの話で、坂元裕二はさておき、他の三人のアップデートと見られるものは、全てとは言わないまでも、この延長線上でしかないと思っている。本作において、恋愛や結婚などについて描かれなかったのは、このドラマの本質には何ら関係無いとしたからだと思うに留めておいた方がいい。無論、製作陣による微調整はあるだろうが、本当に、このドラマの本質では無いから書かれなかっただけだと思うくらいが温度として、ちょうどいい。バカリズムにとって、『ブラッシュアップライフ』にとって、あーちんの恋愛や結婚、出産は、面白いハガキが来なかった週のコーナーと同じなのだ。

 ドラマを見ていると、これはアレがやりたかったんだろうな、と気になってしまうが、バカリズムを始めとする製作陣による、この二つのフォーマットのブラッシュアップは、どんどん取り入れていってほしい。もちろん、社会的な問題を取り上げ、作品に落とし込めることは重要だが、それだけがなされるのであれば、女性の描き方はそれでいいということにならないか。搾取、抑圧されていない個として自由な女性や女性達を描くこともまた同じくらい必要な事ではないのか。それらを並行して描くことは可能なはずなので、どんどん、『ブラッシュアップライフ』のフォーマットはパクられてほしい。ゴミのポイ捨てがひどい公園が二つあって、ゴミ箱を設置した方は余計にゴミが増えたけれど、花をたくさん植えた公園ではポイ捨てが減ったみたいな話だ。この例えは、間違ってないと思うので採用。

 次に『ブラッシュアップライフ』は、人生で大事なものがなんなのかという事を四つも描いてしまっちゃっているということについてだ。

 一つ目の人生の真理は、体育会系の暴力性と文化系のねちっこさを兼ね備えている社会科の教師のミタコングの痴漢冤罪イベントで描かれた「嫌いな人間が対象であっても、正しくないことに対しては、見つけてしまった以上は、見逃さずに尽力して取り組むことこそが、誠実さである」だ。

 二周目の人生で、電車通勤になったことでミタコングと同じ電車に乗り、偶然にもミタコングを助けたあーちんだったが、三周目で問題が生じる。三周目のあーちんは、東京に住んでいる不規則な勤務時間のテレビ局のプロデューサー。そして、ミタコングに痴漢の疑惑が起きる日は、夜中まで撮影があることがほぼ確定している。流石に物理的に無理だろう、そもそも嫌いだし、とあーちんは、一度は諦めかけるが、ミタコングの妻が現在、妊娠中であることを思い出し、撮影を巻いて、助けに行くことを決意する。少し横道に逸れるが、このドラマは、ふくちゃんをミュージシャンにさせないというミッションを達成しなかった理由が、今後の人生でふくちゃんに子が生まれることを知っているからだったように、『ブラッシュアップライフ』はアンチ反出生主義ともいえる眼差しに満ちている。コンビを解散するにあたって、元の相方から、マネージャーとして付き合っていこうと持ちかけられたものの、そっちで張り切っている姿に引いて断ったというあの日のタスマニアンデビルの目つきをしたバカリズムはもういない。

 これまでと同様に、他では描かれなった「撮影を巻く」という行為を縦軸とした四話は、ドランクドラゴン塚地武雅の登場で視聴者にカタルシスを与え、無事、定期ミッションもクリアする。この「徳を積む」というドラマ特有の、設定が縛りとなって、あーちんの行動に説得力とリアリティを付与させる。つくづく、この「徳を積む」という設定はとても便利だ。幼少期を日本で過ごしている者なら、ニュアンスを含めて、スッと入ってくるこのワード。

 中学一年の最初の数学の試験にて、最後の問題に「同じ数字を繰り返す掛け算のことは何というか」という設問を配置し、その答えを漢字で書かなかったことで誤答として98点となった上に、初代のデジタルモンスターを没収したまま返却しなかった上門という教員を助けることが自分には出来るだろうかと考えてしまった。もし二周目でこのイベントに出会うなら、問題に「漢字で書きなさい」と書いているか確認し、もし書いていないのであれば、あえて「るいじょう」と書き、98点になったうえで、そこを突いて、100点にさせるかもしれない。

 そして、あーちんのテレビプロューサーとしての職業の描き方は、打ち合わせと、視聴者にとっては全くもって無意味な作業に見えるエンドロールの出演者の順番を決めることだが、ここには「どんだけ華やかに見える世界も事務作業で成り立っている」という労働の真理もある。これが二つ目だ。

 三つ目の「結局、価値があるのは友達やパートナー、配偶者、子といった気の置けない関係性にある他者とのダラダラした時間」に関しては説明するまでもないので割愛する。誠実に、自らに課せられた業務をこなす合間に、このダラダラした時間があるからこそ、我々は生きていけるということについては、このドラマのファンに向けては言うまでもないので、割愛させてもらう。

 さてさて、最後の四つ目の前に、いったん、ドラマの本筋に戻る。

 プロデューサーデビュー作の初回放送の日に死んでしまったあーちんは、4周目の人生を始めるが、そこでの中学時代に、優等生のまりりんこと宇野真里と仲良くなるというラインが出来る。それから5年後、成人式で二人は再開、その後またしばらくして、地元に帰ったあーちんは、まりりんといつものお店でお茶をする。そこで、あーちんはまりりんにこう問われる。

「そういえばさぁ、前から聞きたかったんだけど、あーちん何周目?」

「何周目?人生」

 ここで七話が終わるところはたまらなかった。そして八話で、まりりんも、あーちんと同様に、人生をブラッシュアップしていたこと、人に生まれ変わるために徳を積み直す以外の目的があり、実はそれが、飛行機事故で亡くなったなっちとみーぽんを救うことだということが明かされる。

 あーちんがまりりんから聞かされたのは、「なっちとみーぽんが海外旅行に出かけた時に搭乗した飛行機にスペースデブリがぶつかり、飛行機は墜落し、二人は亡くなってしまう」という、重い話になるという前フリがあってもなお、ずんと落ちる、存在した1周目の未来であった。死ぬことが半ば天丼のボケ化して緊張感が無くなっていたところに、視聴者は、そもそも死ぬということはそういうことであるという身も蓋もない事実を思い出す。

 それから数十年後、まりりんも亡くなるが、まりりんは今世をやり直すことを決め、まりりんの二周目がスタートする。その中で、まりりんは、自らがパイロットになって、墜落することになっている飛行機に搭乗することを目指すが、4週目のあーちんと同様に、親友三人と仲良くなりそびれてしまう。あーちんはここで初めて、自らが、一人の親友を失っていた、欠落した存在であったことを知る。まりりんは、まりりんで、自らに出来うる最大の方法を持って、親友を、その他の命を救おうとしてきたが、その結果の一つとして、あーちんが死んでしまう。

 まりりんが選んだ行路の困難さと、道中の孤独は計り知れないが、ここでようやく、まりりんはあーちんとの関係性を取り戻す。あーちんはあーちんで、失っていたことすら認識していなかった失っていたものを取り戻し、また別のものを失うことを阻止することを決意する。こうして、『ブラッシュアップライフ』は、徳を積んで人間に生まれ変わるために自分の人生を磨く物語から、本来自らの手中にあった親友たちと過ごす人生を取り戻す物語へと変質する。この重要なシーンが、これまでに散々、加藤が「粉雪」を歌い上げるような喧騒の場の象徴であったラウンドワンのカラオケルームというのも、対比の効果が作用し、場の緊張感を増幅させていた。

 そして、最終話の10話で、無事、悲願を成就させる。流れ星のように、空を滑り落ちていくスペースデブリを見守る二人のシーンは、カタルシスという言葉では言い表せない感動があった。そして、散々フッてきた、あーちんとまりりんが、なっちとみーぽんが、熊谷ビューティー学園のポーズをしているそれぞれが持っていた2枚のプリクラをつなげ、本来の、四人で撮ったプリクラが意図せず再現される。欠落したピースを取り戻した物語のまとめとして、あまりに美しすぎるって。

 最後の真理はこれだ。

「人生の目的というものは本来無く、強いていえば、極力、利己的に振る舞わないように留意する中で、余力があれば他人にとっても良い行いを重ねていくということくらいではあるけれど、道中、すべきことはどうしたって出てくるので、その時は、そのすべきことを成しうるために、相応の準備と覚悟を持って対処することが必要であるが、それが終わればまた日常が始まる。」

 人生の真理にしては長いしまどろっこしいな、と思ったあなた、まとめサイトに毒されています。そもそも、真理とは、長いしまどろっこしいし、曖昧さや矛盾を孕んだものなのであり、だからこそ、哲学は歴史と冗長で装飾語に塗れた言葉が連ねられてきたのだ。

 フォーマットのブラッシュアップ、フリオチ主義、円環構造の美しさ、そもそもの大枠のストーリー、人生の肯定と、アンチ反出生主義、バカリズムの最高傑作とどこをとっても素晴らしいドラマだった。何より、このドラマが好きな人は、心のどこかで「徳を積むか」と、ゴミを拾ったり、気が乗らないけれども誰かがしなければならないことを引き受けたりして、世界が少し良くなっていくことに繋がりそうなところも良い。

 お見事でした!

 

 

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大江健三郎逝去を受けて

 大江健三郎が逝去した。

 ずっと「芽むしり」という言葉を剽窃しているのだから何かを言わなければいけないのだろう。

 なんかずっとそんな気がしていた。そもそも、小説家というのは小説を書いていない沈黙の小説家というのは、一読者からしてみれば、いないのも同然である。と同時に、ことあるごとに自らの体がその影響下にあることに気が付き、その雄弁さを思い知る。

 ともあれ、存命の間に、愛媛県内子町を訪ねることが出来たのは良かったし、『芽むしり仔撃ち』は、疫病と村に隔離されるということから、コロナ禍におけるロックダウンや抑圧の文学として再読の価値があるものになったのだが、令和5年の3月13日という、コロナ禍の象徴たるマスクの着脱が個人の自由意志に委ねられることが政府によって公認された日に、亡くなっていたことが発表されるみたいな偶然のような話は、そんなに少なくはない。

 いくつかのニュースを見たが、ねっとりしたお菓子っぽい名前の野球選手の話でかき消されていった。

 大江健三郎は、よく難解な文章と言われるが、それはちょっと違う。

 中期以降、モチーフが基本的には愛媛の森という異常に限られたものになっていること、登場人物の説明がどんどん少なくなっていくこと、古典文学の引用が多用されること、大江健三郎の実際の人間関係を把握していなければならないことが必要な、一文に見たこともない装飾語が出てきたり、推敲のしすぎのせいで普通だったらこの並びで文章を書かないだろうと思ってしまうようなただただ読みにくい悪文なだけだ。血肉となっているという位置にすら立てていないが、少なくとも、悪文ということでは影響下にある。

 今後、大江健三郎のような作家は日本では1000年は顕れないだろう。

 というのも、そもそも、不世出の天才であるということに加えて、敗戦を思春期の前後で迎えて、これまでの価値観が全てひっくり返っただけでなく、長男が脳に障害を持って生まれ、義兄が不幸な形で亡くなってしまう、他には反核をはじめとした知識人としての責務である極めて政治的な運動や、裁判に出たりと、おおよそ小説家として一個で良いであろう人生の苦難がいくつも降りかかったことで、人生の深淵と立ち向かうために書かざるを得なかったが故に、書くことの地平を目指さざるを得なかったからだ。が故に、大江健三郎の小説は、不幸にいる人間が読むべきものだといえる以上、あと1000年は読まれる小説家であり、粛々と生涯をかけて読むだけのことである。だから、大江健三郎の逝去という報せは、大江の魂が、愛媛の森に帰っていっただけであり、何も悲しいことではないのである。これからは大江のユーモアセンスや、大江文学はそもそもエンタメ作品として極上であるということを語っていくというライフワークが出来た僕は、こう叫ぶだけだ。

 Rejoice,in peace‼︎(平和の中で喜びを抱け!!)

「夜衝」感想

 現代コント史において、ゼロ年代一番の事件といえば、まず間違いなくバナナマンの単独ライブ「pepo kabocha」になるだろう。完成度の高さから今も語り継がれているこの公演は、マスターピースである「secretive person」が所収されているだけでなく、単独ライブのラストを30分の長尺ウェルメイドコント「思い出の価値」で締めるという、その後の芸人の単独ライブのフォーマットを形作ったと言っても過言ではないという革新性も兼ね備えている。加えて、20年近く経ってもなお手に取りやすく、そのことからも色褪せずにいること、その後のバナナマンの活躍など、そういった背景も加味すると、やはり、一番の事件としやすい。

 テン年代はというと、やや難しいところではあるが、かもめんたるの単独ライブ「メマトイとユスリカ」に一票を投じたい。カート・ヴォネガット的な壮大な世界観と強固な物語を持つことになったこの単独ライブでかけられたコントの連なりは、岩崎う大の作家としての方向を定める一つの転機となったといえるが、それだけではなく、空気階段の水川かたまりに衝撃を与えたことで、空気階段の単独ライブ「baby」や「anna」の萌芽にもなっているという意味を考えると、まあ妥当だろうと判断出来る。

 では20年代はといえば、気が早いかもしれないが、2030年以降になり、結局何だかんだで振り返ると「夜衝」ということになるだろう。テニスコート神谷圭介と、玉田企画の玉田真也が企画し、ダウ90000の蓮見翔が脚本を書いたコントライブ「夜衝」は、あと10年はしがめるライブだった。「夜衝」とは、台湾の若者たちの間で使用されている「夜にふと湧き上がる衝動」という意味の言葉だそうだ。台湾にて暮らしている義姉に、その夫に確認してもらったところ、「何でその言葉知っているの」と笑われたくらいには、若さとモラトリアムというニュアンスも含まれるのかもしれない。

 「夜衝」の事件性はというと、端的にいえば、芸人のコントには無いものばっかりで構成されている自由さに尽きる。

 現実と地続きであろうとする強い意志を感じる設定の中で、オフビートではあるものの情報量が多い、漫才とは異なるれっきとした会話劇を展開していく蓮見の卓越したテキストの笑いが、神谷を始めとする演者のしっかりした演技力によって表現されるという身体性によって担保されている。加えて、誰がどのタイミングで舞台に飛び出してくるかわからないというのも、二人または三人というメンバーが出てくるという前提の上に成り立った芸人のコントにはない楽しさだ。もちろん、その前提が強固であるが故に、一人二役のコントに胸が躍るし、全く知らない若手がちょい役で出たりすると、それはセリフとかでどうにかできただろう憤りを感じたりする。

 一つの設定で押し切る、セリフひとつで設定を転換させる、唐突に歌い出す、最後の長尺ネタでこれまでのコントを繋げるなどなど、発明された瞬間は凄かったものが、ただのフリを伏線ヅラするなどの小賢しいテクニックが多用されている賞レース対策に毒されたネタばっかり見ていた自分に、「夜衝」でかけられた9本のネタが、綺麗に顎に入ってしまった。

 9本のネタに勝手にタイトルをつけるとすると「シネコンのゴミ回収」、「謎解き」、「閉店日」「持ち込み」、「夢」、「定食屋にて」、「カラオケ」、「パーキングエリア」、「久米川ボウル」。

 1本目の「シネコンのゴミ回収」は、シネコンで映画を見終わった人たちが捨てるゴミを回収する仕事をしている三人が、出入り口の前に設置してあるゴミ箱の前に立ち、映画を見終わった客たがぞろぞろと出てくるのを待っているという設定だが、これぞ会話劇というコントだった。

「なんか、忙しい時と暇な時の緩急ありすぎません、この仕事」

「あぁ、確かにねぇ」

「一位じゃないすかねぇ」

「何が」

「瞬間最高忙しさランキング」

「ああ、そうかもね」

「なんか、他にありますかね、なんか急にヴァーって忙しくなる仕事」

「急に人がばーって来るようなタイプの仕事でしょ。なんかあるかもね」

「ちょっと思い付かないっすね」

 気だるい感じの会話から始まり、そこからどんどんと転がっているような停滞しているような会話が続いていき、自分達の仕事とLiLiCoが直接対決しそうになる。

 2本目の「閉店日」は、25年営業していた地元のスーパーの閉店の日、店長と店員二人が営業時間終了後、店長からの最後の挨拶をシミュレーションするネタ。3本目の「持ち込み」は、漫画の持ち込みに来た女子高生二人組と編集者のやり取り、大学に講演に来た元プロ野球選手に対して大学生がヤジを飛ばしまくる「夢」、職場の昼休みに同僚数人と定食屋に来た一人が仕事の愚痴をこぼす「定食屋にて」、先輩二人と一人の後輩がカラオケに来たが一人の先輩が全く歌を知らないという「カラオケ」、夜のパーキングエリアでの一幕を描いた「パーキングエリア」、家族でボーリングをしているところに数人のクラスメイトと鉢合わせる「久米川ボウル」へと続く。それぞれが繋がることもない、個別のコントであり、「夜の衝動」という空気を纏っていることで、世界観がまとまり、「peppkabocha」を初めて見た19年前に思った「映画じゃん」という感想を抱いた。ところで、ちょうどその頃は自堕落の極みだった大学時代で、夜明けも近い時間帯に、ウエストに行って、かき揚げうどんを食べてから、また帰宅し、そのまま昼まで眠ったりしたのも、夜衝なのだろうか。

 特に好きだったのは、「定食屋にて」と「パーキングエリア」だった。

 「定食屋にて」は、ネタバラシをしてしまうと、昼休みに同僚数人と定食屋に来たうちの一人が、仕事の愚痴を話している間、他の同僚はその話を聞きながら、めちゃくちゃ飯を食べているというネタだ。それだけなのになのか、それだけだからなのか、一番余韻を引き摺ったのはこのネタであった。

 このネタがいいのは、マジで舞台上で飯を、しかも、こんなに食っているのを初めて見たっていうくらい、飯をちゃんと食べているというところも要素としては大きいが、同僚たちが、飯を食いながらも、同僚の入り組んだ愚痴をきちんと理解し、それを噛み砕き、愚痴をいう同僚の気持ちを汲み取りつつ、会社という組織の中でのパワーバランスを考えた相槌を打っているところだ。ここで、斜に構えて、同僚の愚痴が聞かれていないということを描くことは簡単だが、ディズニーランドでミッキーの耳を模した帽子を恥ずかしそうにかぶっているのはダサいこととする蓮見は、そうしなかった。全員が真面目であることから生まれるおかしみを足すことで、ただ舞台上でガッツリ飯を食うというコントが、ポリフォニックな笑いになっている。ここの斜めを避けることに衒いがないのは、新しい感覚と言える。

 「パーキングエリア」は、パーキングエリアに立ち寄って休憩していたカップルが、帰る間際になって車の鍵を無くしてしまっていることに気づいて、すでに1時間近く鍵を探しているところから始まる。そこに、トイレに行っていて深夜バスに乗り遅れた男が出てきて、カップルの事情を把握すると、鍵を一緒に探すから見つかったら乗せてってくれと交換条件を提示してくるが、カップルの女性のほうが、知らない人を乗せたくないと言い、揉め始めたところに、別の女性が登場してくる。さらにしばらくすると、ツーリングしている親子、別の男女の二人組と、どんどんパーキングエリアに集まってくる。最初のカップルと、深夜バスに乗り遅れただけでもコントは展開できるのに、そこにそれぞれの都合で、パーキングエリアに集まった8人だが、最終的に川渡りパズルになっていく、めちゃくちゃワクワクするコントだった。オチも素敵。

 実は、4人目の登場人物となる伊藤修子演じる女性は、あまり人が立ち寄らないパーキングエリアにて定期的に家庭のゴミを不法投棄をしているのだが、スリルを楽しむためにわざわざお金を払って高速道路を使い、このパーキングエリアに寄って不法投棄を続けていることについて語るくだりが、気っ持ち悪くて圧巻だった。

「あたしね、車持ってないです。車ってぇ、お金かかるでしょ。でも、たまにどうしても必要な時ありますよね。レンタルにしたらぁいいんですけど、高いんですよね。で、近所に、ホームセンターがあるんですよ。そこでね、カラーボックスを、二つ買うんですね。そうすると、代車借りれれるんです。1,600円でぇ、車ぁ借りれるんです。重いものを買うときは、そうやってね、あの、車借りるようにしてるんです。だからねぇ、私の家にねぇ、カラーボックスだらけなんです。で、でもぉ、カラーボックスじゃないのにしたらいいんですけど、一番ぅ、サイズと値段が反比例してるのがカラーボックスなんです。何回か、そういうことを繰り返してるうちに、家の中がカラーボックスだらけになって、寝る場所が無くなっちゃって、しょうがないから、カラーボックスをそのまま、ばって捨てたんですよ。そしたらその、スリルにハマっちゃって。で、カラーボックスを捨てるたびに、またカラーボックス買って。これ、これはねぇ、あのぉ、いたちごっこだっつって。あの、新しく買ったカラーボックスを、このまま、ばって捨ててみたんですよ。そしたらねぇ、なんかきもちよくないんですよ。やっぱりね、家にあるものを捨てるからヒリヒリするわけで、ね、これからはね、要る要らないじゃなくてね、なるべくね、長く家にあるものを捨てるようにしてます」

 伊藤修子の他にも、見ていてナチュナルにむかついてくる役を演じたら天下一品の玉田、舐められたり翻弄されたりするのが上手すぎる神谷、演技がナチュラルすぎていくつものコントで重要な役どころを担っていたロロの森本華、ダウ90000の中島百依子、忽那文香、ちょろっと出てくる蓮見翔など、全員がそれぞれのコントでその持ち味を遺憾なく発揮していたが、中でも、ラブレターズの溜口がとてつもなく輝いていたということは嬉しかった。

 ラストネタに相応しいセンチメンタルさを持った「久米川ボウル」では、溜口は、家族とボウリングに来ている高校生役で、そこにクラスメイト三人がやってくる。家族とはしゃいでいるところをクラスメイトに見られて気まずいというコントかと思いきや、実は、クラスに馴染めず、このクラスメイトともこの場で初めて会話をしたということが発覚する。さらに、これから、このボーリング場は、体育祭の打ち上げでクラスメイト全員がやってくることを知る。残酷な設定のようだが、世界って優しさに満ちていて、拗ねている人間はそれに気づかないだけだったという救いがある。

 ちなみに、『ハライチのターン』にて、ハライチの澤部と、オードリーの春日が、溜口のことを「ネタ書いていない方なのに、銀縁丸メガネをかけるな」と同じネタ受け取り師のムジナとして扱っていたが、溜口はラブレターズのコントの演技指導担当であり、単なるネタ受け取り師ではないんですよと、当て書きの究極体二人に伝えたい。タメは銀縁丸眼鏡をかけてロングコートを着ていい側の人間であると。

 この一年で、ダウ90000のコントを色々と見てきたけれど、それとはまた違った良さがあって、とにかく「夜衝」は面白かった。「パーキングエリア」にて、「夜ってこんな、なんでもありだったっけ!?」と神谷が困惑するくだりがあるが、コントってこんななんでもありだったんだと改めて思わされた公演だった。