石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

個々の進化がぶつかり合った大会『M-1グランプリ2020』(『M-1グランプリ2020』感想)

 水川かたまりの離婚の余波もそこそこに、幕を開けた『M-1グランプリ2020』。ギミックも仕掛けも盛りだくさんで、かつ、出順の妙もあり、まるでテン年代の漫才を総括するようだった昨年の『M-1グランプリ2019』は、漫才という藝を拡張するような大会だったが、今年は、それぞれのコンビの進化を目の当たりにさせられた大会だった。
 毎年恒例の、一組ずつの感想と総評を書きましたので、読んでいただけたら幸いです。

 

■1組目 インディアンス「ヤンキー」
 上戸彩のリアクションでネタバレしてしまったトップバッターは、敗者復活組より、インディアンスが登場。インディアンスは、敗者復活戦での漫才も本当に楽しそうに漫才をしていて、インディアンスらしいことを存分にやっているけれど、これまでと違って、全くうるささを感じさせない、デフラグされたインディアンスだった。所作や構成に無駄が無いから、全てのやりとりがクリアになって、手数は変わらない印象は受けるのに、純度が上がっている。これがインディアンスにおける進化だ。恐らくここに到達するまでに、全てを破壊してからの再構築を要したはずだろう。  
 これまでは、インディアンスのやりとりはキツキツで、悪い意味で全てが台本のようにも思えてしまっていたが、「いやぁ、急にあったかいから痒いですね」「半袖やもんな」「血のめぐりがすごくて」という用意されていないツカミで入ったり、敗者復活戦ではツッコミを受けると「寒いから痛ぇ~」と入れてきたり、余白のあるインディアンスは心地いい。
 冒頭のきむが「実はね、昔悪かったんすよ」と言い、そこから少し間を取ってから、田淵が客席を使って「笑われちゃった」と入れるくだりがあることで、ちょっと前のインディアンスとは違うと思わせてくれる。ここで一息つけたからこそ、『hapiness』のサブちゃんバージョンまでの駆け抜けが際立ってくる。かもめんたる岩崎う大が言うところの「緩急の緩」だ。
 インディアンスのネタにて、客席が温まるのも伝わってきて、最高の一本目だったと思う。ただ、まだ、明らかにフリのために、わざとしたミスだなとバレてしまうところも多いので、まだまだ進化の余地はあることも感じられた。
 好きなくだりは「何見とんねんこらー」「ハモってくんなこらおい」
2組目に行く前に、敗者復活戦について、気になったコンビ数組について書いていきます。
 まず、金属バット。少女マンガ的な世界観の話題という、金属バットに似つかわしくないテーマで入りながら、徐々に金属バットの猥雑な世界に侵食されていくという構成も楽しく、きちんと掛け合いが成立している。ガーデニングのくだりの回収も見事で、何よりピックアップされた時事ネタとその使い方も絶妙で好みだった。
 続いてキュウ。事務所がタイタンということもあって、寒いところで伝わりづらい芸風だけど大丈夫かなと心配する程度には、愛着も強いコンビだが、きちんとウケてその魅力が伝わっていたと思います。普通の会話をしていると見せかけて、実はゴリラであいうえお作文をしていたという仕掛けをばらし、そこからさらに、何でゴリラなのかというクエスチョンマークが頭に思い浮かんできた最高のタイミングで、「白くて柔らかいものの話してる時に、黒くてがっちりしたもんであいうえお作文すんなよ!」と、実はきちんと、ゴリラとヨーグルトが対をなす存在だったというロジックでそれぞれが繋がった時の気持ちよさたるやない。清水はヨーグルトの話をしたいのに、ぴろにゴリラであいうえお作文をされているから怒っているという構図もしっかりしている。そこからさらに、実は「ラ」の部分で楽をしていたなど展開していくから、漫才にグルーヴが生じる。
 気持ち悪さを少しずつ溜め、そこから一気に気持ち良くさせるという、キュウの漫才が大好きです。
 皆さん、キュウはタイタンライブで、新ネタをおろしまくっています。ぜひ、お近くの映画館にて足をお運びいただけたらと思います。よぉろしぃくお願ぁいしまあすっ!
さて、ランジャタイである。かけたネタは「欽ちゃんの仮装大賞」。知っている好きなネタで何回見ても笑ってしまうが、こと、賞レースの舞台で見ると、やはり、まだまだうるささがあり、少し疲れてしまう。コウテイのネタも同じくらい混沌としているが、ネタを見た後、そんな感想は抱かなかった。そのままのランジャタイで決勝に行けばどれだけ痛快かとももちろん思わないでもないが、「芸人に上手も下手もなかりけり、行く先々の水に合わねば」という言葉にもあるように、ランジャタイが伝わる瞬間の方が見たいし、みんなとランジャタイでひっくり返って笑いたいという思いもあるだけに、難しいところだ。
 最後にロングコートダディ。準決勝で見た時、一番ってくらい笑いが止まらなかったネタ「組み立て式の木の棚」。堂前が組み立て式の木の棚を買ったけれども、ドライバーを持っていないと言った、スムーズにいかない瞬間を、兎が勝手にマウントを取りにきているくせに、都合が悪いと興味が無い素振りをするという最低な奴だけれど、それをコミカルに演じ切る。何度見ても兎が堂前にマウントを取りに行くスイッチが入った瞬間の顔がたまらない。コント師としての技術が光っていたネタだった。
 ロングコートダディの凄いところは、「今日、寒ぃなぁ」っていうセリフを挟んで来るところで、惜しむらくは、会場が本当に寒そうだったことで、準決勝の日の気温は絶妙に「今日、寒ぃなあ。」と口にするのが自然だとまでは言えないものだったので、だからこそ、露骨に話を逸らそうとしているこの一言で一番腹抱えて笑いました。
  
■2組目 東京ホテイソン「謎解き」
 恐らく、今大会で披露されたネタ全てのなかで、二人で深夜に笑い転げながら作ったことが容易に想像できる東京ホテイソンのこのネタは、審査員も観客も一気に刈り取る勢いがつきそうなネタにも思えたが、やや尻すぼみに終わってしまった。
 発明されてから瞬く間に広まった、たけるの「いぃーや」ツッコミというシステムを数年かけて進化させて、決勝に持ってきたことに感動してしまう。昨年の敗者復活戦で披露した「This is a pen」のネタでむちゃくちゃなところまで潜った深化も活きている。あのネタを見た時は、いやこれで決勝は無理だろと腹と頭を抱えて笑ったが、あのネタの「いぃ~やっ、はははこれこれはははこれ!」で免疫が出来ていたから、「いぃーや、しアんルかゼんチせンん!」で爆笑出来た。
 謎解きの問題そのものが破綻しているのに淡々と続けるという行為は、ロジックがないので本来であれば冷めてしまうこともあるのだけれど、今回のネタに関しては、そんなことはどうでも良いと思わせるほどの推進力を持っていた。何より、「アンミカドラゴン新大久保に出現」の面白さだ。アンミカは、すでに出したら一定の量の笑いが取れるジョーカーのカードとなっているので、「アンミカ」と大声で叫ぶだけでも面白いが、そこからさらに、意味不明なワードへと押し上げる。
 キュウに限らず、ずっと言っていることだが、こういったナンセンスや、いわゆるイリュージョンで笑いを起きる時は、実はきちんとした論理が隠されていなければならない。アンミカドラゴンが出現するのは、コリアンタウンである新大久保でなければならない。渋谷でも、池袋でも浜松町でも駄目だ。オール巨人は、「頭を使わなアカン、聞いてるほうがね。頭の頭文字とか最後の文字、え、何やったかなと思い浮かべて。」とコメントしていたが、だからと言って論理が不要かと言うとそうではないし、その論理が分かりやすくぱっと繋がると面白くないし、また、それらを漫才師と観客が共有していなければいけない。
 敗者復活戦でのカベポスターのネタはまさにそれで、「1月から12月まで英語で言いはじめたら、月の英語で掛け算をしている」というネタの発想は面白いしルールは分かるけれども、まだ二人の間で完結してしまっている。ああいう漫才は、チュートリアルを軽く遊んでから、ゆったりと本編を楽しみたいけれども、カベポスターのネタは本編に入って、すぐに応用編に突入しまっている。だから、がちゃついてしまい、リズムが産まれにくい。その後も、「曜日の英語をドレミに割り振っている」「アルファベットを徳川歴代将軍で覚えている」と残り二つのパターンが出てくるが、ちょっと詰め込み過ぎている。お笑いが好きすぎる人ほど、このネタが分からないっていう人をバカにしている印象を受けるけれど、その人たちの言葉こそ大事にすべきだと思う。そんなもの、かが屋のカレンダーだぞ。
 話を東京ホテイソンに戻すと、アンミカドラゴンで盛り上がった東京ホテイソンの漫才だが、そこでピークを迎えてしまい、フワフワクレープは、やや唐突で、そこあたりから失速してしまったことは否めない。
 東京ホテイソンyoutubeのチャンネルで、たけるが備中神楽について「備中神楽における舞いは静と動がある」と解説している動画を見た。ここに東京ホテイソンのさらなる進化の鍵が隠されているような気がした。東京ホテイソンの漫才は、たけるとしょうごのやり取りが静と動のコントラストになっているが、東京ホテイソンにおける舞いを担当しているのは、たけるなので、そのたけるが静と動の舞いを上手く使い分け、さらに、ショーゴでも静と動が生じさせることが出来れば、それこそミルクボーイばりにうねるネタが完成してしまうのじゃないだろうか。
 そもそも、漫才におけるシステムは、開発するだけで凄いことだが、それだけでは決勝には上がれない。第七世代と括られる漫才師だけをとっても、ネガティブ漫才、街dis漫才、チャラ男漫才と、そのシステムを冠した漫才はいくつもあるが、もちろんシステムだけでは駄目で、ボケ、ツッコミ、構成など全ての要素をこのネタのレベルにまで練り上げないと決勝に行けないとなると恐ろしい話である。
いずれにせよ、オチまでの最後のくだりをやりきる胆力がある二人のことなので、またすぐ決勝の舞台に忘れ物を取りに来ることだろう。
 好きなくだりは「いぃーや、アンミカドラゴン、新大久保に出現!なぁんだ、この言葉たちはぁ。火を吹く関西弁の龍が出てきたぞぉ」。

 

■3組目 ニューヨーク「爆笑エピソード」
 ニューヨークが進化させたのは、毒でも皮肉でもなく、まさかの屋敷の笑いながらツッコミだった。昨年の大会にて、松本から好きじゃないと言われた、笑いながらツッコミをまた持ってくるというところがニューヨークの悪さの本質だ。
 嶋佐が「それじゃ、爆笑エピソードを、2、3発ほど」と入り、エピソードトークをするも、内容よりも嶋佐が犯したいくつもの軽犯罪が気になって入ってこないという設定も見事だし、笑いながらツッコミが不自然ではない。すぐ炎上させるというこのご時世を上手く切り取っているこのネタはニューヨークにあっている。
ただただ、嶋佐が前半、明らかに緊張しているのが残念だった。
 好きなくだりは「二本目のエピソードを嶋佐が話している時の屋敷」と、「おまえ、人妻とゲーセンでメダルゲームだけは、すんなよぉ!」。

 

■4組目 見取り図「大御所とマネージャー」
 フォーマットも、ギミックも、システムも持たないまま、三年連続でストレートに決勝に進出しているというその事実だけでも、見取り図が剛腕な漫才師であるということは疑う余地もない。そんな彼らは、昨年と比べてどう進化したのか。表現力や間の取り方、リリーの噛みへのカバーなどといった漫才の技術の向上でもあるが、何より、ネタの見せ方が抜群に進化していた。
 「売れて大御所になったので個人にマネージャーが付く」という設定のネタは、盛山がツッコミを全て面白いワードで埋めようとしているのが無かったこともあって、全体的にすっきりし、だからこそ、きちんとウケるべきくだりが映えていた。冒頭の「無意識でやってしまいました」という軽めのボケを、後半でそのまま持ってきて大きく活かすところなど、知らないワードをあたかもあるものとして出し、あとから回収する見取り図の必殺技の応用編で、構成の妙も効いている。売れっ子だから仕事の幅があるので「グルメロケ」「ポスター撮影」「楽屋挨拶」と場面がめまぐるしく変わるという展開の仕方も自然だし、そのことによってボケのバリエーションも増えているので、ネタを見ている中での満足度の高さに繋がっている。
 何より、「あと、車ないん!?」も見事だ。この微妙に漂う違和感を隠し通し、最高のタイミングで回収していた。ここは見取り図の二人は最高に気持ち良かっただろう。
その他には、漫才を見た時には意識していなかったくらい細かいことを言うと、リリーが地面を叩いて、「ドンキーコングかなんかですか!?」と盛山がつっこむというくだりがあったが、知らなかったけれど、これは『スマッシュブラザーズ』というゲームのネタらしくて、もしここが「ドンキーコングですか!?」だったら、その断定がノイズとなって笑いは少なくなっていただろう。「か何か」が入ることで、『スマブラ』を知らない人は、各々のドンキーコングまたはゴリラを想像することで笑い、『スマブラ』を知っている人はボケそのものにあるあるが乗っかって、もっと笑えることになっている。
 このように、このネタひとつとっても、一年の間、見せ方をかなり意識してきたということが窺える。盛山はナイツの塙に、漫才中に髪を触るという所作を指摘されていたくらいだが、そんな二人が、技術を得て、見せ方を工夫してきたのだから、そりゃあ強いに決まっている。重みのあるボケはそのままに、贅肉が削ぎ落されていてシャープで、立川志らくが「喋るの漫才と動きの漫才のバランスが物凄くいい」と評していたように漫才としても良いネタだし、見取り図の漫才としてはさらに完璧な一本目だった。
見取り図の信頼出来るところは、エミネムビスマルクといった明らかに旬じゃないボケを入れてくるところで、そこが味になっている。長髪と友達になりたい。
 好きなくだりは「何で、押し返せるぅ」、「あと、車ないん!?」、「釣瓶ぇ!!」。

 

■5組目 おいでやすこが「カラオケの選曲」
 おいでやす小田の「えぇー、先日僕たち、寝て起きたら漫才しか残ってませんでした」というツカミは、ほとんど「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。」だ。
 おいでやすこがは、ピン芸人同士が組んだコンビで、情報が無ければないほどに爆発することからも、優勝の縦軸に入れた人もいたことだろう。
カラオケで歌っても盛り上がらないというこがけんの相談を持ちかけられた小田が、こがけんが実際にどんな歌を歌っているのか教えてもらうけれども、どれも分からない、という設定のこのネタは、3曲目で小田が「何やねん、その曲!!きっしょい歌―!!」とつっこむことで客席にネタの仕組みを理解させ、手短かに、だけどしっかりとチュートリアルを終える。
 言ってみれば、答えが「知らん曲」という大喜利を重ねていくという単純な構成なのだけれども、単純がゆえにルールの説明を簡素化出来るし、その道のりの多様さが際立つし、配置もきちんと尻上がりになっているから、ハマった時のグルーヴがとんでもないことになっている。
 「さんぽ」っぽい曲の「アルコール除菌、消毒手洗い、リメンバー」というコロナ禍で作られたっぽい曲から始まり、「TUNAMI」っぽい「見つめ合う時はビューティフルデイ、決まってビュティーフルデイ」、「LEMON」っぽい「あの日のかな、それともその日のやつかな」、「世界にひとつだけの花」っぽいイントロから入り「墓石を荒らすならず者たちぃに~」、「前奏は分からないけれど歌が入ったら絶対分かる曲」と言っておいて全く知らない歌を歌う、「さくらんぼ」で始まって知らない曲になって「さくらんぼ」に戻ってくる、小田和正の「さよなら」を歌って「ただ、盛り上がるかぁ!!」で回収、最後に「西野カナ」を歌うと思わせておいて、それが曲名で、かつ「LEMON」っぽい曲に戻る円環構造を作り、綺麗に落ちる。
 そもそもが、一人で舞台に立ち続けてきた二人。漫才に関しての技術は他のファイナリストと比べると劣ってしまうかもしれないが、表現力に限って言えば、負けていないどころか、この二人がツートップだったかもしれない。そして、掛け合わない歌ネタという、漫才の技術よりはピン芸人としての技術が活きる設定というのも見事だ。
こがけんの歌唱力、小田の真剣に相談に乗ろうとしている表情から爆発する感情の静と動の使い分け、こがけんのとぼけた顔と、二人とも表現力が抜群で、二人が思う笑いが完全に具現化されているようにも思えてくる。笑いを邪魔してしまうノイズが完全に除去されていたり、フリをフリっぽく思わせなかったりと、ベテランピン芸人の手練手管が光る。
 小田の「人と会話するつもり無いんやったらぁ、壁に向かって歌ええ!」という叫びもフリにして、ボケるなど細かい部分などからも、こがけんの何を考えているのか分からない感じが表現され、話が通じないとキャラが成立している。そしてこのことは二本目でも活きてくる。
 ここまで、しのごの言ってきたが、単純に楽しすぎるネタだった。
 おいでやすこがのブレイクをきっかけに、さらに芸歴十年以上のピン芸人同士の漫才コンビがどんどん出てくるかもしれない。R-1ぐらんぷり、じゃなかった、R-1グランプリの運営スタッフは、漫才師にとってのパンドラの箱を開いてしまったのかもしれない。
 好きなくだりは、ツカミ、「火曜まで待ったぞ!」と、「さくらんぼっぽい曲を歌って、こがけんが壁に向かうまで」。

 

■6組目 マヂカルラブリー「フレンチ」
 おいでやすこがのツカミが文学なら、続くマヂカルラブリーのツカミは、正座をしてせりあがってくるという、『M-1』どころか、漫才史上最速のツカミだった。
 前半の大事な一分をゆったりと、「テーブルの上に並んでいるフォークとナイフは端から使う」「店内では静かに」「料理が全部終わったら、お皿の上にフォークとナイフを斜めに置く」というマナーの説明に使う。この部分で、野田が村上からのアドバイスを真剣に聞いているからこそ、走ってきた野田がガラスをぶち割って店内に侵入するというボケで最初から爆発できた。店に入ってから、最初にフッていたフレンチを食べるときの初歩的なマナーを全て、むちゃくちゃな野田の動きを軸としたボケで回収していく。「ドアから入って」と村上に言われたら、きちんと「ドアから入っている」と言われたことは守っている。ただ、言われたことは守ろうとするけれども、間違ってしまうという構成は、落語の与太郎ものに類型される。
 村上のツッコミもタイミングが完璧な最初の「はい、違うよ!」から始まった、「違うよ」の連呼も、漫才の根幹を成すリズムになっているので、村上がドタバタしているだけではない心地よさが産まれている。
 野田のムーブで笑っているところに差し込まれる村上が「城の門が開かないときの開け方してる」「デーモンじゃねえか、言うなれば」も良い。あと単純に村上のほうが声は面白い。
 野田の動き、村上のツッコミ、ともに何かが吹っ切れたようにキレキレでがっちりと双方の歯車がかみ合っていて、だからこそ、しっとりとオチていくというパターンも合っていて、終始バカバカしさに徹底する様も格好良く、最終決戦進出も納得の漫才だった。
 好きなくだりは「城の門が開かないときの開け方してる」、「デモンがフレンチじゃなく俺ん家に行って野田に怒られたところ」。

■7組目 オズワルド「畠中の改名」
 『マイナビ Laughter Night』のチャンピォン大会でのネタと、決勝と同じネタである「畠中の改名」を『M-1グランプリ2020』の準決勝を見て、M-1優勝予想三連単は、オズワルドを軸にするしかないと思った。リーガルセンタ・万吉までは思い出せないが、おぎやはぎが『M-1』に出続けていたら、こんな進化をしていたのではないかという凄みと夢があった。
 畠中が「はたなかって母音が全部あ段だから、ずっと口が開きっぱなしになってしまう。その間に誰かに口のなかに何か入れられそうで怖い」という理由で改名したいという相談を伊藤にもちかけるという、日常において全く存在する意味を全く見いだせないほどのミニマムな会話なのだけれども、がっちりと心を掴まれて全く飽きさせない。それは、最初は口に入れられるのは「何か」という話だったのに、いつのまにか寿司になっていて、さらに、伊藤の方が「畠中」という回数は多いはずだから、伊藤の方が寿司を入れられる可能性があるとなって、最終的には、伊藤が「ヒティニキ」になるという展開がドラマティックだからだ。
 よく言われる「展開が欲しかった」という言葉における展開というのは、「泣き」や「友情」などのドラマ的な流れではなく、ゴールが見えないことが求められているということだと分かる。
 「畠中、改名すんの」「だって見てて。は、た、な、か。もう終わってるよね。」「なんか、始まってました?」という、半歩先を行く伊藤のツッコミを見て、オズワルドの漫才が始まったぞ、とワクワクするくらいには、オズワルドの漫才が大好きだが、オズワルドがオズワルドたるテンポをぎりぎりで保ちながら、大きくウケさせたいところを外さない。
 個人的には、ダレる部分がないわけではなかった昨年と比べて、明らかに正当な進化をしていると思っていたが、このオズワルドにどういう進化を求めるのかというところは、審査員にとっても悩ましいところだったのかもしれない。
松本が「オズワルドには僕は、静の漫才をちょっと期待していたんですけど、たぶん彼らなりに修正してきたことで、後半だいぶこう割とうるさぁーくなっていったのが、なんかずっとなんか、静かな感じでオズワルドは見たかったなーって思っちゃったんですよね」と評した反面、オール巨人は「もう少し伊藤くんが最初からもう少し大きな声でツッコんだらどうですか」と評し、意見が割れるという一幕もあった。
 点数が発表された後の、伊藤の「まじかー」という顔が印象的だったが、ほんとうに、難しすぎる宿題をオズワルドは出されてしまった。
 好きなくだりは「はまやまくまかまえまれま」「ちょっと待って、早く帰れですって、俺、激キモ通訳じゃねえか!」と、「だから俺がヒティニキから改名するの反対してたんでしょ」からの「こいつ、俺にびびりすぎて、畠中のことヒティニキって言い始めてるんですけどー!」。
 
■8組目 アキナ「ライブ前の楽屋にて」
 アキナの漫才は全くハマらなかった。40歳の男性芸人が、地元の同級生の女の子を好きになるなんて有り得ないというひっかかりが生じて、設定に全く乗れなかったというのが大きな要因だ。「好きなん?」というばらしも早すぎる。
山名が地元の同級生を好きになるには相応の理由が必要だが、そこが全く見えてこない。もっといえば、楽屋に挨拶に来ているはずの女性の姿も見えてこないから、書き割と一緒で、奥行きもないからドラマも産まれない。
 設定と高い技術がマッチしておらず、そうなると、ただただ技術を見せつけられている気持ちになってきてしまい、どんなに抑揚が付いていたとしても単調に感じられてしまう。細かいことついでに言うと、楽屋挨拶は一般人には終演後という印象が強いので、ライブ前という設定も違和感があった。
 売れて東京で単独ライブし、女優などの有名人が楽屋挨拶に来るということのほうが、山名の滑稽さ、悲哀さを際立たせることが出来たのではないかと思うが、やはり、どう考えても、年相応のネタではなかった。
 ネタ作りをしているアキナの笑い顔が見えてこないようなネタだった。
 好きなくだりは「でんぐり返し」。

 

■9組目 錦鯉「CRまさのり」
 物語は、一年前の敗者復活戦でのまさのりの「一文無し参上!」というツカミから始まった。基本的にこの一年と、その前からの錦鯉と比べても、そんなに進化していない。変わったことといえば、錦鯉を差し色の如く番組に登場させていた『シンパイ賞』のスタッフの尽力が後押ししたことによる観客の受け取り方くらいだ。加えて、まさのりの年齢が50にさしかかったことで、不気味の谷ならぬバカの谷を抜けきったことで、悲壮感すらも笑い飛ばせるようになった。オール巨人は、漫才の適齢期について40代までと話していたが、長谷川雅紀にとっても「まさのり」の適齢期は昨年の48歳からだったのかもしれない。もちろんその期限は永遠だ。まさのりの遺影を見たら笑ってしまいそうな自信がある。
 ネタは「CRまさのり」。「4・8・リーチ」というボケを始めとして、コロコロコミック編集部が想定するコロコロコミックの読者層までか、48歳以降しか映えないくだらなさに満ちて、最高に笑いました。ネタの間は、「それは高知だ」のくだりが難しく思えるほどに、知能指数は下がっていたと思います。惜しむらくは一発目のリーチがあまりにも早すぎるところで、そこでもう少し遊んでも良かったような気もする。
 「レーズンパンはぁ~、見た目で損してるぅ」、「キャラメルはっ、銀歯泥棒!」、「数字の7が転んだら、へ!」とギャグも、客席にいる対観客ではウケているのか外しているのか分かりかねるという塩梅なのも、パチンコの演出でウケていることになっているというのも絶妙だ。
 まさのりがコンビニのレジ横の饅頭を我慢できたら大当たりという「まさのり我慢リーチ」のくだりの、渡辺の「我慢しろー!まさのりさーん、大人なんだから!お饅頭をっ、我慢しろー!!」というツッコミも、「大当たりのため」と「大人だから」という二重の意味になっている。他にも、渡辺は、パチンコ台へのツッコミと、まさのりへの直接のツッコミを効果的に使い分ける。
 好きなくだりは「キャラメルはっ、銀歯泥棒!」「わー!!」「あ、ウケてるウケてる。演出がウケてるからウケていることになっているんだ」から「レーズンパンは見た目で損してる」。

 

■10組目 ウエストランドマッチングアプリ
 ウエストランドについて話すと、普通の人より少しだけ長くなってしまう可能性があるが、良いだろうか。社会人になる数カ月前に初めて東京でお笑いライブを見に行って、そこでひと目惚れしたラブレターズが、ちょうど、ASH&Dに所属することが発表されたライブだったということもあって、ラブレターズは勝手に同期と思っているが、そのラブレターズウエストランドのことを同期と思っているのだから、じゃあ、俺も同期じゃんとか、そういう話はどうでもいい。地元でタイタンシネマライブが見られるようになってから、数年経つが、その時からほぼ欠かさず、二カ月に一回、劇場に足を運んでいるが、そこからずっとウエストランドの漫才を見てきた。ある意味では、タイタンライブにおいて、タイタンには爆笑問題以外にも漫才師がいるという重責を担っていたところもある。
 だから、ライブごとに見るネタが、河本の喋るパートが増えるなどして微調整されて新たな型に繋がりそうだなと思った時は嬉しかったし、いまいちだった時は落胆も大きかった。
 準決勝の漫才を見て、ここ数年で、一番仕上がっていて、ダイジェストになっていて、分かりやすくもあって、でも深みもあって、説明書になっていて、完璧じゃないかと思っていたら、本当に決勝に駒を進めることとなった。雨が降ろうが、仕事が積まれていようが、子供が産まれた翌月だろうが、転勤して一番近い映画館が山を二つ越えないといけない映画館になろうとも、ぜんじろうが出演しようとも、敬虔なクリスチャンが日曜日に教会へと向かうかの如くタイタンライブに通い続けたこの目に狂いはなかった。 
 タイタンの漫才師が『M-1グランプリ』の決勝の舞台に立つということ、それは、5番6番が、爆笑問題の太田に漫才を見てもらって稽古してもらうという、滅多にやらないことまでやった結果、タイタンライブで受けたんだけど、5番6番の二人は「こうまでしないと受けないのか」と心が折れて解散してしまった話と、ゲームが好きな樋口が芸人を廃業するにあたって、伊集院光とゲーム対決をした最高のトークのことまで遡って思いを馳せてしまう。
 基本的には、この数年、ずっと井口が言っていたことで構成されている漫才なので、理屈っぽいネタなので、客席が疲れて始めていた後半だからか、不倫したいという入りが良くなかったのか、スタートダッシュが切れなかった印象を受けた。
 ダウンタウンの松本は、審査コメントにて「将来性は相当有望だと思いますね」と述べたが、ウエストランドに将来性って、これまでの経緯を知っていると割と残酷な言葉でもあるんだけど、ここから賞レースの呪縛が解けたウエストランドがさらに自由なネタをやってくれることを信じたいと思いますし、何より、松本が90点を点けたということには、やはり思うところがある。
 決勝が決まり、M-1直前のタイタンライブでは、そのお祝いとして、爆笑問題とのツーショットトークがあった。「賞レースで決勝に行く」と言われつつも何年も行くことが出来なかったウエストランドは、ある年の忘年会に喫煙所で、太田に「開き直れ」と言われたという。その時はあまり理解できなかったが、今年のコロナ禍という漫才師にとって部達もない、だから新ネタもおろせないという最悪な状態で、その言葉の意味に辿りつき、さらけ出したことも含めた全てをさらけ出すようなネタをしたら決勝に行けたという最高な話も聞くことが出来た。「ウエストランドに将来性なんてねえよ!」と言って良いのは、色々な意味で太田さんだけだ。
 好きなくだりは「統計だから偏見じゃない!」、「お笑い好きな子は、こんなやつ好きじゃないから。お笑い好きな子は仲良しコント師が好きなんだよ!」からの「悪口漫才師が好きなやつ、この世に一人もいないから!」。

 

■決勝ラウンド 1組目 見取り図「地元の人に愛されたい」 
 地元愛がゆえに、互いの地元をさげすみ合うという掛け合いに重点を置いた漫才を披露した見取り図。コント漫才となっていた一本目と趣向を変えてきて、準備は万全かのように思えたが、やはり一本目よりも練りきれていなかったのかもしれない。
 それでも、こちらが一本目だったら決勝ラウンドに上がれていなかったかもしれないし、1組目じゃなかったら、もう数票得票していたかもしれないし、こればっかりは分からない。
 その悔しさたるや、想像するだに胸に迫るものがあるが、見取り図は着々と順位を上げているだけに、来年に期待したい。例えば、盛山については色々と受け取り方が分かってきた部分もあるが、まだリリーについては分からない。リリーの人となりが分かるようなネタを見てみたい。
 好きなくだりは「成人式、市長の方が暴れるらしいな」、「グリコ見たことある?」からの「ただの暴力じゃない!?俺一応ルールにのっとってやってんねんから」、「見取り図が明石で待ち合わせしてるだけやんか、ネタ合わせしてまうわ」。

 

■決勝ラウンド 2組目 マヂカルラブリー「電車」
 準決勝で披露したこのネタを、二本目に持ってきたのは英断だった。おいでやすこがの二本目についても言えることだが、一つのお題で4分を走りきらないといけないそれぞれの二本目よりも、お題が複数あるそれぞれの一本目のほうが、部分で外しても、別の部分でウケを取り戻せ、挽回出来る可能性がある。ただ、漫才師に対して理解があれば、一つのお題で突っ切ることが出来るし、そのほうがグルーヴが生まれやすい。
 「吊革につかまりたくない」と言って、電車に乗り込んで、その揺れに耐えるのを実演するけど、実は殺人的な列車だったという設定で、一本目と同様に、動き回って電車内を動き回る野田の状況を、村上がさりげないツッコミで補完していく。ここでは、村上は野田の動きと対話しつつ、観客の橋渡しを担っている。
 あんなに酷い車内なのに、車内販売を利用したり、トイレに行こうとするなど普通に乗車しているのも面白い。トイレで小便をするくだりは、引かれてしまう可能性も捨てきれないのだが、そのくだりが出てくる頃には、すでに観客は笑わされ過ぎて、判断能力を低下させられていて倫理観が奪われているので、その行為のバカバカしさだけを抽出して大笑いさせられた。これも見事だなと思った。
 ただ一つだけ解せないのは、野田が降りようとしていたのが、準決勝での神田から、お茶ノ水に変更していたことである。神田だと、野田が神保町花月に行くことを連想出来たので、奥行きがあって好きだったのだけれども。
 好きなくだりはトイレのくだりと、「サンドウィッチ~」「ひとつください!」からの「何でいけると思ったんだ!おい!舌噛むぞ、こんなとこでサンドウィッチ食ったら!」。

 

■決勝ラウンド 3組目 おいでやすこが「バースデーソング」
 人前で歌うのが苦手な小田に対して、「ハッピーバースデー」の歌い方を指南するという設定のネタ。こがけんが歌い始めたところで、「無駄に上手いすよね」という間のつなぎ方も絶妙だ。ふと思い出し、一本目をもう一度見てみると、一本目では、曲そのものには小田はつっこんでいるが、この「無駄に歌が上手い」を回収していない。一本目の後半で、大声で「ほんで、歌無駄にうまいな!」ということもできたはずだが、それをしていない。確かに、一本目で言うことも出来るがあえて言う必要はなく、だからこそ、一曲で走りきる二本目で、この導線を持ってくるのが見事だ。
 こがけんフラッシュモブ的な動きからの「これ祝れてる人おんねやろ!地獄の時間やないか!」というところも、おいでやすがピン芸で培った、いない人を表現する技術が、その面白さを増幅させる。
 好きなくだりは「聞こえてるやんな」からの「はい」「聞こえてるやんけ!余計怖いわ!ほんだら!夢中で聞こえてんほうがええわ!」、「ケーキは別の奴に運ばせろぉ!!」.

 

 マヂカルラブリーの優勝で幕を閉じた『M-1グランプリ2020』は、マヂカルラブリー3票、見取り図2票、おいでやすこが2票といった評の割れ方まで美しかった。
 それこそ、この記事を書くために、偽物の「Because We can」に違和感を覚えなくなるほどに、何度も何度もネタを見るわけだが、例年よりもどの漫才も再鑑賞に耐えうる面白さがあった。見れば見るほど、ここ細かいけれど、好きだわーという部分が見つかるからいくら書いても終らないといえば終わらないわけである。おいでやすこがの一本目の、こがけんが「グッバイサンデー」を歌いだして、小田が「火曜まで待ったわ!」とつっこむまで、ちゃんと体を揺らしてリズムをとって、本当に待っていることに5回くらい見てやっと気がついて、また笑ったりしました。
 世界中、どんなジャンルを探しても、一年で大きな進化を求められるものは、漫才以外にないだろう。それは舞台が一時止まってしまったコロナ禍の日本においても変わらなかった。むしろ、舞台が止まってしまったからこそ、自分達の漫才を見つめ直したことで進化した部分もあるかもしれない。マヂカルラブリーの優勝について、ミルクボーイによるテキストの笑いが優勝した反動で、「漫才」そのものが、野田の身体性を求めたとも意味づけることも出来るが、そんなことは、誰かにお金を貸していた気がすることくらいどうでもいい。
 結局は、個々のプレイヤーそれぞれが、自分達が思うそれぞれの進化または深化を模索していくことによって生まれた結果のみが、ジャンル全体を進化させる。そのジャンルの進化に影響を受けて、個々のプレイヤーが拡張させていく。この作業が繰り返されるだけである。
 真空ジェシカの川北は、「漫才はぷよぷよ体幹」と定義するが、『M-1グランプリ2017』における屈辱から三年かけて、上沼恵美子とのアングルを暖め、漫才に留めず『R-1ぐらんぷり』にて優勝、ゲームの製作など、連鎖のためのあらゆる種を巻き、ミルクボーイのテキストの笑いの翌年に、動きの笑いで攻めるということを考えると、あながち川北は間違っていないのかもしれない。マヂカルラブリーの優勝によって、体幹を使った笑いも見直されるかもしれないが、それは何年も後に振り返ることでしか確かめられない。
 演者は舞台に立つだけだし、観客はそれを見るだけだ。来年がどうなるのかなんて全く分からないが、そこは変わらない。形が変わるだけである。オープニング映像のVTRで、漫才師たちがマスクを取る映像を改めて見返してみて、逆に少しだけ前向きになれた気がする。こんな状況下において、進化を重ねた漫才師だけでなく、関わった人々に感謝の言葉を述べたいと思います。お笑いのある年末を作ってくれてありがとうございました。

 最後に、やっぱりこういう記事を書いている身としては、侃侃諤諤の議論が巻き起こっているあの論争について、どうしても触れないといけません。
 そう、「準決勝のライブビューイング見に行くべきか問題」です。これはちょっと難しすぎますよね。分かります。実際に昨年は、悩みまくった末に、見に行かなかったのですが、ミルクボーイに初めて出会ったのが本戦ということだけを取っても、個人的には大正解でした。今年も悩んだ結果、まあ、全く知らないってコンビのほうが少ないから、ネタバレしても大丈夫だろうと踏んで、見に行ったのですが、今年も正解でした。例えば、ウエストランドが決勝に行ったことを反芻しながら帰るその道中の風の冷たさは忘れられないだろうし、マヂカルラブリーの「電車」のネタの「他の乗客が死んでいる」から「倒れている」というマイナーチェンジなどを知ることが出来たことを考えると、やっぱりどっちが良いのかは結論づけられずにいます。
 漫才か漫才じゃないか論争については、漫才とは舞台上にいる人たちが噛み合うことによって構成される対幻想のことを指す。笑いが生じるというのは、漫才師の対幻想が、観客の中の共同幻想に合致する、または流入されていくという現象のことである以上、野田と村上の間で対幻想が発生している時点でマヂカルラブリーのネタは、れっきとした漫才であるって吉本隆明の『共同幻想論』を特集した『100分de名著』を見て、個人的にそう定義したので、あれは漫才です。
 僕から以上!


ツイッターやっています。

芽むしり(RN電柱理論) (@memushiri) | Twitter


電柱理論名義での寄稿です。

qjweb.jp

 

qjweb.jp

 

memushiri.booth.pm