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伊集院光 深夜の馬鹿力(2021.4.6)放送分感想

 2021年4月5日放送の『伊集院光 深夜の馬鹿力』を聴きました。かなりのベスト回でした。
 新しい前の席の笑い声担当が埼京パンダースの河野和夫という、一時的かもしれないけれども、長年のリスナーからしたら座りが良い形に収まったというトークから始まり、この回は帝王と呼ばれ始めたことの弊害として、フワにイジられたことへのリアクションから始まり、Uber eatsで「四川風のモツのピリ辛炒め」を頼んだら猫に食べられて、しかもそのことで妻に怒られた話、『おしん』を見ていたけど内容がつらすぎて落ち込んでいたところに脚本家である橋田壽賀子が亡くなって、いつかは『とらじおと』にゲストとして来てもらって『おしん』の話をしたかったけど、叶わぬ夢になってしまう。そして、三遊亭円楽と寿司を食べに行った話へと入っていく。軍艦島にロケに行った話もとても良かった。
 フワからいじられて思ったことへのトークは、朝から爆笑して聞いきながら脳が滾り、総毛立つほどに興奮して、それは、エヴァンゲリオンを最近見た影響で脊椎に電極を指していたというのもあるけれど、その日は1日、余韻に浸っていたが、それはその内容の痛快さもさることながら、「やっぱり伊集院さんムカついていたんだ」ということも乗っかっている。他にも、「稼げるところまで稼いだらコロナ終りで留学しようくらいのプランが・・・・・・」というくだりで、元ブルゾンちえみこと藤原史織までさり気なく斬りつけているあたりなんて惚れ惚れしてしまう。
 誤解されているのと、お前は長年のリスナーだからそんなこと言ってるんだろうと言われるのも嫌ではあるが、伊集院光は配慮の人だ。例えば、伊集院が落語家ということを隠してラジオパーソナリティとして活動をしていた頃に、立川談春立川志らくらに、そのことを番組中にばらされそうになるという話は、そこだけを聞くと、この二人は、ひどい奴らだなとなるが、これから売れようとしている当時の若手同士、さらには落語という伝統芸能を背負っているということへの思いというのは、そこだけでは測れないものであるという説明をさらりと挟んでいたりする。そういった心遣いというか、誰かに何かを言われない、怒られないことへの細やかなフリについて、人一倍気を使う人だということはリスナーならば理解しており、だからこそ、冒頭でいきなりフワについて話したことが面白すぎるのである。余談だが、深夜番組の中では相当の長寿番組となっているこの番組だが、恐らく、一番と言っていいほど、その週初めて聞いた人に優しい番組となっている。その位、説明などを入れてくれるし、それが嫌みったらしくないのが、伊集院光という男の話芸なのだ。
 フワや神田伯山からの、下からのツッツキに反応したというトークゾーンをだけを切り取って、伊集院大人気ねえだとか、いや、伊集院さんは身に振る火の粉を払っただけだとか、伊集院の行為の正しさを問うことは簡単だ。むしろ、そこに陥っている人は、SNSに毒されているとすら僕は思う。長年のリスナーは、伊集院光という存在の全て正しさを求めていない。少なくとも僕はそうだ。勘違いされては困るが、番組でのトークに引いている時は引いている。子供の頃の写真をヤギに食べさせていた話なんて、ドン引きだ。 
 あくまで、フワに関するトークは、師匠である三遊亭圓楽と寿司を食べに行った話への照れ隠しであり、自分でその話を低い水準に持っていくという行為だと受け取った。その目論見のとおり、この話をしたことで、この回は、ウェットな神回になり損ね、問題回またはベスト回となった。
 2時間を通しで聴き終わったあと、とても満たされた気持ちになっていて、その理由と、「わ」から始まる単語でどうやって芸能人の悪口を言うかを考えていたけれど、ある瞬間、その答えに気がついた。
 この日の放送は、生きていくということそのものじゃないかと。 
 皆がなぁなぁにしていることに大人気なくムカついたりして余計なことを言ったり、予想外な失敗が降りかかって間抜けなことになった被害者は自分のはずなのに何故か怒られたり、やれたら良いなと思っていたことに間に合わなかったことに気がついて後悔したり残念な気持ちになったり、自分だけが正しいと思って誰かと競い合ったり、そのことを振り返って自分の若さと過ちに気付いてを反省したり、余計なことを言いすぎたと反省したり、身勝手な行動の後始末を知らない間に誰かにしてもらって助けられていたり、生きていくということは、それらの積み重ねで総じてみっともないけれども、寄りかかれる人がいるだけで、捨てたもんじゃないと思えて、また明日から頑張れる。
 例えば、伊集院は、自身と圓楽のことを「神と信徒みたいなものだから」と例えていたが、それこそ、先代の三遊亭圓楽と今の三遊亭圓楽伊集院光とリスナーがそれに当たる。それだけじゃない。伊集院が話していた『おしん』のあらすじや、軍艦島にまつわるエピソードの数々もまた、生きていくということを感じさせるもので、入子構造のようになっている。トークは過去と現在が行ったり来たりし、時間軸が混沌と、しかし秩序を保ったまま存在する。これこそが伊集院光トークの真髄だ。どのエピソードも、一ヶ月に一回出れば嬉しいかなというレベルのものだが、それが一週間に一気に聞けたのだから、そりゃあ満足するし、興奮する。本人も最後に「なんかー、6時間くらい喋ったような気がすんなぁ、今日は。遠ぉーい昔のようだよ、オープニングが。」と、こぼすはずだ。
 伊集院光、ここにあり、という放送だったと思います。