石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

まードキュ後夜祭、あるいは。

 まードキュこと、「まーごめ180キロ」の配信が終わり、一週間が経とうとしている。期間中はいつでも見られるように、MacBook Airのネットのタブに残しておいたがもう見られない。心なしか、ビッグマック一個分くらい、MacBook Airが軽くなった気がする。

 SNS上でも好評であった反面、いくつかの場面を重く感じてしまうこともあるという感想も散見されたことで、見るのをためらった人もいるように思える。実際、家族のシーンは、もちろん笑いを持って対処されていたが、少なからず、自分が大鶴肥満であれば、恥部と感じてしまうだろうし、いじめられていたことを話すシーンも、同じような境遇にいた人は見なくても良いだろうと思う。実際、大鶴肥満はまだまだあいつらに勝てているとは言えないからだ。

 配信の延長が決まったことの告知の画像には「一番恐れるのはこの食欲が風化してしまうことだ」というキャプションがついていた。これは、まードキュの要所要所で出てくる「HUNTER×HUNTER」で、クラピカという、キャラクターの「一番恐れるのはこの怒りが風化してしまうことだ」のパロディである。クラピカは、クルタ族という部族の出だが、クルタ族は、クラピカを除き全員が虐殺されていて、その犯人たちを追うために、ハンターを目指している。つまりは、怒りを原動力にしているという意味では、大鶴肥満と同じであり、ここを引用するというセンスは、本質を外していないという意味であまりにも的確すぎて、本当に凄い。

 「まーごめ180キロ」を振り返っていて、好きを言語化するのは、余り好きではないが、しかし案外、いや、やはりというべきか、自分を掴むカギはそこにあった。怒りである。大鶴肥満の、学生時代の話や、特に家族の話を聞いて、自分はもっと怒れば良かったのか、と気づくことができた。ストレスが全て食欲に向かう粕谷明弘が、怒りを原動力に進み続けた結果、大鶴肥満となり、まーごめを得て、相方の檜原や仲間たちと出会っていくという話に、デトックスをしたような気持ちよさと、途轍もない憧れを感じてしまう。

 小学校6年生の頃に、教室にワープロが置かれていた。それで友人と、当時ハマっていたドラクエか何かのライトノベル的な文章を書いて笑い合っていたら、のちにアムウェイをする知念とかにいじられたことがある。中学校も、大宜見とか、平安山とかに、一度小学生の時に、言われすぎて泣いたあだ名をずっと言われたりしていた。ほんと、人の顔色とかうかがって生きていたと思う。なんか、名前が沖縄丸出しなのがすごくブレるな。同じ中学校まで通っていた人は、三人くらい以外、全員死んでも別に何とも思わないくらいには、中学生以前が嫌いだ。

 加えて、家族である。今は付き合いが普通にあるのだが、祖母がユタということもあり、母親は、ものすごく大雑把に言えば、土着の信仰を持っており、さらに雑に言えば、ジョジョの奇妙な冒険の第六部のケンゾーのドラゴンズ・ドリームくらいに方向を重視し、高校を選ばれるくらいには行動に制限を受けていた。大学に入ることになり、新しい家を借りるときに、不動産屋がいる中で、コンパスを取り出されたときの恥ずかしさたるや、という感じだ。かつ、子供の頃から、大人なったら墓を守る的なこと、つまりは地元に帰ってこなければならないという話を聞かされ続けてきた。これもどこまで正しいのか分からないのは、母親はそのことの理由などを話さない、父親は無口という未曾有のバイオハザードレベルの組み合わせだからだ。

 今思えば、なのか、今思っているからなのかは分からないが、基本的に何をやっても意味がないという人間になっていた。実際、大学を卒業した後は、就職もしなかったわけだし。

 これは毒親なのだろうか。大鶴肥満も、毒親ではなくて、ただ性格が合わないだけみたいなことを文章にしていたので、その気持ちは分かるのだが、これこそが、バイアスがかかっている認知なのだろうか。そればっかりは分からない。

 ただ、細かいニュアンスすら覚えていないが、大学を卒業した後も東京や本土に残っても良かったという話を母親がした時の、筆舌に尽くし難い感情は、今も信頼関係の大きな溝となっていることは間違いない。

 ラジオにメールを送るようになって採用されたり、ネットにアップした文章が面白いと言われたりすると、なんだ、俺才能あったんじゃんと思ってしまうが、幾許かの虚しさがたまに押し寄せてくる。

 他者からのストレスが、俺は何をしても無駄、馬鹿にされる、拒否される、という内に向かってしまい自己肯定感を萎縮し続けた自分には、俺はお前らとは違うんだ、何者かになってやるという気持ちとなって外に向かうということが足りなかったがために、一歩を踏み出せなかったんだなと思っている。

 もちろん怒りは虚無だが、そんな虚無からの一歩ですらも、眩い未来につながる可能性があるということを示したという意味では、やはり、まードキュは名作ドキュメンタリーと言える。

 一つだけ言うけど、全然、今幸せですからね。伊集院さんに、面白いって言われたことありますし。